8、偽りの言葉
歩は、不安の中で目を覚ました。
「豊……?」
近くに佐伯の気配はなかった。歩は一階に駆け下り、佐伯を捜す。しかし佐伯の姿はない。歩はソファに座りこむ。
そこに、佐伯が帰ってきた。
「豊!」
不安と安心が入り混じったような、複雑な表情を浮かべ、歩が佐伯に駆け寄る。
「歩……起きてたのか?」
「どこ行ってたの?」
「ああ、ちょっと……買い物だよ。二人分の朝食もなかったから」
佐伯の手には、コンビニの袋が握られている。歩の目から涙が溢れ出た。
「どうした?」
歩の顔を覗きながら、佐伯は歩の涙を指で拭ってやる。すると、静かに歩が口を開いた。
「今日が、ずっと来なければいいのに……」
「……もう今日だよ」
佐伯は苦笑すると、歩の額に手を触れた。
「熱は? 寒くないか?」
「平気……」
歩はそう言って、佐伯に抱きついた。佐伯も静かに抱き返す。
「……歩。俺はこうして会えただけで嬉しいよ。一年よりもっと長く、もうおまえとは会えないと思っていたから」
「豊……」
「おまえはまだ学生で、未成年で、だから許されないことも多いと思う。一年経てば、何かが変わるよ」
「そうかな……」
歩は顔を上げ、佐伯を見つめる。佐伯は優しく歩に微笑みかけていた。
「きっとね……」
「うん……」
二人はそっと、キスをした。
「さあ、朝飯にしよう。そこ座ってろよ」
佐伯は歩から離れると、買ってきたパンを焼き始めた。歩はソファに座り、そばに置いてあったイニシャル入りのクッションを抱きしめる。
「これ、まだ使っててくれてたんだね」
振り返りながら、歩がそう尋ねる。
「ああ。おまえが作ってくれたんだよな」
「うん。今年のバレンタインにね……でも、もうずっと前の話みたい」
「そうだな……」
「これは、誕生日に豊にもらったネックレス」
歩はそう言って、首にかかったネックレスを見せた。
「ああ」
佐伯は少し照れ臭そうにしながらも、優しく微笑んでいる。
「豊は? 私があげたパスケース、使ってる?」
「ああ。使ってるよ」
それを聞いて、歩も安心したように笑った。
佐伯は手際よく朝食を作ると、テーブルに並べ、歩の隣に座る。
「さあ出来た、食べよう。いただきます」
「いただきます」
二人は笑いながらそう言い、料理に口をつけた。
「豊……今日、学校あるんだよね?」
歩はあまり食べようとせず、そう尋ねる。
「ああ」
「……新しい学校はどう?」
「田舎の学校だけど、みんな明るくていい生徒ばかりだよ」
「……豊は、どこ行っても平気だね」
変わらぬ佐伯の様子に、歩が言う。佐伯は苦笑した。
「なに言ってんだ。早く食べろ。お母さんが来るよ」
「うん……」
その時、家の呼び鈴が鳴った。歩の身体が一瞬、硬直するのがわかった。
「早いな……」
佐伯が立ち上がると、歩が佐伯の手を握る。そんな歩に驚きつつも、宥めるように歩を抱きしめ、離れた。
「大丈夫」
「う、うん……」
佐伯は歩を置いて、玄関へと向かっていった。そしてドアを開けると、そこには静香がいる。
「静香……」
「おはようございます。様子が気になって……」
予想外の訪問者に、佐伯は緊張と安堵が入り混じったような、複雑な表情で微笑む。
「ああ……大丈夫だよ。上がるか?」
「ううん……」
静香は首を振ると、リビングからこちらを覗いている歩に気がつき、会釈をする。歩は訪問者が静香だとわかると、玄関までやってきた。
「あの……昨日はありがとうございました」
深々と頭を下げて歩が言ったので、つられて静香も頭を下げる。
「え、いえ、別に……」
佐伯はそんな二人に微笑むと、口を開いた。
「上がれよ。いいよな? 歩」
「うん」
招くように奥へと入っていく佐伯と歩に、静香も後に続いた。
佐伯はすぐに紅茶を入れ始める。その間に、一人掛けのソファに静香が座り、二人掛けのソファに歩が座る形となった。
「昨日は本当にありがとうございました。私の着替えまでしてくれたって聞いて、ちゃんとお礼が言いたかったんです」
歩はもう一度頭を下げ、そう言った。
「ううん、いいんです。困った時は、お互いさまだし……」
静香は少し照れながら答える。歩は微笑んだまま、少し俯いた。
「私、今日帰るんだ……」
「え……」
そこに、佐伯が静香に紅茶を差し出し、空いている二人の間に座った。
「あ、歩さん。風邪は大丈夫なんですか?」
弾まない会話に、静香が尋ねる。
「ええ、おかげさまですっかり。熱もほとんど下がったし」
「よかった」
静香の優しい笑顔に、歩は佐伯を見つめる。その視線に気づき、佐伯は怪訝な顔で歩を見つめ返すと、歩は目を逸らした。
「どうした?」
「ううん」
「変なやつだな」
「……豊の周りには、いつもいい人がいるね。しかも美人で……」
「え?」
歩の言葉に、静香が驚いた。佐伯は苦笑している。
「なに、おまえ妬いてんの?」
「うん。ちょっと……」
「バーカ」
「だって……」
静香は、歩の素直な一面を見て驚いた。自分なら必死に否定しているだろう。
「あの……私、様子を見にきただけだから。元気そうで安心したんで、もう行きます」
佐伯と歩の間に流れる暖かな空気を感じて、静香は居たたまれなくなり、立ち上がった。
「そうか。いろいろありがとうな」
佐伯は軽くお辞儀する。静香は首を振った。
「ううん。じゃあ、歩さん。また……」
「ありがとう……」
静香はそのまま、佐伯の家を後にした。
二人の間に揺るぎない何かがあるのを感じた静香は、その間には入れないと知った。
「本当に綺麗な人だね。静香さん……」
静香が去った後、歩がそう言った。佐伯は歩を見つめる。
「そうか?」
「うん……」
「心配すんなって」
「無理」
「無理?」
予想外の歩の言葉に、佐伯は思わず聞き返す。
「無理だよ……私はずっと離れ離れだけど、あんな美少女に、豊は毎日会うんだよ?」
「じゃあ、おまえは何なんだよ。学校にカッコいいやつ、いっぱいいるだろ」
「それはそうだけど……」
何もかもが不安な様子の歩に、佐伯は優しく微笑みかける。
「心配すんなって。それより、辛くてもちゃんと学校に行けよ。おまえのお母さんも、大分参ってるみたいだしな……」
「わかってるよ。わかってるけど……お母さん、口を開けば恨み言ばっかりなんだもの……」
「……わかるけどな」
「豊。パワーをちょうだい」
突然そう言った歩に、佐伯の顔が近づく。
「俺も……」
二人はキスをした。長いキスだった。
その時、呼び鈴が鳴った。無言のまま、二人は静かに離れる。
「……今度こそ、お母さんだな」
佐伯はそう言うと、思わず流れた歩の涙を指で拭った。
「もう、さよならなの?」
涙声で歩が言う。そんな歩に、佐伯は真剣な顔で見つめる。
「さよならじゃないよ……生きていれば、いつかきっと会えるだろう?」
「……本当?」
「ああ」
「……うん」
その時、佐伯は歩をしっかりと抱きしめた。
「豊?」
「……元気でな……」
「豊……」
歩の目から再び涙が溢れた時、佐伯は歩から離れ、玄関へと向かっていった。
玄関のドアを開けると、そこには歩の母親が立っている。
「あの子は……」
「中に……」
佐伯がそう言いかけた時、母親が佐伯に近づき、小声で口を開いた。
「あの子がこちらを見ています。どうか今こそ、あの子から離れてください」
「……」
最期通告のような母親のその言葉に、佐伯は深く深呼吸した。
「佐伯さん。あの子のために、どうか……」
佐伯の目に映っているのは、いつもは口うるさく堂々とした女性ではない。ただのか弱い女性だった。
「……安心してください……」
佐伯は、数メートル後ろに居るはずの歩に聞こえるような声でそう言った。
「歩さんには、また会えると言っておきました。これでおとなしく帰るはずです……でも、後藤さんたちも、目を離さないでください。今後このようなことがあると、こちらも迷惑ですから……僕には新しい生活があるんです。まだこちらにも慣れているわけではありませんし、新しい恋愛に踏み切ろうとしているんです。歩さんとは……もう終わったつもりですから。今後、会うこともないでしょう。僕も歩さんのことは、一切忘れるつもりです……」
佐伯はゆっくりとそう言った。自分でも何を言っているのかわからなくなる。だが佐伯は、歩のために身を引こうと思った。
歩はリビングで、佐伯のその声をしっかりと聞いていた。
「ありがとうございます……」
母親は佐伯にそう言うと、奥のリビングに向かって口を開く。
「歩。帰るわよ」
母親がそう言うと、歩は涙をたくさん溜めて、こちらを見ていた。
「早くいらっしゃい。お母さんたちにも、佐伯さんにも迷惑をかけたのよ。早く帰りましょう。学校だって、いつまでも休めないわ」
母親の言葉に、歩は何も言わず玄関へと向かう。佐伯はもう、歩の顔など見れなかった。歩もまた、佐伯の顔を見るのが怖く感じる。そんな中で、母親だけが機敏に動いていた。
「歩。佐伯先生にご挨拶なさい。ご迷惑かけたんだから」
靴を履いて振り向く歩は、母親に言われるまま、ゆっくりと頭を下げる。
「……ご、ごめんなさい……」
歩は悲しさに震え、か細い声でそう言った。やっと見上げた佐伯の顔は、無表情に冷たく見える。
「では、佐伯さん。お世話になりました。お元気で」
「……後藤さんも」
母親の言葉に、佐伯は機械的にそう答え、二人を見送るために一緒に外へと出ていく。家の前には、タクシーが止まっていた。
「……歩。元気でな……」
やっと佐伯もそう声をかけた。佐伯の精一杯の言葉だったが、歩は放心状態で、返事など出来ない。母親は歩を先にタクシーに乗せると、佐伯にお辞儀をする。そしてそのまま何も言わず、タクシーは去っていった。
「元気で……歩……」
佐伯はタクシーが見えなくなるまで見送ると、一人、部屋で頭を抱えた。これが二人にとっていいことだと信じたかったが、後悔と罪悪感だけが、佐伯を襲っていた。
タクシーの中で、歩は泣いていた。
「……歩。あの人のことは忘れなさい。あの人にも、新しい生活があるんですよ。あなたとはもう終わったんだから、いつまでもあの人のことばかり考えていないで、次へ進みなさい。学校だって、あなたを待ってるのよ」
言い聞かせるように、歩の肩を抱きながら、母親が言う。そんな母親の手を、歩は振り解いた。
「お母さんに、私の気持ちなんてわからない! どうして……私には豊しかいないのに!」
歩が泣きながら言った。歩の涙は、止まることを知らない。
「……佐伯さんだって、もう前へ進んでいるのよ。あなたのことなんて、すぐに忘れてしまうわ」
「そんなことない! そんなの嘘よ。豊だって……豊にだって、私しかいないはずだもん!」
歩の言葉に、母親はめげずに真剣な表情で見つめる。
「歩。佐伯先生ね、さっきお母さんにこっそり言ったのよ。歩のことは忘れたいから、もう歩をよこさないでくれって……」
事前に話し合っていた佐伯と母親の筋書きを、歩が知る由もない。
「……そんなの、嘘だもん……」
歩は耳を覆った。しかし、さっき佐伯が口にしていたことは、はっきりと歩の耳に残っている。信じたくないが、あれが佐伯の本心だと、歩は納得せざるを得なかった。