表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
教師  作者: あいる華音
8/33

8、偽りの言葉

 歩は、不安の中で目を覚ました。

「豊……?」

 近くに佐伯の気配はなかった。歩は一階に駆け下り、佐伯を捜す。しかし佐伯の姿はない。歩はソファに座りこむ。

 そこに、佐伯が帰ってきた。

「豊!」

 不安と安心が入り混じったような、複雑な表情を浮かべ、歩が佐伯に駆け寄る。

「歩……起きてたのか?」

「どこ行ってたの?」

「ああ、ちょっと……買い物だよ。二人分の朝食もなかったから」

 佐伯の手には、コンビニの袋が握られている。歩の目から涙が溢れ出た。

「どうした?」

 歩の顔を覗きながら、佐伯は歩の涙を指で拭ってやる。すると、静かに歩が口を開いた。

「今日が、ずっと来なければいいのに……」

「……もう今日だよ」

 佐伯は苦笑すると、歩の額に手を触れた。

「熱は? 寒くないか?」

「平気……」

 歩はそう言って、佐伯に抱きついた。佐伯も静かに抱き返す。

「……歩。俺はこうして会えただけで嬉しいよ。一年よりもっと長く、もうおまえとは会えないと思っていたから」

「豊……」

「おまえはまだ学生で、未成年で、だから許されないことも多いと思う。一年経てば、何かが変わるよ」

「そうかな……」

 歩は顔を上げ、佐伯を見つめる。佐伯は優しく歩に微笑みかけていた。

「きっとね……」

「うん……」

 二人はそっと、キスをした。

「さあ、朝飯にしよう。そこ座ってろよ」

 佐伯は歩から離れると、買ってきたパンを焼き始めた。歩はソファに座り、そばに置いてあったイニシャル入りのクッションを抱きしめる。

「これ、まだ使っててくれてたんだね」

 振り返りながら、歩がそう尋ねる。

「ああ。おまえが作ってくれたんだよな」

「うん。今年のバレンタインにね……でも、もうずっと前の話みたい」

「そうだな……」

「これは、誕生日に豊にもらったネックレス」

 歩はそう言って、首にかかったネックレスを見せた。

「ああ」

 佐伯は少し照れ臭そうにしながらも、優しく微笑んでいる。

「豊は? 私があげたパスケース、使ってる?」

「ああ。使ってるよ」

 それを聞いて、歩も安心したように笑った。

 佐伯は手際よく朝食を作ると、テーブルに並べ、歩の隣に座る。

「さあ出来た、食べよう。いただきます」

「いただきます」

 二人は笑いながらそう言い、料理に口をつけた。

「豊……今日、学校あるんだよね?」

 歩はあまり食べようとせず、そう尋ねる。

「ああ」

「……新しい学校はどう?」

「田舎の学校だけど、みんな明るくていい生徒ばかりだよ」

「……豊は、どこ行っても平気だね」

 変わらぬ佐伯の様子に、歩が言う。佐伯は苦笑した。

「なに言ってんだ。早く食べろ。お母さんが来るよ」

「うん……」

 その時、家の呼び鈴が鳴った。歩の身体が一瞬、硬直するのがわかった。

「早いな……」

 佐伯が立ち上がると、歩が佐伯の手を握る。そんな歩に驚きつつも、宥めるように歩を抱きしめ、離れた。

「大丈夫」

「う、うん……」

 佐伯は歩を置いて、玄関へと向かっていった。そしてドアを開けると、そこには静香がいる。

「静香……」

「おはようございます。様子が気になって……」

 予想外の訪問者に、佐伯は緊張と安堵が入り混じったような、複雑な表情で微笑む。

「ああ……大丈夫だよ。上がるか?」

「ううん……」

 静香は首を振ると、リビングからこちらを覗いている歩に気がつき、会釈をする。歩は訪問者が静香だとわかると、玄関までやってきた。

「あの……昨日はありがとうございました」

 深々と頭を下げて歩が言ったので、つられて静香も頭を下げる。

「え、いえ、別に……」

 佐伯はそんな二人に微笑むと、口を開いた。

「上がれよ。いいよな? 歩」

「うん」

 招くように奥へと入っていく佐伯と歩に、静香も後に続いた。

 佐伯はすぐに紅茶を入れ始める。その間に、一人掛けのソファに静香が座り、二人掛けのソファに歩が座る形となった。

「昨日は本当にありがとうございました。私の着替えまでしてくれたって聞いて、ちゃんとお礼が言いたかったんです」

 歩はもう一度頭を下げ、そう言った。

「ううん、いいんです。困った時は、お互いさまだし……」

 静香は少し照れながら答える。歩は微笑んだまま、少し俯いた。

「私、今日帰るんだ……」

「え……」

 そこに、佐伯が静香に紅茶を差し出し、空いている二人の間に座った。

「あ、歩さん。風邪は大丈夫なんですか?」

 弾まない会話に、静香が尋ねる。

「ええ、おかげさまですっかり。熱もほとんど下がったし」

「よかった」

 静香の優しい笑顔に、歩は佐伯を見つめる。その視線に気づき、佐伯は怪訝な顔で歩を見つめ返すと、歩は目を逸らした。

「どうした?」

「ううん」

「変なやつだな」

「……豊の周りには、いつもいい人がいるね。しかも美人で……」

「え?」

 歩の言葉に、静香が驚いた。佐伯は苦笑している。

「なに、おまえ妬いてんの?」

「うん。ちょっと……」

「バーカ」

「だって……」

 静香は、歩の素直な一面を見て驚いた。自分なら必死に否定しているだろう。

「あの……私、様子を見にきただけだから。元気そうで安心したんで、もう行きます」

 佐伯と歩の間に流れる暖かな空気を感じて、静香は居たたまれなくなり、立ち上がった。

「そうか。いろいろありがとうな」

 佐伯は軽くお辞儀する。静香は首を振った。

「ううん。じゃあ、歩さん。また……」

「ありがとう……」

 静香はそのまま、佐伯の家を後にした。

 二人の間に揺るぎない何かがあるのを感じた静香は、その間には入れないと知った。

「本当に綺麗な人だね。静香さん……」

 静香が去った後、歩がそう言った。佐伯は歩を見つめる。

「そうか?」

「うん……」

「心配すんなって」

「無理」

「無理?」

 予想外の歩の言葉に、佐伯は思わず聞き返す。

「無理だよ……私はずっと離れ離れだけど、あんな美少女に、豊は毎日会うんだよ?」

「じゃあ、おまえは何なんだよ。学校にカッコいいやつ、いっぱいいるだろ」

「それはそうだけど……」

 何もかもが不安な様子の歩に、佐伯は優しく微笑みかける。

「心配すんなって。それより、辛くてもちゃんと学校に行けよ。おまえのお母さんも、大分参ってるみたいだしな……」

「わかってるよ。わかってるけど……お母さん、口を開けば恨み言ばっかりなんだもの……」

「……わかるけどな」

「豊。パワーをちょうだい」

 突然そう言った歩に、佐伯の顔が近づく。

「俺も……」

 二人はキスをした。長いキスだった。

 その時、呼び鈴が鳴った。無言のまま、二人は静かに離れる。

「……今度こそ、お母さんだな」

 佐伯はそう言うと、思わず流れた歩の涙を指で拭った。

「もう、さよならなの?」

 涙声で歩が言う。そんな歩に、佐伯は真剣な顔で見つめる。

「さよならじゃないよ……生きていれば、いつかきっと会えるだろう?」

「……本当?」

「ああ」

「……うん」

 その時、佐伯は歩をしっかりと抱きしめた。

「豊?」

「……元気でな……」

「豊……」

 歩の目から再び涙が溢れた時、佐伯は歩から離れ、玄関へと向かっていった。

 玄関のドアを開けると、そこには歩の母親が立っている。

「あの子は……」

「中に……」

 佐伯がそう言いかけた時、母親が佐伯に近づき、小声で口を開いた。

「あの子がこちらを見ています。どうか今こそ、あの子から離れてください」

「……」

 最期通告のような母親のその言葉に、佐伯は深く深呼吸した。

「佐伯さん。あの子のために、どうか……」

 佐伯の目に映っているのは、いつもは口うるさく堂々とした女性ではない。ただのか弱い女性だった。

「……安心してください……」

 佐伯は、数メートル後ろに居るはずの歩に聞こえるような声でそう言った。

「歩さんには、また会えると言っておきました。これでおとなしく帰るはずです……でも、後藤さんたちも、目を離さないでください。今後このようなことがあると、こちらも迷惑ですから……僕には新しい生活があるんです。まだこちらにも慣れているわけではありませんし、新しい恋愛に踏み切ろうとしているんです。歩さんとは……もう終わったつもりですから。今後、会うこともないでしょう。僕も歩さんのことは、一切忘れるつもりです……」

 佐伯はゆっくりとそう言った。自分でも何を言っているのかわからなくなる。だが佐伯は、歩のために身を引こうと思った。

 歩はリビングで、佐伯のその声をしっかりと聞いていた。

「ありがとうございます……」

 母親は佐伯にそう言うと、奥のリビングに向かって口を開く。

「歩。帰るわよ」

 母親がそう言うと、歩は涙をたくさん溜めて、こちらを見ていた。

「早くいらっしゃい。お母さんたちにも、佐伯さんにも迷惑をかけたのよ。早く帰りましょう。学校だって、いつまでも休めないわ」

 母親の言葉に、歩は何も言わず玄関へと向かう。佐伯はもう、歩の顔など見れなかった。歩もまた、佐伯の顔を見るのが怖く感じる。そんな中で、母親だけが機敏に動いていた。

「歩。佐伯先生にご挨拶なさい。ご迷惑かけたんだから」

 靴を履いて振り向く歩は、母親に言われるまま、ゆっくりと頭を下げる。

「……ご、ごめんなさい……」

 歩は悲しさに震え、か細い声でそう言った。やっと見上げた佐伯の顔は、無表情に冷たく見える。

「では、佐伯さん。お世話になりました。お元気で」

「……後藤さんも」

 母親の言葉に、佐伯は機械的にそう答え、二人を見送るために一緒に外へと出ていく。家の前には、タクシーが止まっていた。

「……歩。元気でな……」

 やっと佐伯もそう声をかけた。佐伯の精一杯の言葉だったが、歩は放心状態で、返事など出来ない。母親は歩を先にタクシーに乗せると、佐伯にお辞儀をする。そしてそのまま何も言わず、タクシーは去っていった。

「元気で……歩……」

 佐伯はタクシーが見えなくなるまで見送ると、一人、部屋で頭を抱えた。これが二人にとっていいことだと信じたかったが、後悔と罪悪感だけが、佐伯を襲っていた。


 タクシーの中で、歩は泣いていた。

「……歩。あの人のことは忘れなさい。あの人にも、新しい生活があるんですよ。あなたとはもう終わったんだから、いつまでもあの人のことばかり考えていないで、次へ進みなさい。学校だって、あなたを待ってるのよ」

 言い聞かせるように、歩の肩を抱きながら、母親が言う。そんな母親の手を、歩は振り解いた。

「お母さんに、私の気持ちなんてわからない! どうして……私には豊しかいないのに!」

 歩が泣きながら言った。歩の涙は、止まることを知らない。

「……佐伯さんだって、もう前へ進んでいるのよ。あなたのことなんて、すぐに忘れてしまうわ」

「そんなことない! そんなの嘘よ。豊だって……豊にだって、私しかいないはずだもん!」

 歩の言葉に、母親はめげずに真剣な表情で見つめる。

「歩。佐伯先生ね、さっきお母さんにこっそり言ったのよ。歩のことは忘れたいから、もう歩をよこさないでくれって……」

 事前に話し合っていた佐伯と母親の筋書きを、歩が知る由もない。

「……そんなの、嘘だもん……」

 歩は耳を覆った。しかし、さっき佐伯が口にしていたことは、はっきりと歩の耳に残っている。信じたくないが、あれが佐伯の本心だと、歩は納得せざるを得なかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ