7、母親
暖かいが不安に満ちた空気が、二人を包む。そんな空気を一本の電話が断ち切った。
「お母さんかも……」
被った布団を握りしめ、歩が急に怯えた顔をして言う。
「……そうかもな」
「出ないで」
「歩。一年、頑張ろう。俺はおまえだけだから」
佐伯はそう笑いかけながら、歩の髪を撫でる。そんな佐伯に勇気づけられるように、歩も小さく微笑み、頷いた。
佐伯はそのまま、電話の受話器を取る。
「はい、佐伯です」
『後藤です』
電話の相手は、まさしく歩の母親だった。
『あの子は、まだ見つかりませんか?』
「いえ。先ほど……」
『見つかったんですか! では、なぜ連絡してくれないのです。約束したではありませんか!』
逆上した様子で、母親が言う。佐伯は目を伏せた。
「申し訳ありません。歩さん、突然気を失ってしまって……雨に打たれていたようで、少し熱があり、風邪のようです。きちんと話がしたくて、様子を見ておりました」
『倒れた? それで、大丈夫なのですか?』
「ええ。先ほど意識が戻りまして、少し話をしていました」
『では、今からすぐ迎えに行きます』
「今からですか?」
その時、歩が佐伯から受話器を奪った。
「お母さん。私……」
『歩! あなたって子は……』
「ごめんなさい……でも、どうしても先生に会いたかったの。会って話がしたかったの」
歩は泣きながら、そう言った。
『話って、何の話ですか。あなたは何をしたのかわかっているの?』
母親の言葉は、歩の心を突き刺す。母親に対する罪悪感と嫌悪感とが、歩の中で揺れていた。
「わかってるよ……でもお母さん、私の話なんて聞いてくれなかったじゃない」
『聞いているじゃない。いつでもあなたのことを心配して……』
「嘘! だったらどうして、私たちを引き裂くの。ろくに話もさせてくれないし、私がどんな気持ちでここまで来たか、お母さん、なんにもわかってない!」
『歩!』
歩の目から、涙がどんどん溢れ出す。佐伯はそばで歩の様子を見つめている。
「私、帰りたくない。ずっとここにいる!」
だだをこねる子供のように、歩はそう言った。
『何を言っているの。あなたはまだ高校生なのよ。あなたはお母さんの言うことを聞いていればいいの。お母さんの言うことを聞いていれば、あなたは幸せになれるのよ』
「嫌! 帰りたくない!」
「歩、落ち着け」
興奮する歩に、今度は佐伯が受話器を取った。
「後藤さん……佐伯です。今はこの通り、歩さんも気が動転しているようです。少し時間をくれませんか? 今日は熱もありますし、きちんと話をして、明日には帰るよう説得しますから……」
佐伯が言った。だが、すぐに母親の言葉が返ってくる。母親も歩と同じく、ずいぶんと興奮しているようだ。
『そんなこと出来るわけがないでしょう! あなたは歩に、何をしたかわかっているのですか。我々と約束だってしたではありませんか』
歩の母親の言葉をかみしめるように、佐伯は目をつむる。
「はい。もう会うことはないと思っていました……でも会ってしまった。だからといって、彼女をどうこうするつもりはありません。ただ、彼女が私を訪ねてきた気持ちだけは、踏みにじりたくないのです。彼女の気が済むまで、話を聞いてやりたいのです。一晩だけ時間をいただけないでしょうか? このまま帰しても、歩さんの心は晴れないでしょうし、根本の解決にはなりません。必ず帰るよう説得しますから」
歩の母親が一瞬、黙りこんだ。そしてすぐに口を開く。
『……いいですか? 指一本触れないと、約束してください。歩は大事な一人娘なんです。それをあなたに傷つけられて……明日の朝、迎えに参ります。もうこれ以上、歩に関わらないでください!』
「……わかりました。では一晩、預からせていただきます。ありがとうございます」
佐伯はそこで電話を切った。そばでは歩が、必死なまでの顔で佐伯を見つめている。
「……ここにいられるの?」
「今日はね……」
それを聞いて、歩の表情が明るくなる。それを見て微笑み返し、佐伯は歩の額に触れた。
「熱がある。もう休めよ」
佐伯はそう言うと、ベッドから立ち上がる。そんな佐伯の態度に、またも歩の表情が暗くなった。
「……豊は?」
「俺は、下のソファで寝るから」
「どうして……?」
「俺がいたんじゃ、風邪も治らないだろうしな」
「そんなことないよ。早く治るかもしれないよ。ほら、元気だもん」
歩が元気に振舞って、そう言う。
「まったく、おまえは熱があっても元気だな……話はさっきしたろう? 一年頑張るって」
佐伯の言葉に、歩は悲しく微笑み、佐伯を見つめる。
「頑張るから……一年分の元気をちょうだい」
それを聞いて、佐伯は目を伏せる。佐伯ももう限界だった。
「豊……」
「……おまえは、ねだるのだけはうまいよな……」
「だって……」
「俺、おまえのお母さんとの約束を、破ってばかりいるよ……」
佐伯はそう言うとベッドに座り直す。歩はそんな佐伯に、もう一度抱きついた。
「私との約束、破らなければいいよ」
「こいつ」
佐伯は苦しそうに微笑むと、歩をしっかりと抱きしめる。やがて二人は寄り添うように、温め合いながら眠りについた。
早朝。電話のベルが鳴り、佐伯は受話器を取った。隣りにいる歩はぐっすりと眠っている。
「はい……」
『早朝に申し訳ありません。後藤です』
受話器の向こうから聞こえる声は、歩の母親であった。佐伯は眠い目を叩き起こし、受話器に耳を傾ける。
「はい。どうも……」
『歩は……』
その言葉に、佐伯は歩を見つめる。
「……風邪の方は大丈夫だと思います。寝る前に、薬も飲ませましたし」
『そうですか。あなたと二人きりで話がしたいのですが……』
「今ですか?」
『はい』
佐伯は静かにベッドから立ち上がり、声を顰めた。
「わかりました……今からそちらに向かいます」
佐伯は受話器を切ると、もう一度歩を見つめた。歩は薬のせいかぐっすり眠っていて、額に手を当てると、熱も引いている。佐伯はすぐに着替えると、家を出ていった。
歩の母親が泊まるホテルの喫茶店で、佐伯は母親と会った。歩の母親は、心なしか以前会った時よりもやつれた様子で、恨めしそうに佐伯を見つめ、尋ねる。
「歩の様子はどうですか?」
「……熱は下がったようですし、風邪の方は大丈夫だと思います。少しですが話し合いましたし、もう無茶はしないと思います」
「……あなたは……まだ歩を、愛しておられるのですか?」
単刀直入に歩の母親が尋ねた。佐伯は俯き加減で、静かに口を開く。
「……手紙でもお話しました通り、僕たちはいけないと知りつつも、真剣につき合って参りました。教師と生徒だから許されないことなど、わかり切っていましたが、それでも止められなかったのは……自分の責任も然ることながら、互いの気持ちが強すぎたからだと思います……」
苦しそうだが正直に、佐伯が言った。歩の母親は、嫌悪感を露わにしている。
「あなたは、歩の将来のことまでは考えてくださらないのですか。教師のくせに、あなたはあの子に一生消えないレッテルを貼り、傷つけたんですよ? あの子の青春を奪い、これからもあの子はあなたを慕う……あなたは、一生あの子を縛りつけるおつもりなんですか!」
「そんなことは、決して……」
「では、あなたの人間性を疑いますわ」
歩の母親の言葉に、佐伯は俯いた。
「……なんとおっしゃられても、仕方がありません。僕も、出る答えは毎回違います……後藤さんにこんなことを言うのはどうかと思いますが、いっそ教職という仕事を捨てて、歩さんを受け入れられたらと、思ったこともあります」
「なんですって!」
佐伯は険しい顔で、尚も話を続ける。
「でも……僕には、そこまでの度量はありません。歩さんの将来のことを考えないでもありません。僕も後藤さんと同じことを考えていました。一番楽しいこの時期に、自分を愛したことで彼女の将来を奪うなら、いっそ離れた方がいいと……今でも思っています」
「だったら離れてください! 一生、あの子に会わないで!」
母親の悲痛な訴えが、重く佐伯に圧しかかる。佐伯は小さく息を吐くと、まっすぐに歩の母親を見つめる。
「はい……と言いたいところですが、彼女に会って思いました。僕の気持ちは捨てられないと……」
佐伯ははっきりとそう言った。歩の母親はうなだれるようにしながら、お茶を飲んでなんとか冷静さを保とうとしている。
「佐伯さん……そこまであの子を思ってくださるのは、とても嬉しい……でも、あの子はまだ高校生なんです。これからたくさん恋をして大人になる時期に、あなた一人で一生を無駄にしかねません。今日お呼びしたのは、あなたならわかってくださると思ったから……」
すると突然、歩の母親が深々と頭を下げた。
「佐伯さん。どうかあの子のためを思うなら、あの子ときちんと別れてください!」
「後藤さん! 頭を上げてください」
「では、どうすれば聞いてくださいますか? お願いです。あの子は一人娘で、今まで大切に育ててきました。あの子の人生にとって、あなたは必要な人間ではないはずです。少し熱が上がっているだけで、まだ子供なんです。どうか別れてください。最後にあの子をどれだけ傷つけても構いません。あなたを忘れて、新しい人生を踏み出せるように……お願いします!」
すがる思いで、母親が佐伯を見つめる。その目は、歩そっくりであった。
「……どうしろとおっしゃるんですか……?」
そんな歩の母親に、佐伯は苦しげな表情を浮かべたまま、そう尋ねる。
「あの子を、振ってくださればいいだけのことです」
「……それで彼女が幸せになると思いますか?」
「もちろんです」
佐伯は押し黙り、コーヒーに口をつけた。
「僕は……真剣に彼女を愛してしまったから……この先、彼女が誰を愛しても咎めませんし、彼女の幸せを望みます。僕もいろいろ考えましたが、答えは出ません。それでも今、答えを出せとおっしゃるのなら、あなたのお考えに賛同するべきでしょうか……」
佐伯の目は虚ろに、歩の母親の顔を捉えている。母親は大きく頷いた。
「私は今まで、あの子の幸せだけを考えてきました。それには、あなたと別れることが一番だと思っております。もちろん主人も……」
それを聞いて、佐伯は静かに目をつむり、そして頷いた。
「わかりました……」
その言葉は、佐伯の中で重く響き渡った。自分の言葉が意味をなさないかのように、虚しく感じる。それとは逆に、歩の母親は安心したように微笑んだ。
「あとで迎えに参ります。その時にでも、あの子をきっぱりと振ってやってください。くれぐれも、よろしくお願いします」
「……はい……」
佐伯は重い足取りで、家へと帰っていった。