きっと名前は忘れない
「へ?」
発音?どういう事?と、ご当主様改め、レガート様の言葉に私は戸惑う。
聞き間違いじゃないよね。
「レガートだ」
「れ、レガート?様?」
戸惑いつつも言われるままにまた名前を口にするも、違うという顔をされ、更に名前を復唱させられる。
「レガート」
「レガート様?」
「私の口元をちゃんと見なさい。レガート」
「レガート様」
レガートレガートと復唱回数が増え、いつの間にか様付けが消え、15回を超えた辺りになってくると私は涙目である。先生、淡々と復唱は辛いです。
おかげで名前は絶対忘れないだろうけど。
なぜ私は目の前の相手の名前を延々繰り返させられているんだろう。
発音が違うと言われても、私は聞こえてる通りに発音しているつもりで、アレクシスさんカーライルさんの名前も今まで違和感なく口にして過ごしてきてしまっている。
それなのに、実はずっと発音が違っていたってことだろうか。
それにしたって、アレクシスさんもカーライルさんも何も言わなかったのは解せぬ。いくら何でもそんなことってある?
けど、確かにじっとレガート様の口元を確認していると私とは違う動きをしているなと思う。思うけど、それでどんな音になっているのかがわからないのだから、真似のしようがない。
私には私が発音している通りに聞こえるんだけど…。
淡々と、淡々と、淡々と、淡々と、名前をもう何度復唱した事か。
数えることも放棄した。
たまに発音に対するアドバイスが差しはさまるものの、全然わからず疑問符が増えるばかりだった。
「…改善が見られない。」
「すみません。」
「会話は成り立っているが、本当にこちらの言っている事が聞こえているのかが怪しくなってくるな。」
「?」
レガートの言っている意味を理解する前に、目の前にレガートの両手が出された。
その行動にも疑問符を浮かべていると突然パァンッと高らかな音。
私はびっくりして両手を耳付近へと上げて中途半端なところで固まってしまった。耳が痛いほどの破裂音だった。
レガート様は柏手を打った姿勢のまま、私を探るように観察している。
「音は聞こえてはいるのか。」
「な、な、なんですか!急に!」
なるほどと納得しているが、私は納得がいかない。
こくりと頷き、片方の手をまた顎の下に添え、シンキングタイムが始まる。
ちくせう。顎に当てた男性らしい指が長くて素敵だなぁ。もう。
どこを見たらいいのかわからなくなるから美形は困る。
「口の動きや動作から推察するに会話を成立させている器官は同様の様だが、違和感がある。何らかの加護を強く受けているということか?」
「一人でぶつぶつ考え込まないでください。」
人をびっくりさせておいて酷くないか?とむっとする。
「目の前にある疑問を解する機会は希少だ。少し付き合いなさい。」
なんで私が。と、反射的に言いかけた。だが、疑問をそのままでいられない気持ちはわかる。という意見が自分の中から出てきてしまって、言葉につまった。
問題は、実験対象が私だってことだな。
レガートの目は興味が先に立ち、楽し気にも見える。
「うぅ…酷い…。私だって、口の動きが違うなーってわかってますよ。でも、発音は聞こえてる通り口にしてるのに…」
「今まで一度も発音についての注意は受けてこなかったのか?」
「言われたことはないです。」
「淑女としての振舞いはよくできているのに、どういうことだ。基本的な発音の訂正だけおざなりになるのはあり得ないが…」
またぶつぶつと考え込むレガート。
もう存分に考えてくれと心を落ち着けると、そこに突然の既視感が浮かび上がった。
おかしいな。なぜ突然既視感?
誰と重なった?
と、思い返そうとして気がついた。
いや、これは…他の誰でもなく、私だな。と
考え事が始まると、言葉にしながら整理する癖があるのは何となくわかってる。公共の場ではなるべくしないが。
不可解な現象を前にして、その糸口を探すレガートの様子は、まさに私の癖と同じだ。
それにしてもこれ、端から見るとやばいな。付き合わされる方はたまったもんじゃない。
この世界に来てからも私のこの癖は何度か出てしまってる。主にカーライルさんとアレクシスさんの前で。
どう考えてもおかしな子じゃん。
カーライルさんはレガートで慣れてそうだけど、アレクシスさん、よくここまでなにも言わずに家庭教師してくださってたな。
「アオ、もう一度名前を」
「レガート」
名前を請われてももう何の戸惑いもなく私は名前を口にする。
発音の違和感を再確認し、私の口元を注視するレガート。こんな美少女のガワをよくこんなにじっと見られるものだと感心するよね。
私だったら無理だ。なので私はレガートの顔からわずかに視線をはずしつつ続ける。
「他人との会話で不便を感じたことは?」
「無いです。むしろそれが不思議で」
「不便がないのが不思議?」
おっとしまった。
異世界から魂だけ来て身体は女神様製とは公言してない情報だった。
言われてもワケわからないだろうし。遠くから来たどこのだれかもわからない人間なのだ。私は。
カーライルさんのお屋敷では、カーライルさんの遠縁と雑な押しきり方をしたけども…。当然だが、レガートにそんな嘘は通じない。きっと私の足取りは調べられているだろう。
にこり
私はごまかせないのを承知で笑った。
じっと睨むように見据えてくるレガートに、私は汗だらだらで笑い続ける。
数秒の睨み合い。
何を聞かれても答えられる言葉が思いつかない。
「元の名を使えず、過去の形跡は一切掴めなかった。あの地へ忽然と現れ、奇跡を体現する…か。」
ひぇぇ
そういわれると、何か神がかり的伝説の存在のように聞こえる。全部事実なのが辛い。
「話をしてみれば人となりも多少つかめるかとも思っていたが、まったくもってよくわからんな。」
何度目かの溜息が重く吐き出される。
「多少察しているだろうが、貴女の事は事前に調べさせてもらった。あの屋敷に現れる前の足取りが一切つかめなかった事。屋敷に現れてから何度も天地の結びを行い、多くの人への祝福まで結ぶ伝承で聞くだけだった奇跡も起こしていると聞いた。集めた情報はあまりに荒唐無稽だったからな。まともに取り合う必要はないと思っていたのだが…あまりにも簡単に、聖女と言われるだけの証明がされてしまった。」
「はあ」
何と返答していいのかわからず、私は気のないような声しか出せなかった。
「聖女としての話はどちらでもいいと思っていたが、ここまで圧倒的なものを示されてしまったからには、それに見合った対応をするべきと思い直せばそういう対応は拒否される。一体何が望みだ?」
「何と言われましても…身の安全?」
「身の安全?」
「えぇまぁ、身寄りもないですし、お調べいただいた通り、この地に寄る辺もないですし。」
突然の単刀直入な物言いに、まだ頭が付いていけてないけれど、それだけは何とか並べた。
もしかしたらもっと大事な事があるのかもしれないけど、とっさに思いつかないじゃん。
異世界転移で身の安全って本当に大事だと思う。
次に自由。そして、仕事だろうか。あ、教育も…かな?
「望みはそれだけか?」
「まぁ、何とか自分で生活できるようになりたいとは思っているんですが…」
それには色んな知識も足りない。悲しい事に。
もう少しきちんと常識を学んでからになるなぁと思っているところに中央教会が出張ってきたのが本当に憎々しい。
「ディオールジュの庇護下に居ながらそこから出たいと言うつもりか?」
おっとしまった。
眉間の皺の深さに私はびくりと肩を震わせた。
貴族のプライドか、もしくは別の地雷を踏んだだろうか。
でも、後見人とはいえ、衣食住賄われてただ保護されて生きてくっていうのは、私にはピンとこない生き方だ。
木でできた美しい椅子の居心地の悪い事よ。
「えぇと、何もせず生活を保障されているのはちょっと私としてはどうかと思うので、せめてちゃんと自分の生活は自分で賄いたいと言いますか…あぁ、そうだ。レガート、欲しい物あります。仕事をくれたら嬉しいです。」
藍交じりの青が見開かれるのを目の当たりにして、この世界に来て最初に見たアイスブルーの瞳をちょっと思い出しておかしくなった。




