序章
うとうと、と。微睡んでいるその頬に、優しく吐息がかかる。
温かい。
何故だろう。自分が寝ているのは雪の上だ。瞼の裏にうつる白さは、数刻前から降り続いている吹雪の色。膝上くらいまで積もった白い雪の上に大の字になり、そのまま身動き取れずにいた柳は、少なくとも自分を抱く雪より、その女のささやきを心地よく、また温かく感じた。
「あら」
女は、笑っているようだ。
「お髪が白いので、初老の男性かと思いましたが…若い天狗様でしたか」
大天狗の柳が目を開けると、そこにいたのは、腰が隠れるくらいの黒い髪を風になびかせた、やけに色の白い女だ。揃えていない前髪の隙間からは、すっと筆で引いたような目鼻。小袖に裸足という格好だが、この雪景色には驚くほど溶け込んでいる。
「不本意だが、よく間違えられる」
柳は苦笑した。後ろで一つに束ねた白い長髪は、まだ20代半ばに見える柳の顔に、不思議と似合っている。細くややつり上がった目と通った鼻筋、そして男らしい頬骨に、貫禄があるからだろうか。
その厚い胸板や体を包む修験者装束も白く、降る雪とすでに同化しているようだ。
「羽も白いのですね。雪に埋もれてますわ」
女は、かがんで大天狗の羽に触れた。白い大きな羽は、広げれば吹雪にも負けないほどだろう。雪と一緒に、女の髪が舞い上がる。
「お前は雪女なのに髪が黒いな。烏天狗のようだ」
ふふ、と女も笑う。口元から漏れる息は、ほんのすこしだけ白い。
「あなたなら」
声は発せられた途端に雪の結晶に変わり、柳の顔の上に落ち、弾けた。
「口付けをしても温かいままなのかしら」
それは質問のようでいて、独り言のようにささやかだった。柳は再び眠気に呑まれそうになっていたが、目の前の雪女に挑戦的な表情を向けた。
「試してみるか?」
雪女は袖で口元を抑え、さもおかしいという風に笑う。
「止めておきましょう。山の天狗達を敵に回す度胸はありませぬ」
「そうか」
柳が答えると、雪女は立ち上がり、その場で一度片足を軸にするようにゆっくりと回った。雪が風に巻き上げられるように集まり雪女を包んだが、すぐに周りの吹雪と同化する。そして、雪女も消えていた。
「…帰ったか」
再び目を閉じた柳の耳に、遠くから自分の名を呼ぶ少女の声が聞こえた。寝たままかろうじて視線を向けると、雪の中でもよく目立つ、黒い影が見える。烏天狗の羽だ。
肩までの黒い髪を乱し、羽を盾にしながら近付いてきた少女に返事をするように、柳は自身の白い羽を少し動かした。吹雪の中でそこだけ雪が不規則に舞い、風の流れを感じた少女が、羽をそちらに向ける。
気づいたらしい。
「…柳!」
近付いてきた、まだ16、7歳ほどの修験者姿の少女の垂れた目尻は一層下がり、顔には安堵の表情が浮かんでいる。黒い羽には雪が所々固まっていて重そうだ。
しかし少女が膝をつくと、そのままふわりと黒い羽は柳を包んだ。
「藍、無茶をするなとあれほど…」
そう言いかけた柳の唇を、藍が塞いだ。ゆっくりと、温かい息が、口から体全体に行き渡る。しばらくそのまま、藍の唇や頬に添えられた掌から伝わる温もりを、柳は堪能した。
生き返るというのはこういうことか、と柳は指を少し動かしながら笑い、その笑顔を見て藍もほっとしたようだ。
吹雪は、もうじき止むだろう。
そして、閉ざされた雪山のどこからか、人間の男が見つかることだろう。雪女に惑わされ、身も心も凍てついた哀れな男が。