9、二人のはじまり
学校。佐伯は空き時間、一人で数学の準備室にいた。煙草の匂いが充満するその部屋で、佐伯は辛さを堪えきれないでいた。ただ思い出されるのは、歩の涙と走馬灯のように脳裏で蘇る、歩との思い出だけである。
一年前、四月。
「佐伯先生。これ、新しいチョークです」
職員室でチョークの箱を差し出しながら、同僚の教師が佐伯にそう言った。
「ああ、ありがとうございます」
佐伯はそう返事をし、受け取る。
まだ担任として受け持っていないものの、今日から新学期が始まる。この後の授業は一年生で、気持ちを新たに臨まねばならない。
「今日から授業ですね。一年坊主相手だと、大変だなあ」
「ハハハ。そうですね」
「お互い頑張りましょう」
「ええ」
佐伯は立ち上がると、一年生の教室へと向かっていく。
教室の生徒たちは、新しい世界に輝いて見える。佐伯はいつものように、軽く気さくな自己紹介をした。そうすることで、生徒の距離が縮まることを知っている。まだ若い教師であるからこそ出来る手段だ。
「一年生の数学を担当する、佐伯豊です。今日はこのクラスの初めての授業だから、最初は自己紹介といこう。まず俺の自己紹介を軽くさせてもらうと、年は二十四歳、独身。東大を卒業して去年ここに就職し、今年は二年目です。ちなみに誕生日は、五月十日。ゴトーの日と覚えてくれ。もうすぐだから、プレゼント待ってまーす」
軽いノリの佐伯に、生徒たちが一斉に盛り上がる。年が近いせいもあり、佐伯はどこでも人気者となっていた。
「ゴトーの日だって。そういやこのクラスも、後藤っていたよな」
一人の男子生徒がそう言った。
「へえ。後藤がいるのか」
佐伯はその言葉に、何気なく教卓に置かれた座席表を見つめる。次の瞬間、佐伯と歩の目が合った。それが、二人の初めての出会いであった。
「君が後藤さんか。じゃあ、君はゴトーの日に、特別にプレゼントをあげよう」
佐伯のその発言に、生徒たちがざわつく。
「いいなあ。私もほしい!」
「ダーメ。それじゃあ、ありがたみがないだろ」
「私、ムトーの日が誕生日! 私にも何かちょうだい、先生」
「ハハハ。近いけど関係ないじゃん」
それを機に、佐伯と生徒たちは、すっかり打ち解けてしまっていた。
数日後。休み時間、数学準備室にいる佐伯を、一人の少女が訪ねた。
「ああ、君は……後藤か」
少女とは、歩だった。佐伯も歩を覚えていて、優しく微笑みかける。
「職員室に行ったら、ここだって……次の時間、うちのクラスの授業です。何かありますか?」
表情を変えずに、歩がそう言った。
この学校には各教科ごとに係が設けられており、入学早々に分担が決められていた。佐伯が数学教師だということは知らないうちに、歩は偶然、数学の係に決まっていたのだった。
「今日は特にないかな」
「そうですか」
佐伯の言葉に、歩は背を向ける。そんな歩に、佐伯が口を開いた。
「あ、待って」
「はい?」
「これ、持ってくれる?」
佐伯が差し出したのは、佐伯自身の教科書である。
「これくらい、自分で持っていってください」
歩はつれなくそう言う。そんな歩に反して、佐伯の態度はあくまで軽く演じている。
「堅いなあ。仕事あげようって言うんだよ」
「仕事がないならいいです」
「でも君、数学の係なんだろ。係は一人だけ?」
「いえ。もう一人の古屋さんが、お休みで……」
その時、予鈴が鳴った。
「じゃあ、行きますか」
佐伯は教科書を持つと、歩と二人で教室へと向かっていった。
佐伯は新入生の生徒たちにも人気者となっていたが、歩は中学から一緒の友達もおらず、社交的な性格ではないため、クラスメイトたちと馴染めずにいた生徒であった。
放課後。歩は一人、クラブ見学をしていた。校舎を周っていると、音楽室から軽快なメロディが聞こえてくる。ふと中を覗くと、そこには佐伯の姿があった。
佐伯は電子ピアノを駆使し、好きなように弾いている。歩がその様子をしばらく見ていると、佐伯は歩に気がついて、手招きをした。
「……あの」
歩は我に返りつつ、恐る恐るドアを開けた。まるでこれから叱られにいくように、歩はバツが悪そうにしている。
そんな歩と反して、佐伯は少し照れたように笑っている。
「いつからいたんだよ。入ってくればいいのに」
佐伯の変わらぬ態度に少しホッとして、歩は佐伯に近づいた。
「あ、ピアノ、お上手ですね」
「上手じゃないけど、昔バンドを組んでてね。今でも趣味でやってる。この時間は空いてるから、弾かせてもらってるんだ。おまえは一人で、こんなところに何の用だ?」
「クラブ見学に……」
「一人で?」
「はい」
「……まだ友達いないのか?」
佐伯の言葉に傷つきながらも、歩は図星で一瞬、言葉を失った。
「よ、余計なお世話です」
「ふうん?」
佐伯はそれ以上何も言わず、静かにピアノを弾き始める。歩は一人、教壇の段差へと座った。
「この曲、知ってる?」
突然、佐伯が尋ねたので、歩はそのまま頷く。
「うん。カントリーロード……」
「当たり。俺にとっても古い曲だけど、やっぱ名曲だよな」
「……いいな、先生は」
突然、歩がそう言った。
「どうして?」
「有名大学出で、ピアノまで弾けて、人気者でなんでも持ってて……」
歩の言葉に、佐伯はピアノを弾く手を止め、歩を優しく見つめた。
「それは俺だけじゃないだろう。おまえだって、これからなんじゃないの?」
それを聞いて、歩は俯き、首を振る。
「でも、私は馬鹿だし、器用じゃないし、何にも出来ない……」
「誰が決めたんだよ。おまえの人生、これからだろうが」
「……わかんない」
佐伯は苦笑すると、もう一度ゆっくりと、メロディを奏でる。
「じゃあ、弾いてみる? この曲。カントリーロード」
佐伯の言葉に驚いて、歩は慌てて首を振った。
「む、無理だよ。ピアノは習ってたけど、全然うまくないし、楽譜も読めないもん!」
「だから俺が教えるよ。難しくないから」
軽くそう言った佐伯に、歩は静かに近づき、口を開く。
「……本当に?」
「ああ」
「いいの?」
「ああ。その代わり、頑張って学校生活に慣れろよ」
「……うん」
「じゃあ、約束」
「約束……」
二人は指切りをした。
それから放課後の数十分間、二人だけのピアノレッスンが始まった。それを機に、歩も次第に打ち解け、明るくなっていった。
数週間後、放課後。
歩は佐伯からの課題曲を、見事に弾いて見せた。
「やったじゃん、歩。完璧だよ」
佐伯が拍手をして言う。
「ううん。ちょっと覚束なかった……緊張して、手が震えちゃった」
答える歩は、照れと嬉しさを兼ね備えた様子で笑った。佐伯は続けて、歩に笑いかける。
「いやいや、間違い一つもないし、短期間でよくやったな。すごいじゃん」
「ありがとう、先生。少し自信持ってきた」
「ああ。これでカントリーロードは卒業だな」
「うん……」
「友達も出来てきたみたいだし、これで高校生活、ちょっとは楽しくなるんじゃない? 自信持てよな」
「ありがとう。先生……」
歩がそう言ったその時、チャイムが鳴った。
「おお、もうこんな時間か。おまえも美術部入ったんだろ? 遅れるぞ」
佐伯はそう言うと、立ち上がる。
二人が会っていたのは、放課後の部活が始まる前までという、短い時間だった。
「う、うん……」
歩はピアノを片付けると、立ち止まったまま、動こうとしない。
「どうした?」
佐伯はそんな歩に首を傾げながら、心配そうに歩の顔を覗きこむ。
「……先生は、なんで剣道部の顧問なの?」
俯いたまま、話題を変えて、歩が言った。佐伯はこの学校に赴任してから、ずっと剣道部の顧問だ。
「ああ。昔、習わされてたんだ。こう見えても黒帯だよ」
「すごい。先生って、なんでも出来るんだ」
「なんだ? 今度は剣道鍛えてくれって言うんじゃないだろうな。大丈夫だよ。歩は歩で、良いところがたくさんあるんだから。ほら、自信持っていけ」
佐伯はそう言うと、歩の背中を押し、入口まで歩き出した。
「……先生。もうピアノ、教えてくれないの?」
歩は思い切ってそう尋ねる。
課題曲が弾けるまでという、条件つきの秘密のレッスン。おかげで歩もずいぶん明るくなり、友達も出来たため、佐伯の目標も達成されたので、もうこの時間は必要なくなってしまった。しかし歩にとってこの時間がなくなることは、とても寂しく感じる。
「うーん。教えないわけじゃないけど……」
歩の言葉に、佐伯は小さく溜息を吐いてそう言った。歩はすがるような思いで、必死に佐伯に笑いかける。
「じゃあ……」
「でも、生徒はおまえだけじゃないからなあ……」
歩の言葉を遮って、佐伯が言った。その言葉に、歩は深く傷つき俯く。
「……わかった。ありがとうございました!」
歩は半ば投げやりにそう言うと、逃げるように音楽室を出ていった。
佐伯は小さく息を吐くと、静かに音楽室を後にした。