奇跡が呼ぶのは暴風の様-後編-(王都の人々)
平時であれば、その方をお見掛けせずとも教会の運営に支障はなかった。その方の役割は、教会の運営とは別の所にある物であったからである。
しかし、教会が現在の威光を掲げていられるのは、その方を擁しているためでもあった。
王家に対し、こちらの方が天なる方に近しい役割を果たすものであるという立場を絶対的に崩してはならないと考える者たちは、どうあっても彼の不在を隠さねばならなかった。
であるならば、新たなる聖女の存在は、今は有難迷惑と言えた。
今現れてもらっても困るのだ。
聖女の噂が始まった頃、中央教会はまだ聖女であると断じられていない存在を『聖女』と呼ぶのはいかがな物であろうか。と、やんわりとした口調で、しかし確かな圧でもって人の口に蓋をさせた。
中央教会は聖女の周辺の調査は最低限に、とにかく急ぎ、彼の方を探さねばならなかった。
けれど、その行動は悪手と言えた。中央教会の探し人は、聖女の傍らにいたのだから。
誰の目にも明らかな奇跡の後、中央教会にも朗報が舞い込む。
奇跡の傍らに赤玉あり…と。
フラウタンドは、何度目かになる衝撃を受けた。
トーリの地に現れた存在が聖人であれ聖女であれ、示された奇跡は誰の目にも明らかである。
できる事なら急ぎその存在を声高に示し、教会の威光を強くしたいところであるが、人の目から隠さねばならない事柄も同時に存在する事情の数々に頭痛のする思いである。
「とにかく、王城に知られる前に、あのお方に急ぎお戻りいただかなくては。」
彼らの願いはそれだけだった。
穏便に、婉曲に、当人を刺激することなく。
そうして赤玉の方――アレクシスに集中するあまり、彼らはまた一つ、悪手を重ねる。
奇跡ともいわれる聖女の調査等、迎えに出した騎士たちが現地で行えばよかろうと、手間を惜しんだのである。
結果は言わずもがな。
音に聞く少女は、少女らしからぬはっきりとした意思と、深謀遠慮ぶりをいかんなく発揮し、鉄の心でもって若き大隊長をはねのけたのである。微塵も揺らぎは見られず。と、上がる報告にため息をついたものである。
それだけならまだしも、屋敷から出せば、その傍らには常に赤玉が付きそうという異例の事態。
道中聞こえ始めたのは、双方共に想いあっている様であるという噂。
途方もない事態であった。
この時、中央教会の意見は3方に割れた。
赤玉を中心に、天なる意向を汲み取ることのできる機関としての威光を望み、聖女よりなにより赤玉がこの国における至高であるとする意見。
これほどの奇跡を持つ存在は、中央教会にこそあるべし。天地を結ぶ存在により天へより近くと望む意見。
天地の結びが為される事は幸いであるが、赤玉の存在があまりに大きくなりすぎる事となるこの件を看過できない。どちらの存在もそれなりの位置でとどめておきたいと考える意見。
聖女の奇跡が大きくなればなるほど頭痛の種は大きくなる。
だというのに、道中またしても聖女は奇跡を呼びながら王都へと近づく。
フラウタンドはなぜ自分の代でこのような厄介事がと、頭髪のない額から頭頂の辺りを大きな手の平でおさえ、嘆息した。
せめて、渦中の人物が、苛烈でない事を祈るばかりである。
さて、奇跡の噂がまことしやかに広がる中、『聖女』という単語を口にすることのない者たちがいた。
それは、アレクシスを主と仰ぐ者達であった。
主の能力、立場を理解し、そして、それらを軸にしているのではなくその生き方や本質こそ己の主の価値であるとして誇りを持って仰いでいるために、彼ら彼女らは絶対に『聖女』という言葉を口にはしない。主が確定の事象としない限りは絶対にであった。
けれどもそれは奇跡を起こす存在の否定ではなかった。
彼ら彼女らもまた多くの者と同様に、その存在について興味を持ち、憧れ、胸に熱を宿らせた。
日に日に大きくなる噂。
そしてついに、その方がやってくるという段になって新しい噂が駆け巡る。
彼らは、主がしばらく姿を隠している事を承知し、それを外部へ一切口外せず、日々淡々と仕事をしていた。その行先や目的がどこにあるかを知らずとも、外部へ違和感を持たせない様動くのは慣れていた。
そこへ流れついたのは、奇跡の傍らに主が侍っているという、一度は耳を疑う様な話であった。
「主様がどなたかに侍る等…」
「どのような地位の方であってもあってはならない事では。」
「何かあったのでしょうか。」
誰かの下になる事などおよそ考えられないと、困惑と共に噂を密やかに紡ぎつつ、噂に続きがないものかと完璧な笑顔の仮面の下で言葉巧みに情報を集めた。
そうして奇跡の方が王都に近づいてくる途中、あまりにも衝撃的な噂がもたらされることとなった。
「は…?こい…?」
「まぁ、噂でしかないらしいですが、どうやらずいぶんと仲睦まじいご様子で見つめあっていたのだとか。」
その話を聞いた者は、あまりの事に会話もそこそこに、混乱の真っただ中に陥った。
「あの方がずいぶんと愛し気に彼の奇跡の方に触れていたのだとか。」
「相思相愛とはまさにこの事であると熱弁されましたよ。」
「奇跡の様な美男美女で、とても似合いであったとか。」
それから集まるいくつもの噂に、アレクシスに従う者は皆、その真偽を己の目で見るまではと口を噤んだ。
それはとても静かな静かな嵐だった。
これまでとは比較にならないほどの猛烈な嵐。
彼ら彼女らの心の中はめちゃめちゃである。
奇跡の方がトーリを出発し7日目。
衝撃的な噂に乱される心を押し込めた者達にとってはとてつもなく長い日々が終わる日。彼らはこっそりと話し合い、数人の侍女が入り口へと続く階段を観察できる場所に潜み、その様子を確認する事にした。
やってきたのは、主に手を取られ並びながらも、その輝きに負けない美しさと所作を併せ持つ少女であった。
隣り合うにはあまりにも年が足りないはずだというのに、そこには何一つ足りないものなど無いと思わせる雰囲気をまとい、ゆるりと歩を進め長い階段を上がってくる。
灰がかった薄水色の長い髪は彩度が足りないはずであるのに美しく光をはじき銀色の輝きを放ち、紫の瞳はまつ毛の影と日の光の下、不思議な輝きをきらきらとまたたかせている。
その年の頃の少女とは思えない姿勢の良さと色気すら併せ持つ風情。
笑顔の乗らない顔は、緊張や幼さからくる意地などは一切感じられず、むしろ泰然とした姿勢として誰の目にも映った。
ふと見せた会話の折の表情の変化からは、男性へ向ける媚や誘うような空気も見えない。それを一歩踏み込んで様子を分析すれば、主との間には噂に上がる様な甘い雰囲気も見られなかった。
そうした様子を持ち帰り、今後についてひっそりと話した後、彼らは一度は噂は噂と胸の内にしまう事としたのだが、その数時間後にまた静かな嵐が巻き起こることとなるのであった。
アレクシス自らが部屋を選び、少女に与えた。
その稀有な状況の重大さと深刻さに気が付かないのは少女本人のみである。
この宮にとうとう女主人が…緊張で迎え入れ、固唾を飲んで呼ばれるのを待つものの、待てど暮らせど呼ばれる事のない日々。心の中の嵐は収まるどころか猛威を強めるばかりであった。
決定的に肯定された噂に、少女がのたうち回るまであと数日。
その奇跡が起こす暴風の横殴りに、本人もまた巻き込まれるのである。