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旅路の果て

 現在、わたしはマリーア・アンドローニコと大公女たちとを交換するため特別列車に乗ってエルフランドへ向かっている途中だ。




 6年前、エッラというふざけたエルフを殴り倒した夜から後は順調だった。


 エルフ側からのわたしやサルヴァトーレに対する干渉もなかった。彼らにエーラ人やポロニア人についての不都合にならない程度の情報を流せばそれでよかった。


 おかげで、わたしは3年で学士号(文学士ではなく経済学士だ。そこ間違えないように)をとって大学を卒業でき、無事ベルエンネ留学を終えることができた。


 メラリアへ帰ってからは王都ラーラの第262旅団の隊付き将校として着任し、以後順調に出世して大尉に昇進した。




 ベルエンネ留学時の交友関係は今でも続いている。むしろ手紙のやり取りを頻繁に行っているせいで以前にもまして仲が深まったように感じられる。




 最近になってゲルトルートから手紙が来た。


 ゲルトルートは軍医に志願し軍に採用されたそうだ。


 彼女が信念をもって決めたことだ。わたしに言う言葉はない。




 ああ。忘れていた。


 これは交友関係ではなく腐れ縁というべきことだが、留学後の事情として一つ、説明を加えておこう。


 わたしがラーラに帰るのと同時に何故だかエルフのお嬢様方一行がついてきた。そして、面倒なことに一杯のお茶も出ないお茶会に頻繁に呼び出されてはメラリアの食べ物とお菓子に関する愚痴をこぼされた。


 そして、いろいろなことをボランティアとして強制された。


 ラーラ市内にある名所旧跡の説明。服やカバンの名店への案内。オペラ劇場の予約などなど。


 わたしは観光ガイドでも彼女たちのメイドでもないのだが。


 文句を言おうものなら、すぐにカティが6歳の時の暴行事件を引き合いに出してくるので口をつぐむほかない。


 非常にストレスがたまったが、まあそれも今回のマリーア・アンドローニコとの交換で終わる。


 戦争でなければ「せいせいする」の一言ですませることができるのだが、事情を知っているだけに胸の内は複雑だ。


 帰ってから彼女たちは確実に芳しくないことに巻き込まれる。いつまでも能天気に過ごすことはできなさそうだ。




 もっとも、こちらの将来も彼女たちへの心配にかまけていられるほど楽観的なものではない。


 


 アンヌ・ド・ボージューからの2週間前の手紙にはメラリア王国にとって極めて重要なことが書いてあった。


 例のプスタリアの天才集団からの情報でエルフランドでは原子爆弾の製造のめどが立ちつつあることを彼女は直感したというのだ。


 どうもマダーチ・イムレの発想が急速に研究を進める原因となったらしい。




 この事実が戦争準備が足りないというほかにわたしが参戦に反対する、もう一つの理由だ。




 そして、この件に関しては今から交換しようとしているマリーア・アンドローニコが非常に係わってくる。




 彼女はエーコ統領と同世代の中年の女性である。


 彼女はメラリア暦2871年まで王都ラーラでエンリケッタ・ブロンデル、テレーサ・ボッリ、たぶん不審死をとげたエッダ・マヨナラらバニスベルナ通りの少女たちと呼ばれる天才集団を率いて原子核の実験研究を行なっていたと言われている。




 当時、彼女の父親が社会主義者であったことから本人自身どうなのか不明のまま社会主義者のレッテルを貼られていた。


 メラリア暦2871年の赤シャツ隊による、もと左翼系党員の国外追放のあおりを受けて彼女はエルフランドへの亡命を決意した。


 そして、バニスベルナ通りの少女たちも別々に別れて亡命することになるのだが、その際、エッダ・マヨナラ一人だけが島のへ連絡船に乗り事故死している。


 死因は溺死。


 彼女はわずか16才であった。


 赤シャツ隊が彼女を船から投げ出したという噂もある。




 そういうわけでマリーア・アンドローニコが若いエッダ・マヨナラの死に衝撃を受け、以来赤シャツ隊に対して強い憤りを感じ、持てるすべての情熱を傾け原子爆弾の開発製造にあたっていたことは想像するに難くない。




 以前、憲兵隊少佐ドメニコ・スカルラッティが「失敗する」と指摘していたのもこのことなのだ。




 しかし、少しでもエルフランドの原子爆弾製造計画の進行を止めるため、わたしにはマリーア・アンドローニコを本国へ連れ戻す必要がある。




 わたしは任務の遂行に不安を感じたまま、大公女たちとともに目的地へ特別列車で運ばれていく……。




 +




 カティは夜になってから大公女たちとは別のコンパートメントの窓を開け放ち、エルフランドでは禁書になっている様々な政治に関する書籍を外へ投げ捨てた。


 『やってきたのは革命家』『新米革命家奮闘記』『革命家の戦記』『もう一度革命するレシピ』などなど。




 苦労して集めた書籍を捨てるのは身を切られるように辛い。


 しかし、持ち帰ったとしてもあらぬ疑いをかけられたうえ警視庁とかたぶん内務省に所属するであろう機関の役人に取り上げられるのがオチである。それなら自分の手で処分した方がよい。


 そう思ってカティは夜、人目につかぬよう孤独な作業をしている。




 カティは、マリアカリアが思っているほど軽薄でも低能でもなかった。


 6年前、スパイの噂をたてられたマリアカリアを庇ったアンヌの言葉でカティは目が覚めた。


「己を縛るものは己が撃つべし」


 カティ流に意訳すればこうなった。




 それからは大公女アルミとタイナの目からも隠れて政治について学ぶようになった。


 カティは自分を息苦しくさせているものが、ハイ・エルフの慣習、それを支えるハイ・エルフを特権階級として君臨させ続けているエルフランドの政治体制であることを正確に理解していた。




 まずは敵を知らなくては。




 カティはエルフの原理主義者や保守派の政治パンフレットなどを読んだ。


 そこに書いてあったもの、人の暗い感情に対する扇動、自分たちに都合のいい事実をことさら言い立てる歴史の歪曲、選民思想などなど。




 つまらないわ。




 これでは敵の正体がわからない。カティは反対側の立場で書かれたものを読んでみた。


 そこに書かれていたもの、正義、公正、平等、人道主義などなど。




 抽象的で、おおざっぱすぎる。おまけに胡散臭い。書いた人は単純で大きな嘘を書けば真実味が増すとでも本気で思っているのだろうか?




 カティは非常に疑り深い性格の持ち主であった。


 彼女が貧家の出であったら周りから困った性格の人扱いであったろうが、幸いなことに彼女は上流階級に属していた。


 何かを学習したり研究したりするにはとても武器になる資質の持ち主であったとはいえよう。




 今まで読んだものは余り役に立たないわ。やはり歴史や社会を丹念に解析したものを読まなくては。


 カティは一つ一つ疑いの目でもって読み解いていった。




 結局、みんな同じなの?




 メラリアのエーコたちは言う。


「3000年前の栄光の歴史あるメラリアはこんなものじゃない。過去の栄光を取り戻すため、ダークエルフよ。立ち上がるんだ!政治家や金持ちは自分たちのことだけを考えて何もしてくれない。だったら、独裁者のもとに集まってみんなで強い国家に立て直そう!」




 ザールラントのドワーフたちは言う。


「ドワーフは最優秀人種だ。なのにそれに値する待遇を受けてはいない。こんなのは不公平だ!妥協とか融和などと柔いことを言う政治家なんか要らん!そんな奴らは排除してしまえ!もっと直接的に不公平を是正できるよう強権的な国家を作るべきだ!」




 極左の人間は言う。


「歴史的に見て労働者は不当な扱いを受け続けてきた。すべての人が平等に扱われる世界を作るためにはまず彼ら労働者こそが解放されなければならない。そして、その実現には実力で労働者がすべての権力を握るのが一番現実的で実効性がある」




 誰もが不当に扱われていると感じ、強い不満を持ち、他者を押しのけても“公平”な扱いを受けようと暴力に出る。




 “公平”って何?


 自分たちだけの“公平”って本当に他人を押しのけるだけの理由になるの?




 考えているだけでは物足りなくなったカティはお忍びで外を彷徨くことになった。




 連合諸国のヒト族の活動家たちの集会。政治クラブ。原理主義者の集い。草の根運動の茶会の会。労働者集会。慈善活動への寄付のための集いなどなど。




 当然、カティはたちまちエッラの残していった情報の糸にかかった。


 大公女の兄上様であるエーロ伯爵から何度も密かに注意された。




 しかし、カティは屈しなかった。


 なにしろ「己を縛るものは己が撃つべし」なのだから。


 まだなんにも撃っていないし、どう撃ってよいかもわからない。




 こんなところではやめられない。




 その結果、カティは女王陛下から譴責を受けた。




 大公女たちも何やら不祥事をおこしていたらしく、3人まとめて処分されてしまった。


 しばらくの間、メラリア王国で謹慎していること。


 体のいい国外追放であった。




 大公女やタイナがどう感じているかは知らないが、カティにとってメラリア王国に追放になった方が自由になんでも話を聞けたり本を読めたりできて万事都合がよかった。


 全体主義の国では自国民の思想統制はするが外国人のそれはなかったから。もちろん監視はついたけれども。




 それが戦争で、追放した故国エルフランドへの帰還……。


 カティは皮肉に感じた。




 この特別列車の中でいろいろ感慨深いカティには、気になったことが一つだけあった。


 それは同乗している小学校教師とかと主張する観光客のことである。




 あの男、見覚えがあるわ。




 カティは記憶力がいい方であった。


 なにしろ6年前、学生責任者にマリアカリアの名前を聞いただけでさらにその12年前のマリアカリアにされた暴力行為を思い出すくらいである。




 あの男は5年前のベルエンネの過激な政治集会でアジ演説をやっていたわ。


 活動家としてメラリア王国に亡命していた?


 それはありえない。左翼の集会だったし、私を注意しにきたエーロ伯爵の話ではあの集会の活動家は警視庁に検挙されたはず。


 それでは、あの時は集会に潜入した警視庁のスパイで、その後はメラリア王国で活動していた政府のスパイ?




 あの男、憲兵に捕まってしぼられたとか言っていたわ。


 それなら、どうしてメラリア王国は男を解放したのだろう。




 カティの疑念は深まるばかりであった。 




 +




 昼過ぎ。晴れ渡った空の下、王宮のテラスからでも広場に飾られている大きなエーコ統領の肖像画がよく見える。




「あの男も参戦さえしなければ、メラリア王国にとってよき政治家でありえたのに」


 ヴィットリオ国王はつぶやいた。




 1週間前の大評議会でのエーコの発言で、国王はエーコを見捨てる時がきたと悟った。


 今までメラリアのために尽くしてくれてありがとう。では、さようなら。




 19年前のラーラ進軍のときから国王はエーコを切り捨てられるように工作をしていた。


 エーコはともかく国王の方は相手をはじめから信用していない。


 ただ、エーコの施策と国王の思惑とが一致していたためズルズルと19年もの長きにわたり両者は蜜月状態を続けてきたにすぎない。




 国王はエーコ個人を嫌ってはいなかった。


 エーコはこれでも清廉な人として通っていた。権力を使って不正蓄財やら愛人を増やすといった下品なことはしなかった。エーコは唯ひたすら自分の思い描くダークエルフの楽土を築くために政治に熱中しただけだった。


 しかし、国王としてはその好悪を別にしてメラリア王国のため決断しなければならなかった。




 戦争から短期で抜け出さなければならない。そのためにはエーコには失脚してもらおう。




 大評議会のメンバーである戦闘団の幹部のうち国王に取り込まれたのは一人や二人ではなかった。既に親ザールラント派を除く半数以上取り込まれていた。統括情報部は完全に国王の支配下にあった。国家警察軍については幹部に親ザールラント派がいるので慎重に工作している。




 クーデターを起こす前にエルフランドとわたりをつけなければ。




 国王が使者に選んだのは、エルフランドのスパイ、本名トニ・ニエミネン。現在特別列車で送還中の小学校教師と言い張る観光客である。




 親ザールラント派の目を誤魔化すために、特別列車は大公女ら3人の貴婦人とマリーア・アンドロニーコとの交換のために仕立てたとされた。しかし、真の狙いはメラリア王国とエルフランドとの秘密交渉の橋渡しのためにトニ・ニエミネンをエルフランドに戻すことにある。


 国王にとってはマリーア・アンドロニーコの引渡しはおまけにすぎない。むしろ口実にすぎなかった。


 なぜなら、国王は核兵器のおそろしさに対する想像力に欠けていたから。


 彼にとってみれば原子爆弾の破壊力なんて複数の大型爆弾のそれ程度にしか感じられなかった。放射能の恐ろしさもわからなかった。




 たとえエルフランドが原子爆弾の開発製造に成功したとしてもザールラントに対して使われてドワーフが吹っ飛ばされるだけ。関係ないね。


 情報局の中に原子爆弾のおそろしさを強調するものもいたけれど、そんなにおそろしいものならエルフはきっと使うまい。




 彼はそう思っていた。




 +




 同じ頃。晴れ渡った空の下、下町の、エーコ統領のポスターがベタベタ貼ってある建物の壁に背をもたせかけて煙草をふかしてる男がいた。


 ほとんど黒といってもいい栗毛の髪。青色の目。人懐っこい顔つきで、ときどき皮肉な笑みを浮かべる。


 ニヤニヤ。


 この表現がピッタリだ。




 ヒュー・オドネルという男。


 6年前までエルフランドの首都ベルエンネでエーラ独立党のもと幹部。


 子供の頃から武装闘争に明け暮れていたはずなのに顔には傷ひとつない。もっとも裸になれば切り傷の痕や弾丸の痕が目立つのだが。




 彼のそばを5、6才から12、3才ぐらいの小さな子供の集団が歓声を上げて駆け抜けていく。


 集団の服装はたいていヨレヨレで首のあたりが垂れ下がったランニングシャツもどき。半ズボン。木靴に裸足。革靴もあるがかなり古びてくたびれている。




 しかしまあ、同じように貧しいんだけれど、なんか明るいんだよなあ。ここは。


 おっと。掻払われないようにしなくては。




 ベルエンネでも掻払いは多かったが、表情が暗い。切羽詰っているというのか。唸り声をあげて飛びかかってくる飢えた狼の仔という感じで。


 しかし、ここでは何かちょっとした悪戯みたいな感じで暗さがない。




 なんなんだろうねえ、全く。あれか。ダークエルフにとって掻払いはお遊びなのか。




 周りの建物では最近建てられた全体主義式集合住宅と呼ばれる箱型の6階建て建築物群が目立つ。


 外観はまさに正6面体の箱そのもの。横一面に6掛ける6で36の窓が並んでいる。


 エーコ統領が公共事業にがんばって労働者向けに建てたものだ。




 よっこらしょっと。




 吸い終わった煙草をもみ消し、ヒューは考えた。


 そばにいる私服の秘密警察をどうしたものか、と。




 メラリア王国が参戦し、王都ラーラにいた観光客が引きあげて外国人の数がめっきり減ったとはいえ、ダークエルフ以外の者が居ないこともなかった。


 移民。帰化した者。亡命者。


 それらの人たちにはたいてい当局からの監視がついている。




 人の尾行方法には隠れて付いていく方法と公然おおっぴらに付いていく方法の2種類がある。


 ヒューについてくる私服は後者であった。


 後者は被尾行者に対して監視してますよ、と行動を牽制する意味がある。また、焦らす意味もある。




「ちょっと休憩しようぜ」




 すぐそばの横丁に店の前に街路樹が生えているエスプレッソ売りのカウンターがある。ヒューは私服にそこを顎で示した。


 私服はいつも無言である。


 まだ若い。20才を過ぎたばかりか。


 靴もスーツもまだ新しいが、安物だ。




 今日はヒューに付き合うらしい。エスプレッソ売りまでついてきた。




「暇だよなあ?」




 ヒューも私服もエスプレッソを3口4口で飲み干した。




 3年前、ヒューはマリアカリアがメラリア王国に帰還するときに「一緒に来ないか」と誘われた。


 驚いたが、事情があって一緒に行くことにした。


 モーリン・オハラとパトリック・オーエンも一緒だった。




 ヒューは最初のうちは戸惑ったものの、いつの間にかここの生活が気に入ってしまった。


 14才の頃から人殺しを続けてきて30才を過ぎて突然人を殺さなくていい生活を手に入れたのだ。一緒に戦って死んだ仲間には少し後ろめたいが、もう手放す気にはならない。


 マリアカリアからは自転車屋か自動車の修理工でもやれと言われた。


 それなりの技術も持っていた。それで、ときどきそれらの商売を手伝って暮らしている。


 しかし、半年前から私服が付くようになってからそれもできない。


 そりゃそうだろう。私服を連れては商売先に迷惑がかかる。


 まあ私服はそういう意味の嫌がらせも含んで公然と尾行しているんだが。




 モーリンたちにはまだ監視がついていない。


 モーリンは昼間、紡績工場で働き夜学に通っている。20才を過ぎているが、ベルエンネでの生活のせいで学習が遅れたためだ。


 パトリックは外国人学校に通っている。公立学校に通わしてもよかったが、アイツは気が弱い。虐められそうなのでそうなった。




「暇だよなあ」




 確かラーラにも川があったはずだ。今度、釣りにでも行ってみるか。私服を連れて。




 2人は通りを歩きだした。




 +




 同じ頃。


 晴れ渡った空の下、王宮前広場のそばにある巨大な憲兵隊本部の建物の奥の一室で一人の憲兵隊将校が部下の作った書類を読んでいた。




 飲みかけのコーヒーの入ったカップが机のうえにある。




 将校の眉間のシワが鋭くなる。


 ハエが紛れ込んだらしい。さっきから五月蝿い。そして蒸し暑い。


 将校は制服の下の背中に汗が流れていくのを感じた。




 将校の名前はドメニコ・スカルラッティ。


 憲兵隊少佐。マフィア狩りがはじまる前からマフィアと戦っていた男。




 サルヴァトーレたちにとってよく知られた名前だった。


 もっとも、マリアカリアは最近まで知らなかったようだが。




 活躍の割にはドメニコ少佐の昇進は遅い。すでに40才を過ぎている。




 ただ、憲兵の階級は一般の軍人のと少し意味が異なる。


 憲兵隊は治安維持を任務としているが本来は軍隊の内部統制を目的につくられた存在だ。それゆえ、憲兵は統制される側の軍人より格上に扱われる。憲兵曹長は一般の中尉並みに、憲兵中尉は少佐並みに、憲兵少佐は将軍並みに扱われる。もちろん職務遂行中に限ってではあるけれども。




 やはりこの3人に絞られるのか。




 ドメニコ少佐は18年も前の事件をまだ追っている。


 むろん他の仕事もきっちりこなしている。憲兵も暇ではないのだ。


 しかし、少しでも暇になるとどうしてもこの事件に目がいってしまう。




 事件発生直後、調査に向かった同僚が殺された。そして、引き揚げられた死んだ少女の顔も忘れられない。




 最近になって動きが出てきた。匿名による手紙が寄せられたのだ。それは少女とある人物との関係に言及するものであった。




 ドメニコは机の前から立ち上がり、部屋の窓を大きく引き上げた。




 +




 同じ頃。晴れ渡った空の下、とある古書店の2階で丸テーブルのうえに置かれたカプチーノを楽しんでいる紳士がいた。




 数日前、ここで彼がマリアカリアから渡された書類を読んだときに直感した。


 エッダ・マヨナラの事件の裏では憲兵隊ともと内務省の秘密警察との間に暗闘がある、と。




 部下を使って調べてみると、興味深いことが分かってきた。




 事件から5ヶ月後、当時、秘密警察でほどほどの地位にいたジョバンニ・ガブリエリという人物が死んでいる。


 ジョバンニは事件直後の一時期、犯人の有力候補として目されていた。そして、彼を取り調べようとする憲兵隊とそれを妨げようとする秘密警察との間で鍔迫り合いがあった。




 他に犯人の有力候補として2人いた。いずれも赤シャツ隊員で、いまでは国家義勇軍の将軍と大評議会のメンバーである戦闘団幹部である。




 サルヴァトーレ氏が興味を惹かれたのは、出世した2人ではなく死んだジョバンニ・ガブリエリだった。




 +




 ドメニコ憲兵少佐はやはり情報局のある官庁街まで出かけることにした。




 最近になって彼のもとに寄せられた匿名の手紙には、当時エッダ・マヨナラに妊娠の疑いがあったことと彼女とジョバンニ・ガブリエリとの関係について書かれてあった。


 当時も今も未婚の女性に妊娠の疑いがあることは致命的なことである。社会的に抹殺されると言っていい。


 エッダの検死の際、憲兵隊もそのことについて知ったが、死者を鞭打つマネはすまいとして公にはされなかった。




 今頃になって誰が何のために知らせてきたのか?




 匿名の手紙に書かれた字体は柔らかく、女性によるものとも思えた。


 エッダはラーラで食料品店を営む中流階級の家の娘だった。父親は既に亡くなっており、現在母親と結婚した姉が残っている。ドメニコは2人に会ったことがある。当時の姉は優しそうな娘であった。


 母親も姉の方も当時、妊娠の疑いとジョバンニとの関係について知っていて黙っていたのであれば今になって報せてくるというのは不自然だ。最近になって知ったとしても19年前の不祥事をわざわざ掘り返して死者を鞭打つ真似をするというのもやはり不自然だ。




 片や、妊娠の疑いとエッダとジョバンニの関係の事実は、エッダが亡命のためエルフランドへの直線コースをとらずにわざわざ島への航路で船に乗った合理的な説明となる。


 エッダはジョバンニに呼び出され会いに行ったのだ、と。


 そして、ジョバンニが自分に縋り付くエッダを疎ましく思い始末した……。




 この推理が一番正解に近いようにみえる、か。




 匿名の手紙の送り主はこのように結論づけさせたいのか?


 もうジョバンニは死んでいる。事件の幕はとっくの昔に下りていると。




 ドメニコは事件を調査しだしてから何度も何度もジョバンニが犯人であると結論づけそうになった。 


 しかし、痴情の縺れで殺人までするのだろうか。


 ジョバンニは秘密警察員だったんだぞ。


 ドメニコはこの違和感から結論づけられなかったのだ。




 ドメニコは敬礼して情報局のある建物に入る。


 何度も階段を昇り、とある階にたどりつく。


 廊下には内線用の電話を置いた小机の前に曹長が座っていた。




「ジュゼッペ・タルティーニ局長に会いたい。ドメニコが会いに来たと伝えてくれ」


「今は戦時下ですよ。局長閣下は面会を拒絶なさると思われますが」


「それは君の意見だ。とにかく伝え給え」


 ドメニコはマリアカリアと違い温和な性格だった。




「失礼しました」




 ドメニコがようやく面会の許可を得て部屋に入ろうとしたとき、どこかのドアが開き中から誰かが退出する音がした。




 室内にはジュゼッペ・タルティーニ情報局長がいた。この役所のトップだ。そばには副官の中尉が控えている。




 ジュゼッペ・タルティーニ。


 先の戦争の義勇軍参加兵士。もと社会主義者。労働者の組合運動に限界を感じエーコのもとへ参じた者。


 野卑で粗暴な人間の多い赤シャツ隊の中で、学があり頭も切れ誠実であったからたちまちエーコに気に入られ幹部にのぼりつめた男である。


 似合わないのになぜか髭を生やしている。


 そして、事件の容疑者の一人であった。




「困るね。ドメニコ。この時期、忙しいうえに憲兵隊の将校に訪問を受けたことが噂になれば面倒なことになる。」


 先程の来客と長時間話し合っていたのだろう。灰皿に吸殻がたまっている。


「で、今回はなんの用だね?」




「閣下。例の事件のことで匿名の手紙がきたこととマリアカリア大尉に事件について伝えたことを報告しに参りました」


「ハッ。また例の事件か。いい加減にしないか。今がどういう時期か、君にも分かってるはずだ」


 ジュゼッペ・タルティーニはどういうわけか、事件直後からドメニコの捜査に積極的に協力している。


「君は偏執狂だろ」


「閣下。それと秘密警察の親ザールラント派がしきりにあちらの保安局と連絡を取り合っているようです」


「ポロニア人関係か。それは、ちょっとまずいな」




 ドメニコとも長い話し合いをする必要を感じ、タルティーニは煙草を取り出して副官に火を求めた。




 +




 数日後、ドメニコ憲兵少佐のもとに今度は送り主の書かれていない品物が送られてきた。




「検査に回したか」


 以前、マフィアと対決していたとき爆弾を憲兵隊に送り付けてくることがあったのだ。


「はっ。X線で調べました。中身は本のようです」




 部下の発言に触発されて今後X線照射に反応する爆弾が出来たとき検査はどうするのかな?などと要らんことをドメニコは考えてしまった。




 机の上で包を開けてみた。


 中から出てきたのは稀覯本。


 その本に挟まれていたしおりの頁を開いてみると、オペラの題材にもなった有名な大昔の悲恋物語の挿絵があった。




 恋人を悪代官に捕われた貧しい娘は悪代官に自分の身を捧げる代わりに恋人の助命を嘆願する。悪代官は承知し娘の体を自由にする。しかし、一揆が起こり悪代官は倒され娘は突然自由の身となる。娘はもう恋人と結婚できないものの彼の生きている姿を一目見たいと牢のある塔に向かうが、そこには処刑された恋人の姿があった。嘆き悲しむ娘は塔から飛び降りて死んでしまう。


 これが物語の筋だった。何万何十万何百万のダークエルフの女たちを涙させた物語の筋である。




 挿絵は物語のクライマックス、娘が嘆きながら塔から飛び降りるシーンを描いたものだった。




 そして、しおりには「もしも恋人が生きていたらそれは悲劇だろうか?喜劇だろうか?」と書かれてあった。




 しおりを見た瞬間、ドメニコは頭の中でパズルの一片がはまる音を聞いた気がした。




 ……だが、まだまだパズルの欠片は残されている。




 +




 しおりを見てからドメニコはエッダ・マヨナラの事件に関するファイルを探し始めた。目指すは、当時の秘密警察のメンバーの一覧とその後の彼らの動向の記録だ。




 事件の5ヶ月後、ジョバンニ・ガブリエリは崖したから死体となって見つかっている。


 死因は首の骨が折れたことによるショック死。崖から飛び降りての自殺ということになっている。


 死体の写真もあるが、顔は完全に潰れており、右足と左腕が転落の際の衝撃でちぎれている。


 身元がジョバンニ・ガブリエリと判明したのは、身に付けていた衣服、身分証明書、血液型、そして死体の左手の小指にはめられていた女性用の指輪に同僚たちの見覚えがあったことによる。




 当時、ドメニコはジョバンニが誰かを身代わりにして生き延びているとは考えなかった。


 死体の怪しさから他殺か。あるいは、事件後何度か事情聴取をしようとした憲兵に対してみせたジョバンニの異様な興奮状態から本当に自殺したのかとしか考えていなかったのだ。




 もしジョバンニが生き延びたのだとしたら事件の真相について様々な推理ができる。


 推理が正しいかどうかを確かめるためには、沸き上がる疑問を一つ一つ潰す必要がある。




 ジョバンニが生き延びたとして誰が身代わりとなったのか?一般人か?犯罪者か?それとも死体安置所にあった身元不詳の死体か?




 ジョバンニが生き延びたとしてその後はどうなったのか?まだ生きているのか?死んでいるのか?国内にいるのか?それとも外国にいるのか?




 身代わり工作をジョバンニ一人でするのは無理だ。誰かもしくは組織が手を貸している。


 それは誰だ?


 一番有力視できるのが当時の秘密警察のメンバーだ。


 彼らのうち怪しいのは誰なのか?





 ドメニコはようやく必要な資料を揃え、当時の秘密警察のメンバーの一覧とその後の彼らの動向の記録を調べ始めた。




 2日後、ドメニコはジョバンニに手を貸したと目される人物を発見できなかったが、不審な動向を示す人物を見つけた。


 ジャコモ・プッチーニ。




 ジャコモ・プッチーニは事件当時27才。ジョバンニより2才年下であった。


 尋問方法に一家言あったらしく容疑者から供述を引き出すのが上手かったとされる。


 この人物、事件の5ヶ月後、ちょうどジョバンニの死亡前後にラーラから地方に転勤させられている。そして、その半年後の中途半端な時期に秘密任務を命ぜられ潜行。それから3年後、ラーラで取調官として勤務することになる。1年ほど勤務すると、また秘密任務を命ぜられて潜行。次に、姿を現すのが5年後、ザールラントの大使館勤務となっていた。それから帰国とザールラントへの出国の繰り返しで今に至る。




 まず、ジョバンニの死亡前後で転勤・出向させられたのはジャコモしかいない。


 また、秘密警察では任務のため潜行することが多いとしても潜行のためその動向の不明な期間が最も長いのがジャコモである。


 19年のうち動向の明確なのが全部あわせてもわずか3年に満たない。異常すぎる。


 しかも、そのうちラーラで素顔を晒したのが取調官として勤務した1年しかない。




 これではまるで顔見知りの人間から避けるような生活ぶりだ。


 ジョバンニが生き延びてジャコモ・プッチーニに入れ替わったとしたら非常に都合のいい生活ぶりともいえる。




 当たりを引いたかもしれない。ドメニコはそう考え、ジャコモ・プッチーニを詳しく調べることにした。




 +




 今回も列車はベルエンネ西駅に到着した。


 6年前と異なること。


 それは、軍楽隊の演奏。赤絨毯。大勢の報道記者にカメラマン。さらに大勢の取り巻く人々。




 これではわたしがこの特別列車を降りることができないではないか。


 帰還を果たしたエルフたちを歓迎する大群集の中に一人のダークエルフが降りていくんだぞ。そんなことしたら、エルフたちに囲まれてフルぼっこにされた挙句吊るされてしまう……。




 そうだ!変装すればいい。


 シルエットは同じなのだから、夏用のストールを巻き、帽子にベールで顔を隠せば完璧ではないか。


 ああダメだ。長い金髪のかつらを持っていない。短い銀髪で一発でバレる。




 くっそう。こうなりゃ、ダークエルフの死に様を見せてやる。


 かかってこい。群集ども!




 と妄想していたら、一人のエルフの将校が列車に乗り込んできてわたしのコンパートメントの前に立った。




「ニルス・ラッパネン少佐です。帰還者たち全員が列車を降りましたら群集その他を解散させますので、それまで列車内で待機していただきたい」


「マリアカリア・ボスコーノ大尉です。ご配慮ありがとうございます。ご指示に従います」




 わたしは民間の旅行服のまま、ちょび髭の少佐に敬礼をした。




「しばらく時間が掛かりますから、食堂車でお茶でもいかがですかな」


 余裕なのか、少佐の緊張感のない申し出があった。


「それはいいですね。わたしも丁度のどが渇いたところです」


 わたしはダークエルフらしく申し出を受けることにした。




「マリーア・アンドロニーコはいつどこで引き渡していただけるのですか?」


「ふむ。彼女は駅近くの警察署で待機してもらってます。そこへあなたをお連れして対面してもらい、本人かどうか確認のうえ引き取ってもらうというのが今後の予定です」


「他の引き揚げ予定のダークエルフたちはどうなっているのですか?」


「彼らも様々な場所で待機中です。もちろん警官の護衛付きですから何の心配もいりません」




 列車が折り返しメラリアに向けて出発するのが真夜中。時間があるな。




「少佐殿。わたしは6年前ベルエンネに留学しておりましてとても懐かしい。つかぬことを伺いますが、下町のドナヒュー座はどうなっておりますか?」


「ド、ドナヒュー座、ですか」


 少佐の声が固くなり、わたしは緊張した。まさか焼け落ちたり殺人事件があったりしたのではないだろうな。




「盛況ですよ」


 少佐はニヤリとした。




 なんだ、このオヤジ。自分より10以上年下をかついで面白いのか。まあわたしもときどき人をかつぐけれど。それにしても……。




 緊張感のないやり取りをしているうちに時間が経ち、わたしも近くの警察署に行くことになった。


 わたしは男物の上着を頭から被せられ2人の屈強な警官に挟まれるようにして連れて行かれた。これではまるで凶悪犯の連行ではないか。


 ニヤリとした少佐を見た。仕組んだのはお前だな。


 後でそちらのお偉いさんに絶対抗議してやる。




 わたしは無事に警察署の中に入った。


 今現在、一階の受付カウンター近くにある木製の椅子に腰を下ろしている。


 カウンターのなかでは黒い制服を着て左腕部分に階級章を付けた警官が3人、わき目もせずに書類を作成している。


 それはいいんだが、気になることがある。


 柱の陰からいやに丸っこい人物が半身だけ出して執拗にこちらを眺めている。害はなさそうなので別にいいんだが、何なのかね?この男。




「誰?」


「ハッ。見つかったか」




 隠れているつもりだったのか。よくわからない奴だ。それにしてもエルフランドはこんな奴らばっかりの国だったのか。もしかしたらメラリア王国は戦争に勝てるかもしれない。




「僕ですよ。僕」


「誰だ。まったくわからん。たぶん知り合いと間違えているのではないのか」


 わたしに丸っこい変態の知り合いがいてたまるか。全否定だ。


「この時期、ダークエルフに声をかけるなんてよほど親しい人に限られるはずでしょ。思い出してくださいよ。僕です。僕」


「わからん。失礼だが」


「はあ。イムレですよ。イムレ。あなたが6年前、暴行するやら何やら虐めまくったイムレ」


「なんてことを言うんだ。人聞きの悪い」


 懐かしのマダーチ・イムレだったのか。本当にわからなかった。


「確かにお前はイムレだな。それにしても縦にじゃなく横によくそこまで育ったな。風船人間かなにかと思ったぞ。で、何してたんだ?ジロジロ眺めやがって」


「サスペンスでは定石でしょ。柱やドアの陰から半身だけ晒して加害者を見る人」


「昔からお前の言うことはわたしには理解不能だ」




「本当は僕の先生の見送り。僕はマリーア・アンドロニーコ先生の助手なんだ。あと懐かしい凶暴なダークエルフの女性と話がしたかった。軍人さんがきてカリアがくるって教えてくれたんだよ」 


「なるほど。そうか。わたしもイムレに言いたいことがあった」


「うん?なになに」


「お前のおかげで例のものが完成しそうだってな。あれは人が開けてはならない箱だろう。なんてことをしてくれたんだ」


「ドワーフが先作っちゃうって聞いたから焦ってやってしまったんだ。それに僕の発想は突然湧くんだ。信号機見てたら思いついちゃった」


 どこの世界に信号機見て、ウランによる核連鎖反応を思いつく奴がいるんだよ。


「僕の発想だけだったらもっと平和利用もできるんだよ。って。こんなとこでしゃべる話じゃないよ。詳しくは先生と話してよ」




 ほどなくしてマリーア・アンドロニーコのいる部屋に案内された。


 マリーアは眉間に立てじわのある、とても疲れた様子の年を召した婦人だった。


 生涯独身。研究一筋。




「マリアカリア・ボスコーノ大尉です。あなたをお連れしに参った者です」


「わたしはマリーア・アンドロニーコ。物理学者をしているわ。もっとも引退間際だけどね」


「失礼ですが、わたしにはあなたが本当にマリーア・アンドロニーコだと確認する方法がありません。証明してくれませんか?」


「ふう。困ったわね。


 私が私であることを証明する、か。哲学的ね。


 身分証明書の類では無理よね。偽造もありうるから」


「僕が証明出来ますよ」


 イムレ。お前は黙ってろ。


「わたしがこんな質問をするのはあなたが最高の物理学者だからです。エルフランドが簡単に手放すとは思えない」


「あら。嬉しいことを言ってくれるわね。でも、そんなことはないのよ。若いとても優秀な人たちがいて、わたしはもういらなくなったの。


 研究の邪魔ですって。ここにいるイムレと同じようにね」


「僕たち、原子爆弾の製造に反対しちゃったんです。僕、こういう性格だからみんなのところへ行って訴えても逆に嫌がられた上のけ者にされちゃって。


 先生は僕を庇って要らぬ非難まで浴びて……」


「いいのよ。私はダークエルフだからどうせ信用されていなかったし」


「でも、お弟子さんのバニスベルナ通りの少女たちがいるのでは。ダークエルフというだけでは排斥の理由にならないでしょう?」


「あなた。古い呼び名を知ってるのね。


 あれから20年。20年よ。人が変わったり疲れはてたりするのに十分な年月と思わない?私についてきてくれるのはもう一人だけになったわ。テレーサ・ボッリだけがわたしと帰国するの」


「あなたは全体主義のメラリアを嫌っていたはず。帰国の意思があるのですか?」


「あるわ。わたしは故郷で死にたい。昔の知り合いの墓にも参ってみたい」


「エッダ・マヨナラの墓ですか?」


「……よくご存知ね。それでは、わたしがあなたみたいな赤シャツ隊員を嫌っていることも知っているわね」


「はい。そのことについてある憲兵少佐から言伝を預かっております。エッダ・マヨナラの事件はまだ憲兵隊で調査中。犯人は赤シャツ隊員でない可能性もある、と」


「さっき、赤シャツ隊員を嫌っていると言ったけど、違うの、本当は。


 ダークエルフの男が嫌いなの。


 エッダは優しい娘だった。そして恋をして恋人ができて、不幸なことが起こって、最後は悲劇そのもの」


「……」




 わたしはこのあと、マリーア・アンドロニーコからエッダ・マヨナラが島の連絡船に乗るまでの事情を聞くことになった。




 +




 マリーア・アンドローニコは貴族ではないが富裕な貿易商の一族の出だった。昔からダークエルフの貿易商や商人の中からは飛び抜けて数学のできる天才が現れることが多かった。マリーアの両親は娘の才能を見抜くと喜んで娘に高等教育を授けた。


 マリーアは大学にも行った。当時、女性が大学に通うのは珍しがられたが、メラリアはロレーヌ王国ほど閉鎖的ではなかった。マリーアはアンヌの先生であるマリ・エイメほど苦労することはなかったのだ。


 マリーアは物理学の道に進み、その指導教官であった教授とバニスベルナ通りの研究所で共同研究に勤しんでいた。


 その頃、マリーアの父親の商売仲間の娘に数学のよくできる子がおり、その子の友達で天才と呼ばれる少女たちと知り合うことになる。


 教授が面白がって調べてみたところ、ラーラの中流階級の家庭に才能がありながら大学に進学しようかどうか迷っている少年少女たちを数多く発見した。そこで、教授は伝を使って彼らが大学で学べるように取り計らった。その中で、大学に通いながらマリーアについてその研究を手伝う少女たちの集団があった。これがバニスベルナ通りの少女たちと呼ばれる集団である。


 この集団は何度も世代交代を繰り返した。実際、マリーアとエッダ・マヨナラは20才以上年が離れている。


 彼女たちのマリーアに対する尊敬は大変なものであった。マリーアは彼女たちにとり第二の母であり姉であった。




 大学に通っていたエッダは思想犯の調査のためしばしば大学に訪れていたジョバンニ・ガブリエリと出会い、13才も年が離れていたにもかかわらず恋をした。彼女の生活は喜びに満ちたものに変化した。ジョバンニ・ガブリエリも最初は戸惑っていたものの、やがては彼女を受入れ愛するようになった。


 その頃、ジョバンニは自分が秘密警察の刑事であることを打ち明けている。それによってエッダのこころに不安が灯るのも知らずに。




 ジョバンニの同僚にジャコモ・プッチーニという男がいた。


 適当に容疑者を仕立て上げ拷問により自白を強要することで有名であった。あと賄賂をとることでも有名であり、悪評がかなり高かった。




 当時のメラリアはエーコ統領の指令により全土でマフィア狩りと赤狩りが猖獗を極めていた。


 ジャコモはエッダの先生であるマリーアが社会主義者のレッテルを貼られていることもエッダの父親がマフィアと関係あることも知っていた。


 ジャコモにとって中年で痩せてガリガリのインテリ女性をいたぶるよりも、15才の美少女をいたぶる方が楽しかったらしい。それにジャコモは同僚で先輩のジョバンニが嫌いだった。


 そこで、ジャコモはエッダを猫が獲物をいたぶるように苛め倒した。


 ジャコモは暴力はふるわず言葉でエッダを不安に陥れていった。


「お前の先生は社会主義者だってな。赤は追放されなきゃいけない。赤を庇う奴も同罪だ。そのことをジョバンニが知ったら悲しむだろうな」「おまえの父親はマフィアとつるんでいるんだって。検挙されちゃうかもな。そしたらジョバンニは嘆くだろうな。愛しいエッダちゃんと結婚できないって」




 ジャコモは執拗だった。


 エッダの精神状態は次第におかしいものとなり、ついには悪魔に馬鹿な申し出をしてしまう。


「なんでも言うことを聞くからそれだけはやめて」




 ジャコモの目論見通りの展開となった。




 エッダは妊娠していることを知り、ジャコモの陰険さを思い知った。




 その頃、マリーアはエッダや周りの人の忠告で身に危険が迫っていることを知り、エルフランドへ亡命することを選ぶ。


 彼女は弟子たちに向かって今後の選択は自分で決めることを命じた。エッダを除き全員がエルフランドへ亡命することになった。




 エッダは弟子たちのうちで一番親しかった友人にこれまでのことを綴った日記を渡して島の連絡船に乗り込んでいった。


「敬愛する先生。悲しいことですがお別れです。


 私もエルフランドに行って研究生活を送ることを考えてみました。でも、だめです。好きでもない男の子供を育てながら一人で異郷で生活するなんて耐えられません。


 これから私は大好きだった人にすべてを告白してから、自分の仕出かしたことの清算をします。あの人も愚かな女の仕出かしたことを聞くのは苦痛でしょう。


 でも、黙って去ることは本気で好きだったあの人に不誠実だと思うのです。


 さようなら。尊敬と親愛の情を込めて先生の手を握る。 エッダより」




 日記の最後にはこのように書かれてあったそうだ。




 話を聞き終えてわたしは机の上においた自分の手が少し震えているのに気がついた。




 +




 夜になりベルエンネ西駅のプラットホームにダークエルフたちが続々と集まってきた。


 わたしは不安だった。任務の遂行が順調すぎる。


 わたしも主な任務がマリーア・アンドロニーコの引き取りではなくトニ・ニエミネンというエルフのスパイの送還であったことを知っている。


 トニについては無事に引き渡しを終えた。


 わたしはドメニコ憲兵少佐に任務が失敗に終わると聞かされている。


 最初、わたしはマリーアが赤シャツ隊を憎むあまり帰国に抵抗するのでは、と考えていた。


 しかし、それは違うようだ。


 では、何なのか?


 帰還するダークエルフが列車に乗り込み出発し引渡しが完了した瞬間、襲撃でもあるのだろうか?




 +




 真夜中を過ぎ、特別列車はメラリア王国に向けて出発した。


 車中の人となったわたしとマリーア・アンドロニーコは同じコンパートメントで相対している。




「……イムレは本当におかしな子ね。私が実験で忙しくしているのにいつもいつもそばにまとわりついておしゃべりばかり。よく怒鳴り散らしたものよ。自分の実験をしなさい、って。でも、後から考えるとイムレの言っていることって鋭いとわかるの。彼、本当に天才ね」


「人に嫌がられる天才の間違いではないのですか?」


「アハハ。そういう意味の天才でもあることは間違いないわ。同じプスタリア人のバール・イェネーだったかしら。アイデアが欲しい時まで彼を冷凍人間にして冷蔵庫に監禁しとくべきだって言ってたわ。余りにも好き勝手言ってみんな混乱させちゃうから」




 マリーアは何故か陽気だ。


 マリーアは何故いま帰国しようとしているのだろうか?帰国しても敵しかいないだろうに。


 戦争が終わってから帰国してもいいはずだろう。


 エルフのお偉いさんに嫌われたからといって別に国外追放になったわけでもない。今までの貢献から考えれば彼女が望めばエルフランドに永住できたはずだ。


 そう。メラリア王国の引渡し要求にも拒絶出来たはずなのだ……。




「あそこにいた連中はみんな天才と呼ばれた人ばかりだったわ。子供のときから逸話のある人ばっかりだった」


「ノイマン・ヤーノシュなんかそうでしたね。わたしも学生寮にいたとき聞いたことがあります。なんでも4才で自宅にあった電話帳で一人で遊んでいたとか。ぱっと開けた頁を一瞬で暗記し記載されている数字で縦横無尽に四則演算してみせたとか」


「確かに彼は暗算の天才だったわね。人が何日もかかってするような爆発の実験データの計算をぼーっと天井を眺めているうちに暗算でしちゃうとか。いろいろとね」




 イムレは事前にマリーアにわたしのことをよく話していたらしい。そのせいでわたしはマリーアに嫌われていないようだ。


 もしわたしでなく別の赤シャツ隊員が選ばれて引渡し・引き取りの任務に就いていたのなら、マリーアもここまで友好的ではなかったのであろうか?もし嫌うダークエルフの男だったとしたら?もしも弟子の敵であるジャコモだとしたら?




 ここまで考えてわたしは鳥肌が立った。




「失礼します」


 わたしは有無を言わさずマリーアの手荷物やらなにやらを手当たりしだいに調べ始めた。


「あらあら。あなた。本当に勘がいいのね。でも、そんなに乱暴にしちゃうと爆発してしまうかもね」


 わたしは手を止めた。ドメニコ憲兵少佐が言っていたのはこれのことだったのか。


「わたしが女だから躊躇したんですか?」


「それもあるわね。嫌いなタイプの男だったら躊躇わずに雷管のスイッチを押してたかもね」


「巻き添えにして自爆ですか?」


「死ぬに際して一矢も報いなくてわね」


「お弟子さんのテレーサ・ボッリはどうするつもりだったんですか?」


「だいじょうぶよ、あの娘は。叔父さんが戦闘団の幹部らしいし」


「もうやめてくれますね。そんなことしても何にもなりはしないですよ。それよりわたしに聞かしてくれたエッダの話をドメニコ憲兵少佐にした方がよっぽど役に立つ」




 こうしてわたしは列車の爆破を何とか食い止めることができた。




 +




 それからわたしたちは食堂車に移り長い話を始めた……。




「……しかし、残念です。マリーアさんを引き渡してもらえれば原子爆弾の開発製造も少しは遅れると思っていましたから」


「もうそんな段階ではないわね。それに私の代わりにロレーヌ王国よりグレフ夫妻が来るらしいから」


 グレフ夫妻とはマリ・エイメの娘アンリエットと夫のオリヴィエ・グレフのことだ。共同で大陸科学賞をもらっていたはずだ。


「自然を愛するエルフがそんな恐ろしいものを使わないと祈るほかないのでしょうか?」


「ふう。戦時下の狂気って予測がつかないというし。祈っても無駄かもしれないわね。それより戦時下であることをなくした方がいいんじゃない?平和になれば結構冷静になれるはずだから」




 平和か。




 わたしは引き渡したトニ・ニエミネンが重要なスパイであることを知っていたが、何のためにエルフ側に引き渡されたのかまでは知らなかった。




 +




 朝からヒュー・オドネルは機嫌が悪かった。




 昨日、朝から釣りに出かけたのだ。私服の秘密警察の刑事を連れて。


 リュックにパン、チーズ、レモン、サラミ、キャンティなど詰め込んで準備万端にして出かけていった。


 川の傍に陣取って釣り糸を垂れた。


 魚は一匹も釣れなかった。


 ヒューにとっては釣れない方がいい。釣れたらそれこそ困る。川魚なんて料理したこともないし食えるかどうかもわからない。


 ヒューはご機嫌だった。




 昼飯時になった。


 ヒューは用意したものを取り出してムシャムシャ食べだした。


 しかし、ついてきた私服は困った。


 事前に釣りに行くなんて聞かされていない。弁当の用意もない。辺りには屋台ひとつ出ていない。


 ヒューは横目で私服を見て皮肉な笑みを浮かべる。ニヤニヤ。


 十分楽しんでからヒューは私服に声をかけた。


「おい。チーズとサラミとパンをやろうか」


 すると、はじめて私服が声を出した。


「それよりレモンとパンとキャンティをくれ」


 ヒューはその図々しい願いを聞き入れた。私服の声に今年一番に鶯の初音でも聞いたような気がしたから。




 夕方になった。釣りをやめて帰る時間だ。


 ヒューは私服に聞いてみた。


「一杯飲んでメシ食おうと思ってるんだが、一緒に飲むか?」


 私服が一緒に来ることは分かっているが一緒に飲んだことはない。


 驚いたことに私服は無言で頷いた。


 それで、飲み明かしてしまった。


 もともとエーラ人は酒好きですぐ溺れてしまう。


 千鳥足で帰ると、モーリンが待っていた。小言を散々言われた。甲斐性なしの穀潰し呼ばわりされた。呑助の酔っぱらいとも言われた。


 事実なだけにヒューは酷く傷ついた。




 それで、ヒューは朝から私服の顔を見て不機嫌となった。


 私服が半年もついてまわるから仕事にも行けずモーリンから罵倒されるのだ。それに昨晩こいつはモーリンの顔を見るやオレを捨てていきやがった。


 みんな、こいつが悪い。




 ヒューが私服に文句を言ったら、黙ったまま肩をすくめられた。ヒューはますます不機嫌となった。




「これからお姫様を迎えに駅まで行くからな。勝手についてきな」


 お姫様というのはマリアカリアのことだ。


 ヒューがマリアカリアに私服がついて仕事にならないことを愚痴ると小遣いをくれるようになった。典型的なダメ男になっているのだが、ヒューはパトロンのようなものと勝手に芸術家気取りでいる。




 ヒューが駅に着いたのはマリアカリアが乗る列車到着予定から大幅に遅れた時刻であった。


 ダークエルフも時間にルーズだが、エーラ人のそれはもっと酷い。


 しかし、この時は列車自体が遅れていたので、ヒューはわずかに遅れただけですんだ。


 駅のプラットホームで迎えることはできないが、駅舎から吐き出される人ごみの中で迎えることができる位に……。




「おい。お前。拳銃持ってんな。貸せや」


 ヒューは私服にそう言うと私服の上着の下から強引にベレッタを奪った。




 ヒューは駅舎前のロータリーを徐行する不審な自動車を見つけたのだ。




 前方にマリアカリアがいる。


 やはり!?




 後部座席でソフト帽を被った男が突撃銃を右手に持ったのが見えた。




「あぶねえ。その車に気いつけやがれ」


 ヒューは自動車の後部に向かって発砲した。




 +




 人ごみの中、ヒューの声を聞いてわたしは即座に反応した。


 横にいたマーリアを突き飛ばすと、腰を屈め滑るようにして左回りに走り、後部座席の男からの死角に立って2発発砲。


 次いで自動車のハンドルが左に切られた瞬間、後部座席の男に向かって1発発砲して、事を終えた。




 自動車の中の男たちはいずれも顔を撃ち抜かれて即死した。




「やれやれ腕が落ちたな。やはり現役さんにはかなわないか」




 ヒューがそう呟いたらしい。




 +




 生臭い鉄さびの臭いがする。


 手がカタカタと震えている。力が入りすぎているのだ。


 そして、息が短い。周囲の音がよく聞こえない。




 目の前の丸いフォルムの自動車の中で男たちやシートが血やその他のものでグシャグシャに濡れているのがわかる。


 フロントガラスに蜘蛛の巣状の弾痕が2ヶ所。




 ハンドルを未だ握っている男は顔を仰け反らしている。その額と左頬に赤い穴が空いている。後頭部は形がなくなっているようだ。


 この男とは左に回り込んだ時に目が合った。奴はハンドルを左に切ろうとしていた。


 後部座席の男は歪んではいたがそれでもソフト帽を被ったままだった。


 右目下寄りの鼻の付け根に赤い弾痕がある。


 右のドアの窓は空いている。そして、窓枠には短機関銃の銃口部分が引っかかっているのがわかる。


 後部の窓にも蜘蛛の巣状の穴がある。ヒューがつけてくれたものだ。


 ヒューの発砲のおかげで男が短機関銃を構えながら身をすくませ、わたしが左に回り込むだけの時間を稼げた……。




 体に入っていた妙な力が抜け、顎が下がり両腕がブランとして上半身が前に屈みこみそうになる。


 頭の中でザーザーと音を立て何かが大量に流れていく。


 そのくせ自動拳銃を握る手から力が抜けない。




「お姫さん。おっかないぜ。


 普通、ここ。俺が固くなるなとかまだ気を抜くなって声をかけるところだろ。なんだって臨戦態勢のままなんだ?飛びかかってくる狼そのものだぜ」




 ヒューが声をかけてきた。




 ヒューの声で我にかえる。


 周囲の音が聞こえてくる。突っ立って驚き恐怖している人たちの目が視線がわたしのこころを焼く。


 でも、仕方がない。言い訳はなしだ。


 マガジンを落としてリロードする。




 +




 ヒューについてきていた男が現場の維持に努めている。


 わたしたちは退避した場所からそれを眺めている。




 憲兵たちがやってきた。わたしはようやくマリーアに謝った。




「痛かったですか。押し倒してしまって申し訳ありません」


「いいえ。今度から倒れ方に気を付けましょう。老人は骨折しやすいそうだから。それと、ありがとう」




 マリーアはわたしを変わらぬ目で見てくれる。




 +




 わたしたちはそれから居場所を3回変えて、今は憲兵隊本部にいる。駅舎でポーターたちに運んでもらっていた荷物はタクシーでヒューたちの家に送ってもらった。




 隣室では、マリーアがドメニコ憲兵少佐と話をしている。




 さっきわたしが少佐の警告のおかげで緊張感を最後まで失わずに済んだと感謝したら、少佐は単純にマリーアが帰国を拒むだろうということを言っただけでその余の言及をしたわけではないと告白した。正直な人だ。


 でも、そのおかげで2度助かったのは事実だ。


 特に駅舎では。


 いつものようにハンドバックなどに拳銃を忍ばせていたら今頃蜂の巣となって死体安置所にいたことだろう。列車を降りる時、ボレロの下にして何時でも抜けるように背中に回し腰の上辺りに吊っておいたのだ。




 敵は公然と攻撃を仕掛けてきた。わたしにはまだその敵の正体がつかめていない。




 また、おぞましい人物の手を借りねばならないことを思うと、ため息が漏れる。




 +




 トンマーゾ・トラエッタはエーコを呼び止めた。


 エーコが統領(ドゥーチェ)になってから彼を呼び止めたり親しげに話しかけたりする人はいなくなっていた。


 だから、エーコは驚き内心では喜んでいた。


 しかし、彼には独裁者の顔がある。人の見ている前ではそうやすやすとは外せない。




「なんだ」


 怒声をあげる。


 トラエッタ陸軍次官は挙手をする。


 が、片目をつぶってみせた。




 エーコは統領府の執務室にトラエッタを招き入れた。ここでは人目がない。


 トンマーゾ・トラエッタはサラサノ事件よりエーコと25年の付き合いである。2人はエーコがラーラ進軍をして政権を奪い取るまで右翼の大立者として覇を競い、その後トラエッタは貴族の巻き返しのため何度も担がれそうになったものの隠棲してこれを避けていた。


 今から10年前、エーコは渋るトラエッタを引っ張りだし軍歴がないにもかかわらず陸軍次官に任命した。


 そのためトラエッタには少将の肩書きがある。




「エーコよ。サラサノ事件よりもう25年が経つ。お互いに歳をとったな」


「アンタはいつまでたっても偉そうだな。なんの用だい?」


「たまには酒でも一緒に飲もう」


「気持ち悪いんだよ。何をいきなり」


「吾輩が隠棲をやめて出てきたのは芝居の終わりを特等席で眺めるためだった。


 昔、吾輩は君に言ったな。『どうせ道化は捨てられる。捨てられるときは派手に捨てられよう』と」


「……そうかい」


「君はどんな終わり方を望んでいるのかな?」


「何もない。静かに終わる」




 3食とも果物しか口にせず酒も飲まないエーコが戸棚から酒瓶とグラスを2個取り出した。




 +




 朝、ロレーヌ共和国の首都ヘレネ陥落のニュースが伝わる。ヘレネの市長が無防備都市宣言をして1週間経っていた。


 そのニュースはザールラントに住む人たちには歓呼で迎えられ、他の国の人々からは重い沈黙で迎えられた。


 ロレーヌ国王は西部の都市ルドーに拠点を移し国民に徹底抗戦を呼びかけている。




 重苦しい空気の中、エーコ統領は国境地帯にようやく集結した部隊に対しロレーヌ西部の軍港都市ロンヌへの侵攻を命じた。


 この時、メラリア王国軍はようやく弾薬2週間分を整えられたにすぎない。燃料は3日分。しかもメラリア王国軍すべての分ではなく侵攻を命じられた6個師団分でしかない。当然戦車も飛行機も動かせない。


 侵攻する軍はもとよりメラリア中の人々が不安にかられた。


 メラリア王国が3000年ぶりの軍事行動を起こすというのにこの不安はなんであろうか?




 ヴィットリオ国王はただ一人その有様を冷静に見ている。


 侵攻する軍はロレーヌの軍に手痛い反撃を食らうだろう。そして進撃が止まり、撤退の命令が下される。その時こそエーロを引きずり下ろすのだ。失敗したエーロを誰も支持しまい。将軍たちも兵士も民衆も。


 エーコを引きずり下ろした後、国王はまず自派で政権を固め、ザールラントとの同盟関係を形だけ保ったままザールラントからの協力要請を長々と引き伸ばして断り、エルフランドがザールラントに決定的な打撃を与えた瞬間に同盟を解消して中立宣言をすることを目論んでいた。


 国王もザールラントがそんなに甘くはないことを知っている。しかし、メラリアのためには決別を避けることができないことも知っていた。




 +




 案の定、侵攻した部隊は皆手ひどい損害を被ることになった。


 まず、山岳地帯を分進した2個師団は道に迷い高地で寒さに震えなければならなかった。そして、凍傷を負った兵士が続出しこの2個師団はまともに戦える状態ではなくなった。他方、海岸部を進んだ部隊はまともにロレーヌ側の縦深陣地に突っ込んでしまい、阻止砲撃を受けたうえ反撃を受けて押し返されてしまった。


 結局、侵攻より3日後、撤退命令が出た。




 撤退命令が出た日の夜、大評議会が開かれて解任の動議が出され多数決でエーコの統領解任が決定された。


 この時、トンマーゾ・トラエッタも責任をとるとして陸軍次官を辞任している。




 国王はただちにアストリア離宮(ホテル)を接収し、ここをエーコの軟禁場所にした。


 エーコが北部へ飛び地方政権をつくったり、ザールラントに亡命して亡命政府を作ったりすることを阻止するためである。




 国王の読み通り、メラリアの軍隊も民衆もエーロの解任に抗議しなかった。


 彼らは、19年もの間、エーコの作り出すハッタリを楽しみ、酔いしれ、自分たちも参加し一緒になって花火を打上げ踊りまわった挙句、疲れて果ててしまっていたのだ。


 祭りは終わった。もう、家に帰って眠ろう。




 解任のあった翌日から、王宮前広場はもとよりメラリア中に掲げられていた巨大なエーコの肖像画は撤去された。通りや建物に貼られていたエーコのポスターも剥がされた。




 この状況を見て、古書店にいる紳士は渋面をつくった。


 エーコを捨てた民衆を恩知らずと思ってのことではない。もとより恩知らずは嫌いであるけれども、それよりも状況が彼にとり面白いものではなかったのだ。


 エーコがいなくなっただけ。大評議会も戦闘団も国家警察軍も国家義勇軍も残っている。まだまだメラリアの地をマフィアが大手をふって歩ける状態ではないのだ。


 サルヴァトーレ個人にしてみればメラリアをマフィアの手に返しても余り利益にはならない。彼はエルフランドから信じられないほど莫大な富を稼いでいる。彼が固執しているのは彼自身の原則の問題だったからだ。


 メラリア国民はそうは思わないが、彼にしてみればマフィアは大昔から民衆のために尽くしてきた。為政者から民衆を庇ったり、民衆を困らせる悪者を退治したり、あえて汚れ役をかってきたのだ。それなのに民衆はマフィアを突き放しエーコと一緒になって攻撃すらした。


 恩知らずには制裁を。


 これは彼にとって譲れる原則ではない。


 彼は思った。


 もっと暴力が必要だ。メラリア中で暴風が吹き荒れるような暴力が。


 そのためにはザールラントの軍隊とエルフランドのそれとがメラリアで激突しなければならない……。




 +




 わたしはサルヴァトーレの原則をよく知るが故に「恩知らず」と言わせないだけの貸しをつくろうと今まで努力してきた。


 しかし、今は貸しをつくるどころか逆に大きな借りをつくらなければならない。


 わたしはいち軍人にすぎない。


 マリーア・アンドロニーコもヒュー・オドネルもモーリン・オハラもパトリック・オーエンもわたし一人の力では守ることができない。


 わたしも「守りたい」などと言ったら彼女たちが怒り出すのはよく分かっている。


 しかし、わたしはどうしても守りたいのだ。それも確実に。




 わたしはサルヴァトーレのところへ頼み事をしに行った。





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