4、少女
昼休み、静香は音楽室を訪れた。そこに行けば、佐伯がいると思ったのだ。
音楽室からは昨日と同じく、ピアノの音が聞こえる。部屋の中を覗くと、案の定、佐伯の姿があった。
「……佐伯ちゃん」
入るなりそう声をかけた静香に、佐伯が苦笑する。
「なんだ。おまえまで俺を“ちゃん”づけか?」
「い、一度、みんなみたいにそう呼んでみたくて。だって、先生らしくないんだもん」
「まあ、気にしないけど。また忘れ物か? それとも、俺に愛の告白?」
佐伯がまた、からかうようにそう言う。
「そんなこと言っていいの? 大事な物、持ってきてあげたのに」
「……あったのか?」
静香の言葉に、すぐに佐伯は気がついた。
「はい。これでしょ?」
パスケースを差し出す静香に、佐伯はほっとした様子でそれを受け取った。
「ありがとう……」
佐伯は素直にそう言った後、ゆっくりと口を開いた。
「……中、見た?」
その言葉に、静香は素直に頷く。
「うん。悪いと思ったけど、なんとなく……」
「そっか」
佐伯は苦笑して、パスケースを開いた。
「……写真の人、妹さんか何か?」
カマをかけるように、静香がそう尋ねる。佐伯は変わらぬ表情のまま、口元だけを僅かに動かした。
「……うん」
(ウソツキ)と、静香は心の中で思った。
「そう……」
静香はそれ以上何も言えなかった。佐伯はゆっくりと立ち上がり、外を見つめる。
そんな佐伯の後姿を見て、静香は佐伯がどこかへ消えてしまうような気がした。そして、佐伯が遠くへ行くのは嫌だと思った。
「先生。変な噂が立ってるよ」
思い切って、静香はそう言った。
「……うん。知ってる」
静香の気持ちに反して、佐伯は外を見つめたまま、いつもと変わらぬ態度でそう言った。
「知ってるって……違うなら、ちゃんと言った方がいいよ。何か問題になったら……」
その時、佐伯はくるりと振り向くと、静香を見て微笑んだ。
「ありがとう。でも大丈夫だよ。俺が気にしなきゃいいだけの話だし。それに、噂は噂でしかないだろ。学校のガキの間じゃ、それしか楽しみがないんだからな」
「先生……」
「ほら、行った行った。休み時間、終わっちまうぞ」
追い出すように、佐伯が言う。そこを、静香が振り向いて言った。
「あ、もう一つだけ」
「うん?」
「お父さんが、よければ今日、また御飯食べに来てくださいって。お姉ちゃんが帰ってくるから……」
静香が言った。
「東京行ってる姉ちゃんか?」
「そう。夏休みは家にいたんだけどね。私と違って、美人だし勉強も出来て……」
「へえ。そりゃあ、会ってみる価値あるな」
「先生!」
静香の言葉に、佐伯が笑う。
「冗談だよ。寄らせてもらうかな。おまえんちの料理、さすがにうまいから」
「本当? お母さんも喜ぶよ。じゃあ七時に来てくださいな」
「ああ……ありがとうな、静香」
いろいろな意味を含めて、佐伯が言う。そんな佐伯に、静香は首を振って微笑んだ。この二人だけの時間を共有出来ることが、素直に嬉しかった。
「お礼言うなら、今度、勉強見てよね」
「そうだなあ……学校にバレなきゃな」
「あはは。じゃあね」
静香は音楽室を出ていった。佐伯はパスケースをポケットに入れると、一人で外を見つめていた。
夜。時間通りに、佐伯は静香の家を訪れた。そこには、静香の姉も含めた家族全員が揃っている。父親は姉の自慢をし、佐伯の人生について、耳を傾けていた。
しばらくして、先に部屋に戻るよう父親に言われていた静香は、無意識にベランダへと出た。そこは、静香が物思いにふける場所となっている。
静香が外を見ると、佐伯の家の前に、人影があることに気づく。静香は目を凝らすと、どうしようもない動悸が襲った。そこには、佐伯との噂が流れている少女の姿があったのだ。
「あの子……」
そこにドアがノックされ、静香は驚いて振り向いた。するとそこには、佐伯の姿がある。
「先生」
「へえ。ここがおまえの部屋か。案外、綺麗にしてるじゃん」
佐伯が、静香の部屋を見回して言う。
「と、当然でしょ」
「嘘つけ。どうせお母さんに掃除やらせてるんだろ」
「そんなことないもん」
「おまえの父さんが、おまえの宿題の進み具合見てやってくれって……もちろん断ったけど、まあ食事のお返し。今回限りな」
佐伯が苦笑して言う。
「せ、先生……」
「どうした? 顔色悪いけど」
様子のおかしい静香に気づき、佐伯が顔を覗きこむ。
「……なんでもない」
静香は、慌ててベランダから出た。
「なんだ。ベランダに何か隠してるのか? 煙草とか、やらしい本とか」
「先生じゃないんだから、そんなことしません」
「言うね。ほら、さっさと宿題見せろよ。ちゃんとやったか?」
佐伯が急かして言う。
「やりました。ほら」
静香が宿題の束を見せて言う。
「おいおい、そんなに見切れないよ。ただでさえ、ひいきに値するんだし……」
「私はパスケースを見つけてあげたんだから、そのくらいするのが当然です」
「ハイハイ、じゃあ何から見ましょうかね……」
佐伯は軽く静香の宿題を見ていった。静香は佐伯に、少女が来ていることを告げられなかった。
十数分後。
「まあ、出来てるんじゃない? さて、俺はそろそろ帰るかな」
佐伯がそう言ったので、静香は不満足そうに眉を顰める。
「え、もう?」
「なんだよ。一通り見ただろ?」
「そうだけど……あ、そうだ。もうすぐ文化祭だけど、軽音部もステージやるんでしょ? 先生は何かやるの?」
とっさに静香がそう尋ねた。まだあの少女がいると思い、佐伯を帰したくないと思う。
「やるわけないだろう? 俺は先生なの」
苦笑しながら、佐伯が言った。
「つまんないの。あれだけピアノが弾けるのに」
「別に、趣味だよ」
「ふうん?」
「おまえのクラスは、何やるんだっけ?」
今度は佐伯が、静香に尋ねる。
「展示。うちのクラス、あんまりやる気ないから」
「展示だとやる気ないのか? そんなことはないだろう」
「でも、あんまり真面目にやってる人いないよ」
「ふうん? まあ、行かせてもらうよ。じゃあ、そろそろ行くよ」
「あ、ちょっと待って」
「なんだよ?」
やたらと引き止める静香に、佐伯は怪訝な顔で見つめる。
「ええっと、その……」
静香は目を泳がせながら、佐伯を引き止める会話を探した。
「おまえ、そんなに俺と一緒にいたいわけ?」
またしても、佐伯が冗談を言う。
「ば、馬鹿言わないでよ!」
そんな佐伯に、静香は赤くなって言った。佐伯はそんな静香に、吹き出すように笑う。
「ハハ。冗談だよ」
佐伯は静香の頭をポンポンと叩いて言うと、無意識に窓の外を見つめる。
「お、雨が降ってる」
「本当……」
「へえ。ここから俺の部屋、見えるんだ」
突然、佐伯がベランダの窓を開けたので、静香は驚いた。
「先生!」
静香が呼び止め、ベランダに出たが、すでに佐伯の部屋の前には、少女の姿などどこにもなかった。