異世界などなく、異なった世界が関連してるっきゃない!
異世界などなく…
死にそうです。私の私が理想とする欲望の約束や、周りの円滑が予想する「こうあるべきだった」が、もう死にそうです。というかそういうものはすでに死んでいたに違いない。探偵はやめだ。帽子を取ってあいさつだ。いや、ここで挨拶などない。挨拶など必要ない、無礼を洗練する道場だ。覗き込むのはやめたまえ。もうやり方が人形のドストエフスキーだ。読んでもいないくせに、名前に媚びているようだ。名前なんて、名前なのだから、名乗っていればその気になるだけ、要は用心することのその内容だ。内容はね、君、具体的にどーこーというわけではないが、大抵もう書かれているから読めばいいものだよ。読んで、君、信じるバカはいない。バカは賢い人のために信じられるものだ。書かれていることが、もうそれきりでしょう。人間はたくさんいるのに、生活は何か少なくなってゆくものでしょう。人間はもうたくさんなのに、生活は気を抜いたらますます気恥ずかしくみすぼらしくなるでしょう。なるでしょうか。もう空の色より、海の波の響くより、保存はこまめに行われるのがよいようです。しかし、私は呼吸を意識していない。意識していなくても、息はあります。意識していないものがそのよう理由で言う、死にそうです。すでに死んでいたのです。懐かしくないし、生れてもいないような、ずっとギャーギャー泣いている悲しさとは別の自然について、社会から落っこちて、雲から落っこちて、また呼ばれて姿勢を正すかな。なんですかな、生活することは。なんですかな、なんですかな社会生活は。社会が生活に先立つもののように思われて無念。生活があって社会が思われるのだ。人間があって生活が考えられる。魂があって人がある。好きな人があって、嫌いなこともある。異世界は好きな人が生きていることにある。そんなもの信じやしないが、信じる必要のないことだ。
異なった世界が関連してるっきゃない!