表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
教師  作者: あいる華音
7/33

7、母親

 暖かいが不安に満ちた空気が、二人を包む。そんな空気を一本の電話が断ち切った。

「お母さんかも……」

 被った布団を握りしめ、歩が急に怯えた顔をして言う。

「……そうかもな」

「出ないで」

「歩。一年、頑張ろう。俺はおまえだけだから」

 佐伯はそう笑いかけながら、歩の髪を撫でる。そんな佐伯に勇気づけられるように、歩も小さく微笑み、頷いた。

 佐伯はそのまま、電話の受話器を取る。

「はい、佐伯です」

『後藤です』

 電話の相手は、まさしく歩の母親だった。

『あの子は、まだ見つかりませんか?』

「いえ。先ほど……」

『見つかったんですか! では、なぜ連絡してくれないのです。約束したではありませんか!』

 逆上した様子で、母親が言う。佐伯は目を伏せた。

「申し訳ありません。歩さん、突然気を失ってしまって……雨に打たれていたようで、少し熱があり、風邪のようです。きちんと話がしたくて、様子を見ておりました」

『倒れた? それで、大丈夫なのですか?』

「ええ。先ほど意識が戻りまして、少し話をしていました」

『では、今からすぐ迎えに行きます』

「今からですか?」

 その時、歩が佐伯から受話器を奪った。

「お母さん。私……」

『歩! あなたって子は……』

「ごめんなさい……でも、どうしても先生に会いたかったの。会って話がしたかったの」

 歩は泣きながら、そう言った。

『話って、何の話ですか。あなたは何をしたのかわかっているの?』

 母親の言葉は、歩の心を突き刺す。母親に対する罪悪感と嫌悪感とが、歩の中で揺れていた。

「わかってるよ……でもお母さん、私の話なんて聞いてくれなかったじゃない」

『聞いているじゃない。いつでもあなたのことを心配して……』

「嘘! だったらどうして、私たちを引き裂くの。ろくに話もさせてくれないし、私がどんな気持ちでここまで来たか、お母さん、なんにもわかってない!」

『歩!』

 歩の目から、涙がどんどん溢れ出す。佐伯はそばで歩の様子を見つめている。

「私、帰りたくない。ずっとここにいる!」

 だだをこねる子供のように、歩はそう言った。

『何を言っているの。あなたはまだ高校生なのよ。あなたはお母さんの言うことを聞いていればいいの。お母さんの言うことを聞いていれば、あなたは幸せになれるのよ』

「嫌! 帰りたくない!」

「歩、落ち着け」

 興奮する歩に、今度は佐伯が受話器を取った。

「後藤さん……佐伯です。今はこの通り、歩さんも気が動転しているようです。少し時間をくれませんか? 今日は熱もありますし、きちんと話をして、明日には帰るよう説得しますから……」

 佐伯が言った。だが、すぐに母親の言葉が返ってくる。母親も歩と同じく、ずいぶんと興奮しているようだ。

『そんなこと出来るわけがないでしょう! あなたは歩に、何をしたかわかっているのですか。我々と約束だってしたではありませんか』

 歩の母親の言葉をかみしめるように、佐伯は目をつむる。

「はい。もう会うことはないと思っていました……でも会ってしまった。だからといって、彼女をどうこうするつもりはありません。ただ、彼女が私を訪ねてきた気持ちだけは、踏みにじりたくないのです。彼女の気が済むまで、話を聞いてやりたいのです。一晩だけ時間をいただけないでしょうか? このまま帰しても、歩さんの心は晴れないでしょうし、根本の解決にはなりません。必ず帰るよう説得しますから」

 歩の母親が一瞬、黙りこんだ。そしてすぐに口を開く。

『……いいですか? 指一本触れないと、約束してください。歩は大事な一人娘なんです。それをあなたに傷つけられて……明日の朝、迎えに参ります。もうこれ以上、歩に関わらないでください!』

「……わかりました。では一晩、預からせていただきます。ありがとうございます」

 佐伯はそこで電話を切った。そばでは歩が、必死なまでの顔で佐伯を見つめている。

「……ここにいられるの?」

「今日はね……」

 それを聞いて、歩の表情が明るくなる。それを見て微笑み返し、佐伯は歩の額に触れた。

「熱がある。もう休めよ」

 佐伯はそう言うと、ベッドから立ち上がる。そんな佐伯の態度に、またも歩の表情が暗くなった。

「……豊は?」

「俺は、下のソファで寝るから」

「どうして……?」

「俺がいたんじゃ、風邪も治らないだろうしな」

「そんなことないよ。早く治るかもしれないよ。ほら、元気だもん」

 歩が元気に振舞って、そう言う。

「まったく、おまえは熱があっても元気だな……話はさっきしたろう? 一年頑張るって」

 佐伯の言葉に、歩は悲しく微笑み、佐伯を見つめる。

「頑張るから……一年分の元気をちょうだい」

 それを聞いて、佐伯は目を伏せる。佐伯ももう限界だった。

「豊……」

「……おまえは、ねだるのだけはうまいよな……」

「だって……」

「俺、おまえのお母さんとの約束を、破ってばかりいるよ……」

 佐伯はそう言うとベッドに座り直す。歩はそんな佐伯に、もう一度抱きついた。

「私との約束、破らなければいいよ」

「こいつ」

 佐伯は苦しそうに微笑むと、歩をしっかりと抱きしめる。やがて二人は寄り添うように、温め合いながら眠りについた。


 早朝。電話のベルが鳴り、佐伯は受話器を取った。隣りにいる歩はぐっすりと眠っている。

「はい……」

『早朝に申し訳ありません。後藤です』

 受話器の向こうから聞こえる声は、歩の母親であった。佐伯は眠い目を叩き起こし、受話器に耳を傾ける。

「はい。どうも……」

『歩は……』

 その言葉に、佐伯は歩を見つめる。

「……風邪の方は大丈夫だと思います。寝る前に、薬も飲ませましたし」

『そうですか。あなたと二人きりで話がしたいのですが……』

「今ですか?」

『はい』

 佐伯は静かにベッドから立ち上がり、声を顰めた。

「わかりました……今からそちらに向かいます」

 佐伯は受話器を切ると、もう一度歩を見つめた。歩は薬のせいかぐっすり眠っていて、額に手を当てると、熱も引いている。佐伯はすぐに着替えると、家を出ていった。


 歩の母親が泊まるホテルの喫茶店で、佐伯は母親と会った。歩の母親は、心なしか以前会った時よりもやつれた様子で、恨めしそうに佐伯を見つめ、尋ねる。

「歩の様子はどうですか?」

「……熱は下がったようですし、風邪の方は大丈夫だと思います。少しですが話し合いましたし、もう無茶はしないと思います」

「……あなたは……まだ歩を、愛しておられるのですか?」

 単刀直入に歩の母親が尋ねた。佐伯は俯き加減で、静かに口を開く。

「……手紙でもお話しました通り、僕たちはいけないと知りつつも、真剣につき合って参りました。教師と生徒だから許されないことなど、わかり切っていましたが、それでも止められなかったのは……自分の責任も然ることながら、互いの気持ちが強すぎたからだと思います……」

 苦しそうだが正直に、佐伯が言った。歩の母親は、嫌悪感を露わにしている。

「あなたは、歩の将来のことまでは考えてくださらないのですか。教師のくせに、あなたはあの子に一生消えないレッテルを貼り、傷つけたんですよ? あの子の青春を奪い、これからもあの子はあなたを慕う……あなたは、一生あの子を縛りつけるおつもりなんですか!」

「そんなことは、決して……」

「では、あなたの人間性を疑いますわ」

 歩の母親の言葉に、佐伯は俯いた。

「……なんとおっしゃられても、仕方がありません。僕も、出る答えは毎回違います……後藤さんにこんなことを言うのはどうかと思いますが、いっそ教職という仕事を捨てて、歩さんを受け入れられたらと、思ったこともあります」

「なんですって!」

 佐伯は険しい顔で、尚も話を続ける。

「でも……僕には、そこまでの度量はありません。歩さんの将来のことを考えないでもありません。僕も後藤さんと同じことを考えていました。一番楽しいこの時期に、自分を愛したことで彼女の将来を奪うなら、いっそ離れた方がいいと……今でも思っています」

「だったら離れてください! 一生、あの子に会わないで!」

 母親の悲痛な訴えが、重く佐伯に圧しかかる。佐伯は小さく息を吐くと、まっすぐに歩の母親を見つめる。

「はい……と言いたいところですが、彼女に会って思いました。僕の気持ちは捨てられないと……」

 佐伯ははっきりとそう言った。歩の母親はうなだれるようにしながら、お茶を飲んでなんとか冷静さを保とうとしている。

「佐伯さん……そこまであの子を思ってくださるのは、とても嬉しい……でも、あの子はまだ高校生なんです。これからたくさん恋をして大人になる時期に、あなた一人で一生を無駄にしかねません。今日お呼びしたのは、あなたならわかってくださると思ったから……」

 すると突然、歩の母親が深々と頭を下げた。

「佐伯さん。どうかあの子のためを思うなら、あの子ときちんと別れてください!」

「後藤さん! 頭を上げてください」

「では、どうすれば聞いてくださいますか? お願いです。あの子は一人娘で、今まで大切に育ててきました。あの子の人生にとって、あなたは必要な人間ではないはずです。少し熱が上がっているだけで、まだ子供なんです。どうか別れてください。最後にあの子をどれだけ傷つけても構いません。あなたを忘れて、新しい人生を踏み出せるように……お願いします!」

 すがる思いで、母親が佐伯を見つめる。その目は、歩そっくりであった。

「……どうしろとおっしゃるんですか……?」

 そんな歩の母親に、佐伯は苦しげな表情を浮かべたまま、そう尋ねる。

「あの子を、振ってくださればいいだけのことです」

「……それで彼女が幸せになると思いますか?」

「もちろんです」

 佐伯は押し黙り、コーヒーに口をつけた。

「僕は……真剣に彼女を愛してしまったから……この先、彼女が誰を愛しても咎めませんし、彼女の幸せを望みます。僕もいろいろ考えましたが、答えは出ません。それでも今、答えを出せとおっしゃるのなら、あなたのお考えに賛同するべきでしょうか……」

 佐伯の目は虚ろに、歩の母親の顔を捉えている。母親は大きく頷いた。

「私は今まで、あの子の幸せだけを考えてきました。それには、あなたと別れることが一番だと思っております。もちろん主人も……」

 それを聞いて、佐伯は静かに目をつむり、そして頷いた。

「わかりました……」

 その言葉は、佐伯の中で重く響き渡った。自分の言葉が意味をなさないかのように、虚しく感じる。それとは逆に、歩の母親は安心したように微笑んだ。

「あとで迎えに参ります。その時にでも、あの子をきっぱりと振ってやってください。くれぐれも、よろしくお願いします」

「……はい……」

 佐伯は重い足取りで、家へと帰っていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ