青蘭と星の夜(少年たち)
日中、心持肩を落とし目の前を辞した弟が夕食前に自室へ現れた時には、今度は茫洋とした様子で不思議なものを腕に抱えていた。
鶸宮は人も物も情報も、流れが限られた空間である。
それなのに、見覚えのないものを弟がどこから持ち込んだのか。兄は目を瞬かせた。
彼らはディオールジュ家の子供たちである。
兄はスフォガート。16歳で、箱庭の中では年長者にあたる。
弟はアルディメンテ。13歳の少年で、昼にこの国で今一番話題となっている聖女と会ったばかりであった。
二人は兄弟で居間を間に挟んで繋がっている部屋を与えられている。
そのため、兄弟共用のスペースでくつろいでいたスフォガートは戻ってきたアルディメンテにすぐ気が付き、ちらりと視線を投げかけたのだ。
ディオールジュ本家の雰囲気に合わせた部屋は、木風合いの残る深い茶色が美しい家具でそろえられ、銀糸で刺繍されたとろりとした紺色の絨毯が敷かれている。木で出来た両開きの扉をしっかりと閉めたアルディメンテが抱えたかごは大きく、背を向けて扉を閉めた姿勢であっても視界に入る物だった。
スフォガートはお気に入りの革張りのソファーに深く沈みこんでいたのは幸いだったと、内心で胸をなでおろした。そうでなければ思わず椅子から立ち上がっていたかもしれない。
弟に動揺を見せずに済んだことに安堵しつつも、謎の籠を凝視するのはやめられなかった。
茫洋とした様子に、何かあったのかと聞くべきか。腕の中の物はどうしたのか聞くべきか。スフォガートは弟に何から聞くべきかと逡巡し、知らず、あごに手を当てた。
聡いアルディメンテはぼんやりしていた視界の端で兄をとらえると、あぁ、これの事を疑問に思っているのかなと籠に視線を落とした。そして、彼もまた何から言葉にするべきかと思考を整理しつつ部屋に置かれた円形のテーブルへと歩を進めた。
理解や共感を得たい場合、唐突な話題振りをせず共通の話題から入る。という基本を念頭に置くべきだなと判断し、年下の少年が先に口を開き、話題の始まりに互いによく知っている名を出したのだった。
「今日、フェルヴィドに会いました。」
「フェルヴィドに?叔父上の側近がどうして。」
「鶸宮にいらしていた…ア…あの、噂の方についているみたいで。」
籠をテーブルへと置きつつアルディメンテは、アオの名前を口にしかけたが引っ込めてもごもごとそんな呼び方をした。
新たに現れた聖女だと言われている少女は名前に対する意識が自分たちとは違っている様子だったから、この場で名を兄にこぼしたとて怒ることは無いだろう。と、大胆にもそんな事を思いはしたものの、兄に窘められることが目に見えたのでやめた。
「という事は白菫の君にお会いしたのか?」
スフォガートの奥の見えない紺色が見開かれる様を、久しぶりだという感慨を抱きながら見つめ返し、こくりと首肯した。この兄は、よりディオールジュらしく。厳格に。と己を律しているためこうした顔を見せるのは近年稀になっていた。
一門をまとめ上げる父を超える優秀さであった。と、今でも鶸宮で囁かれる叔父上の噂が兄にそうさせているのだろうと、アルディメンテは考えている。
そして、その根底にある想いからアオの事をあえて『白菫の君』という呼び名を選択して呼んでいるのであろう…とも。
白菫の君とは、聖女について人々が噂する時に囁かれている通称の一つである。
それ以外にもずいぶんと仰々しい呼び名もある中で、スフォガートは努めて控えめかつ反発の起こりづらい呼び方を選択している。
自分たちディオールジュの子供とトーリに現れたと噂になっている聖女様。その関係性を周囲は知りたがるが、自分たちも測りかねているのだ。
情報のやり取りのできる条件が限られる鶸宮にいる少年たちのもとには、まだ本家からの情報が下りてきていない。
その原因は、鶸宮だけにあるものではなく、彼らの実家の事情も起因していた。
ディオールジュ家は、他家に比べて王都へ来ることが少ないのだ。そして、ディオールジュ家やその一門の者たちも、王都で働くものがあまりにも少ない。
情報収集を怠りはしないが、あまりにも王都との繋がりが薄いのである。
そうなってくると、どうやっても鶸宮に入ってくる家門からの情報自体も薄くなる。
中央協会にカーライルが来ているらしいが、彼は彼で多くの役割をこなしている。
ディオールジュ本家の仕事、トーリの教会管理の仕事、そして、聖女の後見人。
あまり多くない人数で編成した人員とともに、かなりの仕事量をその手腕で人の何倍もの速さでさばいている現状では、どうやっても少年たちの事は後回しにならざるを得なくなる。
カーライルにとって少年たちを優先する理由もないからなおさらである。
それに、カーライルもレガートが何を考え、アオをどのように扱おうとしているのかは知らないのである。
そうした状況から、彼らはディオールジュ本家と聖女様の関係性が分かっていないのだ。
距離をどうとるべきか推し量れない今、他から余計な勘ぐりや反感を買う必要はないと兄は言っているが、それが表面的な、取って付けた理由であることなどわかりきっていた。
叔父上のもとに現れ、台地をすくい上げた聖女様。
その存在は、領地を愛する者としては喜ばしく、叔父の噂に揺れる感情を抱く者としては複雑な気持ちにならざるを得ない。
「お会いしました。」
アルディメンテが大人しく返答するのを落ち着かない気持ちで兄は見つめ返す。すんなりとどのような方であったかと聞けないのは、若さと、複雑な心境故だろう。
まるでそれを見透かしているように、弟は彼女の感想を口にする。
「噂に違わず、圧倒的な美しさと不思議な色彩を持つお方でした。」
「…」
スフォガートはすぐさま返答ができず、やや間をあけた。そうか。とだけ返事をして話を終わりにしようと思ったのだが、のどが張り付き声がうまく出せなかったのだ。
それ故、ただじっと弟を見つめることになってしまった。
アルディメンテはそんな兄を同じくじっと見つめ返しながら、この話題もくだらないと言われるのだろうかと頭にめぐる悲しい想像にしょんぼりしそうになる。
ぎゅっと手に力を入れたところで、託された物を思い出し、はっとする。これは絶対に兄が興味を持つ内容のはずだ。
「それに、父上からディオールジュ家の仕事を既に任されているのだとか。」
「父上から…?ディオールジュ家の色を認められたのは本当だったのか。」
兄の興味を引くことができたらしいと、アルディメンテは気分を持ち上げ、頷いた。
フェルヴィドもまるで自分の主の事のように誇らしげに肯定を示していた。あの、叔父上に忠実なフェルヴィドがあれほど迄に傾倒する人物が現れるとは…と、驚きもしたがまばゆいほどの光の柱、あれがトーリの地でも見られたのであれば頷ける。
王都で祈りが届いても、かの地ではいかほどの祈りができたのか…と考えてしまうのは致し方ないことなのだ。
彼らが生まれるずっと前から、トーリの地は天地の結びを得られていないのだから。
「色を認められたのは本当みたいです。その上、この王都にいる間に商家との繋ぎをつけるようにと、ディオールジュの役目を言いつかっているのだとか。」
「商家?なぜ…」
「ぜひ、兄上もこちらを食べてみてください。」
「?」
アルディメンテが嬉々としてテーブルの上に置いた籠に手を伸ばす。中身を隠すように覆っている布を丁寧に持ち上げた。
先ほどからスフォガートが気にしていたそれは、13歳の少年が抱えればちょうど腕いっぱいになるサイズの籠であった。
籠の中に何があるのかとスフォガートが覗き込むと、いくつもの包みが籠いっぱいに収まっているのが見て取れた。包みの柄や口を止めているリボンの様子から、これを準備した人が女性であることがうかがえる。
アルディメンテは包みの中から一番小さな物を取り出した。
一番外側の布が開かれると中には時を留める魔法がかかっている事のわかる模様の入った包みが見え、さらにそれが取り払われると丸い形をしている何かが出てきた。
真っ白な粉がかかっているそれを、アルディメンテは摘み上げるとぱくりと口に頬張り、嬉しそうにスフォガートへ差し出した。
先に口にしたそれの意図は、毒見ということだろう。
いぶかしみながらも促されるままにスフォガートも弟に倣ってそれを口に入れてみた。
周りにかかっていたのは柔らかな砂糖だろうか。こんなにふんわりとした触感の砂糖は初めてで驚く。
そして、その内側はザクザクとした歯ごたえと、ほろりととけていくような食感の食べ物。
恐らくはクッキーに類するものだと思うが、本当にそうかは自信が持てなかった。
真顔でゆっくりと租借し、嚥下する。
一連の流れを見守り、アルディメンテは満面の笑みを浮かべた。
「トーリの地の素材を使って新しい食べ物を作られているのだそうです。今のは木の実を粉状にしたものを使って新しい食感にしたクッキーだとか。」
「もしかして、これらを足掛かりに商流を変えるおつもりなのか…?」
「そうはおっしゃっていなかったですが、知名度を上げて需要を増加させたいので手伝って欲しいとお願いされて、試食用にこれらをお預かりしました。」
もともと良いとは言えない目つきをスッと鋭くしてスフォガートは思考する。
「トーリの食材は長年の研究の成果で他の地域では味わえないほどおいしいが、神無き地であるからと安く買いたたかれている事はお前も知っているだろう。」
「はい。」
「しかし、白菫の君がトーリの地の食材をもとに他にないものを生み出し、需要を高めようと動かれるということは…」
「様々なものの価値がきっと変わりますよね。」
強い紺色の瞳が、よく似ているがゆらりと光る瞳を見返し、こくりと頷いた。
「白菫の君にお会いする事はできるのか?」
「お約束まではしていないですが、2、3日に1度鶸宮にいらっしゃるとか…」
スフォガートから彼女へ近づくとは予想外のことで、アルディメンテはちょっとドキドキしながら、でも…と言葉を続ける。
「いつでも会いに来て良いと言っていただいてます。お話しがあるのでしたら、一緒にお伺いしましょう?」
「そうしよう。」
スフォガートは弟が手のひらの上に広げた包みからもう1粒不思議な食感のクッキーを摘み上げ、口にした。
昼に見た、奇跡の光景を思い出す。
あぁ、あれが本当にトーリの地に降りたのだとするのなら…。
胸の中に広がるしびれのようなものを、彼はクッキーとともに嚥下し流し込んだ。