第1話 はじまり
最後の話の途中で、葵様が眠るのが分かった。
その顔は太陽にも劣らぬほど温かな笑顔であり、私はその後も数時間、側で泣き続けていた。
私が葵様と会う11年前。
連日の雨から一転して、雲ひとつなくよく晴れた日に葵様は生まれた。
生まれた時から凛とした顔立ちをし、幼い頃から大事に育てられていた。
けれど、少し元気すぎるのか、家の中を縦横無尽に走り回っては、物を壊して良く怒られていたそうだ。
まあ、幼い頃の話は全て葵様の乳母から聞いた話だから詳しいことは分からない。
でも常日頃から見せる温かな表情を見ていると、やんちゃだった幼少期の面影はどこかに消え去ってしまったと感じさせる。
それでも好奇心旺盛なのは相変わらずであり、そうした姿を見てしまうと納得のいかない話でもなかった。
***葵様との出会い
ーーー村に到着する頃には、空がだんだんと高く見えるようになり、少しばかり肌寒くなってきた。
この季節は嫌いじゃない。
少し身体を動かすには良い気温であるし、何より秋に蒔いた大根の種が収穫の時期を迎える。
この収穫は、私の毎年の楽しみである。
『今年もありがとうな~』
『いえいえ、お安い御用ですよ』
遠くで去年も聞いたような会話が聞こえる。
ゆったりとした空間とは、今この瞬間のような状況を言うのだろう。
あの時から今まで、たくさんのことがあった。
まさかこんな風に過ごせる時が来るとは露ほども考えていなかったな。
そう考えていたら、急に大きな声がした。
『吉乃!
やっと見つけたぞ。
今すぐ家に帰るんだ。来い!』
男を認めた途端に私は全身の血の気が引き、そして反射的に走り出していた。
途中で何かに足をとられて転んだ。
声をかけられた気がした。
しかし、今はもうそれどころではなかった。
ひたすら、ただひたすらに走り続けた。
…どれくらいの時が経っただろう。
呼吸はもう限界で今にも意識を失いそうだった。
『ハァ、ハァ、ハァ』
…もう大丈夫だろうか。
そう思って走りながら背後を確認すると、人がついてきているような気配はなかった。
ほっと安堵していると、前方で何かにぶつかり、思わず倒れてしまった。
『貴方は何をそんなに急いでおられるのですか?』
声が聞こえた。
陽の光が眩しく顔は見えないが、綺麗な服に身を包んだ女性が手を差し伸べているのが分かった。
とっさに捕まると判断した私は、手を振り払って逃げだそうとした。
『お待ちなさい』
胸の奥にまで響いてくるようなその艶やかな声に一瞬立ちすくみ、それと同時に腕を掴まれてしまった。
その力は、おそらく簡単に振りほどけるものであったが、その女性の眼差しとその身に纏う温かさが、私の抵抗する気力を奪ってしまっていた。
『なぜ逃げようとするのですか?』
『急いでいます。城下町にいる母上に薬を届………』
ふと急に、ウソをつくのが憚られた。
背後から追ってが来ないのが分かったからでも、薬を持っていなかったからでもない。
この人の前では、不思議と良く見られたい。
そんな風に思った。
これが、私と葵様の最初の出会いであった。
ーーー私には物心ついた頃から親と呼べる人はいなかった。
もう顔も思い出せない。
私の家であった場所では、跡取りを必要としており、子どもが生まれるまで家の中では男の子が待ち望まれ、母が妊娠した時にはそうなるものだと皆が思っていたようだ。
そんな中で生まれた私は、家族から厄介者扱いにされた。
泣けば怒られ、笑えば怒られ、居場所などどこにもなかった。
そんな日が8年間続いた。
ある日、使いを頼まれて街へ出ていた私は、薬や織物を売っている行商人に出会った。
その行商人は無愛想な顔で商品を広げていた。
『………はありますか』
幼いながらに私はそんなことを尋ねた。
『ん?お嬢ちゃんはそんな物が欲しいのかい?』
行商人は呆れたような顔で答えた。
『男の子になれる薬はありますか』
もう一度はっきりと尋ねた。
今思えば、なんと愚かなことを言っていたのだろうと思うけれども、その時の私は医学的なことは何も知らなかったし、この世界には万能薬という何にでも聞く薬があるという話を耳にしていた。
そんな私に行商人は一度困ったような顔をしたが、こちらを見るとこう答えた。
『何を考えてるのか分からないが、残念ながらそういった薬はうちには置いてないよ。どこかで見かけたことも無いね』
『そうですか』
残念だが仕方がない。
やはりそんな都合の良い薬は私が手に入れられるようなものでは無いのだ。
そう思った。
しかし、行商人は私の顔をじーっと見た後でこうも言った。
『俺はこの辺でまだ数日間商売するつもりだ。お嬢ちゃんの言った薬が手に入るかは分からないが、同業の者にも確認しておこう。5日後にまたここに来るといい』
始めは何を言ったのか理解が遅れたが、すぐに私のための言葉だと気づいた。
『ありがとうございます』
手に入らないとは思いつつも行商人のその言葉に、私は不意に期待をしてしまった。
いつもと変わらない、何も感じない、無味乾燥した5日が過ぎさり、私は行商人の元を訪れることにした。
いつもの私であれば、町で出会った見ず知らずの男の言うことなど聞く耳を持たなかった。
どうせ嘘八百だ。
実際あの男が今なおこの町にいるのかさえ怪しいものだ。
そんなことを考えながら、私は町中を歩いた。
すると前と同じ場所で前と同じ無愛想な顔で男が商品を広げていた。
本当にいた。
自分の胸がざわついた。
『あの…』
『おう、来たか。
さて、薬についてだったな。
あの後、俺が出来る範囲で色々な話を聞いてみた。噂でもなんでもその薬が無いかってな。
この5日間、隣村の長老、街医者、通り過ぎる旅人達にも掛け合ってみたが……結論から言うと、有益な情報は得られなかったよ。』
『そう…ですか』
なんだ。結局この男も家の大人達と一緒ではないか。
誰も私を助けてくれない。救えない。
心の中では分かっていたが、その時急に悲しいような気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
私は…5歳を過ぎた頃から涙が出なかった。
自分から我慢した覚えはないが、気付いた時には出なくなっていた。
しかし、感情を出さないことと涙が出ないことはいくらか私を生きやすくした。
以前よりも家族が干渉してこなくなったし、怒られることも少なくなっていた。
そんな風に過ごしていて忘れていた感情。
悲しい。
そう気づいた瞬間、全身の緊張が解けたような気持ちとともに涙が溢れ出してきた。
『わっ、ごめんな。
俺が期待させるようなことを言ったから』
慌てた顔で男が言った。
『いえ、違います。
私は、泣いて、なんか。ひっく。いま、せん』
泣いたら怒られてしまう。
そう思って私は必死に泣くのをこらえようとした。
しかし、どんなに我慢しようと涙は止まらなかった。
『ごめん、なさい…ごめ…んなさい…』
私がそう言うと、男は商品にあった布を差し出した。
『使えよ。費用はいらねえからさ』
『でも、これは貴方の、』
『売れなくて困ってたんだ。場所も取るし、俺にはもう要らないものだ』
『あっ、ありがとう…ございます』
それからどのくらい時間が経っただろう。
ようやく気持ちが落ち着いてきた。
そんなことを知ってか知らずか、ずっと側にいた男が話しかけてきた。
『もう大丈夫か。
何かできればと思ったんだがなんだかすまないことをしたな』
『はい。もう大丈夫だと思います。
お恥ずかしい姿をお見せして申し訳ございません。失礼します』
もう帰らなくてはならない時間であった私は、そう言って帰ろうとした。
ずっと考えているような顔をしていた男だったが、私が行こうとすると独り言のように言った。
『なあ、お嬢ちゃんが前に来た時、あれからずっと考えていたんだ。
こんな小さな子が不思議な薬を欲しがる理由。
実はな…俺はあの日、お嬢ちゃんが顔にあざを作っていたのが気にかかって、薬探しの協力を決めた。これはいたずらで言っているんじゃないんだと思ってね。
薬を見つけられなかったのは残念だった。
その代わり、と言ってはなんだが、1つ提案がある』
人差し指を立てて男は続けた。
『お嬢ちゃんがどんな環境に身を置き、どんな気持ちで俺に薬のことを聞いたか。
実際のところは俺には憶測でしか分からない。
だからこれから言うことは、俺が自分でこうなったら良いなと望んで言っている身勝手な言葉だと思って聞いてくれ。
何の解決策にもなっていないかもしれないが、、、』
言いにくそうな顔で男が口を開くまで、少しの間があった。
『ーーーーお嬢ちゃん、俺の商売を手伝わないか。簡単に言うと、この地を離れて、色々な土地で商売をするんだ』
ふと、私の中で大きな何かが動いた気がした。
考えてもみなかった。
きっと私は考えるということを諦めていた。
家では言われたとおりのことをやっていればよかったから。
いや、言われたとおりのことしかやってはいけなかった。
それが最善だと信じていた。
あぁ、私はあの家では物と一緒だった。
己が身で考え、動くことを放棄していた。
一歩踏み出しさえすれば、世界は姿形を変えられたのに。
でもどこかで見つかったらどんな仕打ちを受けるか分からない。
それも事実だ。
だけどこれを逃したら私は。
『嫌ならもちろん断ってくれて構わない。
勝手なことを言って悪かったな。
もう行くとするよ』
色々なことが頭の中を駆け巡り、身体中の血液が速度を増して流れていくような感覚に襲われながら、こちらに背中を向けて歩き出す男に向かって私は叫んだ。
『待ってください!!
やります。私に手伝わせてください』
男が立ち止まり、言葉を発するまでの間がとてつもなく長く感じた。ダメなのだろうか、聞こえなかったのだろうかと不安になる。
『言っておくが、商売人っていうのは良いこともあれば悪いこともある。
お嬢ちゃんがどう考えてるか分からないがあまり良い生活は送れないぞ。
それでも良いのか』
前を向いたまま男は言った。
『構いません』
そう言って私は男の背中に走り出した。
『俺の名前は柊一という。これからよろしくな。相棒』
柊一は振り返ると、手を伸ばしながら優しくそう言った。
『私は吉乃と申します。不束者ですが、よろしくお願いします』




