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オレンジの花

作者: 来依

私はしがない小説家だ。これといって特徴もなく名が売れているという訳でもない、無名の作家だ。ベストセラーになるほど本は売れなかったがそれでもそこそこは売れていたので生活は送れていた。

作家というのは新たな発見あってこそのようなものであると思うのだが、私は退屈に溢れ虚無感に包まれた世界で寿命を食い潰し日々を淡々と生きていた。お陰で一向に筆は進まぬままである。煤に塗れた黒煙の中で彷徨っているような気分はいつも晴れぬままだった。

時折、部屋に篭もるのも嫌になって何処か知らぬ所へ行こうと行き先も確認せず電車に乗ることがあった。流れる景色をぼんやりと動く箱の中から眺めていた。今日が丁度その日であった。

ふと車内を見渡した。変わらぬ景色に飽きてしまい、それでいて何も浮かんでこなかったのだから本当に仕様がない。また時間を無駄に食い潰すのは御免だった。ついと右の方を見た所で私の動きは止まった。隅の方に腹の膨らんだ女が座っていたのだった。見ただけで子を宿しているのだとわかるほど腹は膨れていた。女はうたた寝をしているのか、時折首をかくんと動かした。

あの腹の中に子がいるのか。私は妙に嫌な気分になった。腹の奥底からどろりとした何かが溢れ出しそうだった。私は慌てて視線を逸らし、窓の外へと意識をやった。そうして次の駅で私は足早に動く箱の中から出た。女は、まだうたた寝をしていたようだった。

___帰路を歩きつつ、私は一人の友人を思い出していた。

その人は、女とも男とも言えぬ友人であった。何よりその人は性別というものを酷く嫌っていた。

変わり者として遠巻きに見られていたその人は、同じく変わり者と見られていた私と共に過ごすことが時折あった。極度に他人と関わることを嫌う理由は変わり者と見られるからだというのは早々にわかった。私は其れを聞いて妙な気分になった。お前の何が変わっているのだ。そう聞いたところ、その人は暫く唖然としていた。結局何が変わっているのかは聞けなかったが、「君は本当に変わってる!」と何故か妙に嬉しそうに言っていたものだから、それ以上は何も聞けなかった。

それから暫く共に過ごした。大学を卒業してからも暫く家を共にした。まるで太陽のような人だった。暗く曇って煤に塗れた私の世界をその人は照らしてくれていた。オレンジの花が好きなのだと言うから、オレンジの花を一つ、栞にして渡してやった。一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに破顔した。たまに見せるその顔が、私は堪らなく好きであった。

私が作家として活動し始めた頃、その人は親に無理矢理見合いに参加させられたようだった。酷く青ざめた顔をして見合いに行こうとするものだから私は珍しく必死になって止めようとした。君に迷惑をかけたくはない、と言ってその人は見合いに行った。そうして深夜遅く、帰ってきたその人の目は赤く腫れていて、泣いたのが丸わかりだった。私はその顔を見た瞬間に腹の中から怒気が湧き上がってくるのを感じた。顔がひどく熱くなって、私は思わずその人を抱き締めてぼろぼろ泣いた。溢れて、溢れて、堪えきれなかった悔しさと怒りが、大粒の涙になって零れ落ちた。どうしてあの時行かせてしまったのだと、過去の自分を殴りつけたくなった。あんな激情を抱えたのは後にも先にもあの時だけだろう。結婚させられそうになったと聞いて、私はよく思い留まったものだ。あの時思い留まらなければ私は今でも牢の中にいるだろう。稀に見る英断であった。

その人の親は孫を欲しがっているようだった。だが、その人は性交渉を酷く嫌っていたから、養子なら兎も角、実の子は望めなかった。それを承知の上で見合いをさせたのだ。あの人たちは何も分かってくれないのだとその人はぼろぼろ泣きながら嗚咽混じりに言った。薄っぺらい慰めの言葉はかえってその人を苦しませることは分かっていた。私は何も言えず、ただ泣いているその人を抱き締めることしか出来なかった。カタカタ震える身体を、強く、強く、抱き締めて、同じように私も泣いた。悔しくて、悔しくて、何も出来ない自分が、酷く嫌で……

「私が女だったらよかったのか? 私が男だったらよかったのか? そんなにダメなのか、私が女でも男でも無いと望むのは、そんなに可笑しいのか……?」

「君は何も可笑しくない。何も、何一つ、君を構成する何一つ、可笑しいものなんてない!」

思わず叫ぶと、その人はくしゃりと笑って、

「嗚呼、やっぱり君は変わり者だ」

心底嬉しそうにそう言った。何故だろうか、あんなに好いていたその笑顔を見て私は酷く悲しくなった。

それから1週間たった日、その人は帰らぬ人となった。私が取材に行って帰ってきた時には首を吊って死んでいた。誰がどう見ても自殺であった。私は暫く呆然と吊られた遺体を眺めていた。力の入らなくなった手からどさりと鞄が落ち、ガクガクと震える足では身体の重みを支えきれず、がくんと膝から床へ落ちた。

嗚呼、そうか。死んだのか。それほど追い詰められていたのか。私は君の救いにはなれなかったのか。嗚呼、でも、君が痛みも苦しみもなく逝けたのなら、これ以上苦しまなくて済むのなら、それほど嬉しいことは無い。

ぼんやりとそんなことを考えた。顔がカーッと熱くなった。涙は不思議と零れなかった。あんなにも悲しくて絶望の中にいたにも関わらず、私の目から涙が零れ落ちることは無かった。

ガクガクと震える足で立ち上がり、ものも言わなくなってしまった冷たい身体を床へ寝かせた。あまりよくないことだとは思っていたが、いつまでもぷらぷらと吊られているのを見るのは耐えきれなかった。

机の上には遺書と思われる手紙が置かれていた。私は躊躇いもなくそれを開いた。その時の私の顔は酷く強ばっていたことだろう。遺書には、つらつらと色々なことが書かれていた。私は遺書の最後の文を見て______それからのことは、あまりよく覚えていない。警察を呼んで、事情を聞かれるままに話して、遺族の人と話をして、遺書に書いてあった通りに葬式をして。そんなことをしていたであろう私の頭には、濃い霧のようなものがかかったままだった。

私は妊婦がダメになった。赤ん坊もダメになった。理不尽だとは分かっているが、酷く嫌悪感を抱いてしまうようになった。

もうじき、三年が経つ。オレンジの花の栞を手帳から取り出した。ずっと肌身離さず持ち歩いているのだ、太陽のような笑顔を思い出せるから。

明るいオレンジ色の世界は真っ黒に塗りつぶされてしまった。どす黒い霧に私の世界はつつみこまれている。太陽は暫く見えそうもない。空を見上げても灰色の分厚い雲が視界を埋め尽くす。


こんな気分になったとき、遺書に書かれた最後の文を時折思い出す。あんな言葉、私は望んでいなかったというのに。何も言わなくてよかったのに。言葉にしなくても、分かっていたのに。その言葉は、私の心をキツく締め上げるのだった。


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