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第3話 それぞれの向かう道

『もう一度問います。貴女は何をそんなに急いでいるのですか』


 葵様がそう言った。


『わたしは、その、』


 なんと言えばいいのか分からなかった。

 どこか暖かさを感じながらも、この時はこの美しい女性がどんな人間か分からなかったから。迂闊なことを言えば、どうなるか分かったものではない。

 慎重に答えなければならない。


 そうこうしていると、背後から気配を感じた。


『ちっ、どこに行きやがったんだ吉乃のやつは』


 背筋が凍りついた。

 どうする。このままここにいては、見つかってしまう。


 思考を巡らせていると、目の前に手が差し伸べられていた。


『こちらへ』


 そう言って手を取られ、あっという間に駕籠に入れられた。

 暗闇の中でこちらに歩いてくる足音が聞こえた。


 まずい。まずい。まずい。

 全身から嫌な汗が出て、静かにしたい気持ちとは裏腹に心臓が大きく脈を打つのが分かる。

 ああ、どうか気づかれませんように。


 足音が消えた。それと同時に声が聞こえてきた。


『失礼。こちらに女が走ってきませんでしたか』


『それなら、』


 駕籠かきが答えようとした時、葵様が思わず凍りついてしまうほどの冷ややかな目で駕籠かきを一瞥した。


『あー、いえ。見かけませんが』


 駕籠かきがそう言うと、男は礼を言って違う道へと進んでいった。

 私がお礼を言おうと駕籠から出ようとすると、止められてしまった。


『あの者はまだこの辺を探すでしょう。しばらくそこで大人しくしていなさい』


 その後、夜も更けた頃に私たちは村を訪れ、柊一と権三の元に向かった。

 権三の家に行くと、何やら暗い雰囲気が漂っていた。


『柊一。すみません。少しばかり出歩いておりました』


 柊一と権三が私を認めると、驚いたような顔をしていた。


『吉乃!吉乃じゃないか!

良かった、本当に良かった!探したんだぞ!

大丈夫か。村中探してもいないものだから何かに巻き込まれたんじゃないかと心配していたんだ。』


『いえ、何でもありません。ご心配をおかけしました』


 柊一が吉乃のケガに気づくと、


『なんでもないって吉乃。足をケガしてるじゃないか。いったいどうして…』


 それまで後ろで話を聞いていた葵様が言った。


『この者、吉乃は、何者かに追われていたのですよ。柊一という者。貴方が吉乃の親でございますか』


『いや、親ではない。吉乃は商売仲間なんだ。

それよりも、たいそう立派な服を着ているが、貴女は人に質問する前にまず誰なのか名乗るべきなのではないか』


 不審な目を向けながら柊一がそう言うと、葵様が答えた。


『これは失礼いたしました。私は葵と申します。

道すがら吉乃とぶつかり、目の前が見えぬほど急いでいた理由を聞いていたところ、後ろから来た者にたいそう怯えた顔をしていたものでしたので、ここまで連れてきたのですよ』


『そう、だったのか。それじゃそいつは吉乃の家の…。色々とすまない、恩人につまらない口を利いたな』


『いいえ、私が正しいと判断したことをしただけのことです。

しかしながら、あのような者に追われるのであれば、もう少し注意深く一緒にいるべきなのではないでしょうか。貴方にとって吉乃は大切な人なのでしょう』


『ああ、大切だ』


 私はその言葉がとても嬉しく、なんだか胸がいっぱいになりそうでしたが、そう言った柊一は、どこか虚ろげで、何かに囚われているように思われました。


 話が途切れたところで権三さんが言いました。


『もう外は真っ暗で皆疲れていることだろ~。

たいしたもてなしはできねえが気にせずここで泊まっていくと良い』


『しかし、』


『お~お~、気にするな気にするな。困っているときはお互い様だ。こんな時間にここに来たんだ。

誰かが出て行こうもんなら俺の面汚すようなものだからな』


 権三さんにそう言われては誰も口出しできず、結局皆で泊まることとなりました。



 翌朝、皆で大根の味噌汁をご馳走になり、それぞれ出発の準備をしました。

 葵様が出て行く時、私は改めてお礼を言おうと玄関に向かいましたが、先に柊一が声を発したのが分かりました。


『葵姫。吉乃を、吉乃を一緒に連れて行ってもらえないだろうか』


 柊一の言葉に、私はとっさに柱の影に隠れました。

 胸の奥がざわつき、なぜそんなことを言うのでしょうかと思っていると、葵様も同じお気持ちであったようでこう答えられました。


『何故にそのようなことを言うのですか』


『俺には、前にも大切な人がいた。

その人を失って、ずっと自分の行動を後悔していた。

吉乃を商売に誘ったのは、誰かに優しくすることでその人にしてやれなかった思いを晴らそうという思いが心のどこかであったからなのかもしれない。

でも結局のところ俺は何も変わっていなかった。

近くにいたのに吉乃を助けることができないで、それで、また同じ過ちを』


 私が昨日追われていたことを柊一が気にしていた。


 でも私はそんなことは気にしていない。


 この場で柊一と離れることの方がずっと、そう言おうと思ったところで身体が動かなくなった。


『柊一よ。貴方が言いたいことはそれだけでございますか』


 その時の葵様の顔を見た私は、一瞬世界が氷で覆われているような、いや、身体に刃を突き立てられているような感覚に襲われました。


『そうだ、だから吉乃を…っ!?』


 気付いた時には葵様が柊一の頬を叩いていました。


『身の程を知りなさい。

さほど鍛えられてもいないその身体で、貴方は今回の件について助けられなかったなどと口にする。

誰も貴方のような者にそのような期待はしておりません。

何か勘違いをしているのではないですか。

あの時こうしていれば助けられたかもしれない、もう少しで助けられた、日頃から鍛錬もせずにそのような戯言を言っているような者は、何度そのような場面に巡り会おうと何も変えられません。

しかしどうでしょう、貴方が救えなかったと考えている吉乃自身は、貴方に今でも救われていると感じているでしょう。

それが貴方には分からない。

そんな独りよがりな考え方が前の者との縁も遠ざけたのかもしれませんね』


 びっくりしたような顔をして頰をさすりながら柊一が言った。


『俺は、、、』


『貴方が失ったという人は、本当に失われたのでしょうか。吉乃は貴方に何かを求めていたのでしょうか。これは貴方の人生です。生きている限り、手を伸ばせば届くものはまだいくらでもあるでしょう。

その上で、選択すれば良いのです』


 話を聞いていた私は玄関に飛び出して言った。


『すみません、話は全部聞いていました』


 一呼吸置いて、私は言いました。


『柊一。聞いてください。

私は柊一に感謝しきれないほど助けられました。

あの日から柊一と過ごした日々は、まるで夢のようで、一つ一つがとても色濃く鮮やかに私の中に残っています。

その日々の中で、柊一が何かに囚われているような雰囲気は感じ取っていました。

柊一が倒れた時、うなされて女性の名前を言っていたことも覚えています。

その方のこと、忘れられないのでしょう。

私は柊一にこの世界の多くのことを十分すぎるほど教えていただきました。

もし、今すぐに柊一が行きたい場所があるのなら、』


 私が言葉を話すのに、どうして私の身体は言うことを聞いてくれないのでしょう。

 まぶたが熱い。

 涙が溢れる。

 ちゃんと言わなければ、柊一がやりたいことの邪魔をしてしまう。


『もし、もし、今すぐ柊一が行きたいところがあるなら、私は、笑って見送ります。

何も心配することはありません。

困った時には、ほら、葵様もいますので。』


 勝手なことを言う、そんな仕草を葵様は見せましたが、どこか嬉しそうでもありました。

 ずっと聞いていた柊一が意を決したように言いました。


『ははっ、俺が一晩悩んで考えたっていうのに、どいつもこいつも好きなことを言う。

分かっていたさ。

できることがあるのに、無理だと決めつけて悲劇のヒーローを気取っていたってことは。

ああ、これだけお膳立てされたら俺にどんな選択肢が残っているだろう。仕方がないことなんて全力でぶつかってから思うことだよな。

吉乃、今までありがとう。

吉乃と一緒に過ごすことになって救われたのは、きっと俺の方だ。楽しかった。

葵姫、まさか昨日会ったばかりの女性に叩かれ、怒鳴られるとは思わなかった。

だけど、貴女の言葉はどこまでも真っ直ぐだった。おかげで決心がついたよ。

どこまでやれるか分からないが、頑張ってみるよ』


 憑き物が取れたような顔をした柊一がそう言い終えると、私は葵様と顔を見合わせ、こう言いました。


『いってらっしゃい』


 その後、この出来事をきっかけに私は葵様の侍女になる事となりました。

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