32、懐かしい顔
東京都内の喫茶店で、一人の女性が紅茶を飲みながら、手紙を読んでいる。テーブルの上に置かれた封筒の差し出し人には、連名で“佐伯豊、佐伯歩”の名前が躍っていた。
女性は懐かしそうな目で、丁寧にその手紙を読み、やがてそれを封筒にしまった。見えた宛名の部分には、“室岡静香様”という字が見える。手紙を読んでいた女性は、かつて佐伯が赴任先で受け持った生徒の一人、静香であった。
佐伯が北海道に赴任して以来は、年賀状で連絡を取り合っていたくらいだ。しかし静香は、誰よりも佐伯と歩の仲を心配し、世話をかけた生徒だったため、佐伯と歩は、静香に経過報告の手紙を送ったのだった。
“拝啓、静香様。いかがお過ごしでしょうか? 私たちはこの度、晴れて夫婦となりました”
そんな言葉とともに、手紙には二人の経緯が書かれていた。出会うまでは大変だったようだが、今では幸せそうな二人が目に浮かぶ。
「よかった。幸せそうで……」
静香が呟く。この数年の間に、静香にもいろいろなことがあった。懐かしそうに過去を振り返りながら、静香は今や憧れとなっている佐伯と歩の姿を思い出し、そばに投げ出してあるノートや教科書をしまうと、身を引き締めたように喫茶店を出ていった。
とあるマンションの一室には、“佐伯”の表札が掲げられている。その中で、夫婦となった佐伯と歩が、休日の午後をくつろいでいた。
「豊、ちょっと買い物に行ってくるね」
歩はそう言いながら、すでに出かける支度を整えている。
「買い物? 俺も行こうか」
玄関に向かう歩に、佐伯が言う。
「いいよ、すぐそこだし。何か買ってくるものある?」
「いや。特にない」
「じゃあ、行ってくるね」
「気をつけてな」
佐伯に見送られ、歩は部屋を出ていった。
二人はまだ結婚式もしておらず、籍を入れただけではあるが、新婚気分を楽しんでいた。何より一緒にいられるだけで、幸せを感じていた。
「夕飯、どうしようかな」
近所のスーパーで、歩は夕飯の献立を考えていた。こんな穏やかな時間が好きである。
「あの……歩さん?」
そこで突然、歩は声をかけられた。まだ近所に知り合いはいないので、驚いて振り返ると、そこには見覚えのある女性がいる。うる覚えではあったものの、すぐに思い出したその女性は、かつて佐伯が赴任した町で世話になった、静香である。
静香はまだ学生のようであり、また少し大人びた表情を見せ、歩に笑いかけている。
「静香さん!」
「やっぱり、歩さん! お久しぶりです。先日、お手紙届きました。ありがとうございました。ご結婚なさったそうで、おめでとうございます」
静香の言葉に、歩は笑って首を振る。数えるほどしか会ったことがないのに、二人は昔からの友人と再会したように、その場で飛び上がって喜ぶ。
「いえ、そんな。ありがとうございます……あの、今日、彼はお休みなんです。家にいるので、もしよかったら家に来ませんか?」
突然の歩の誘いに、静香は笑って首を振る。
「いえ。休日にお邪魔しちゃ悪いです。また今度にします」
「そんなこと言わないでください。お時間がなければ無茶は言いませんが、きっと彼も会いたがります。どうぞ来てください」
「でも、いいんですか?」
「もちろんです。本当にごめんなさい。ちゃんとお礼が出来なくて……静香さんが、彼と一緒に私を捜してくれたこと、後で知りました。ずっとお礼が言いたかったんです」
「そんなこと……」
偶然の再会と、純粋な歩の言葉に、静香は過去を思い出した。
若さだけが先走りし、歩を捜す名目で佐伯に近づいた時もあった。けれど今では、二人の存在は静香にとって憧れそのものであり、人生の転機を与えてくれた恩人とも思っている。
「これから、ご予定あるんですか?」
謙遜している静香に、歩が尋ねる。
「いえ。特にはないですけど……」
「じゃあ、ぜひ来てください。よければ夕飯も一緒にどうですか? 今から買い物するんで、ちょっと待ってくださいね」
歩は早々に買い物を済ませると、静香を半ば強引に連れて、マンションへと帰っていった。
「ただいま! お客さんだよ」
歩は帰るなり、部屋の奥へとそう叫ぶ。
「おかえり……誰?」
いつもと違う様子の歩に、奥から佐伯が出てきた。そして静香を見た瞬間、驚きに口を開ける。
「静香か!」
「あの……お久しぶりです」
少し照れて、静香が言う。佐伯は笑顔で頷く。
「ああ、本当に久しぶりだな。どうしたんだよ」
「豊、こんなところじゃ駄目だよ」
歩がそう言って遮ったので、佐伯は苦笑して頷く。
「ああ、悪い。中へどうぞ」
佐伯も快く、静香を招き入れた。静香は恐縮しながらも、奥へと進んでいく。新婚夫婦の部屋だけあり、まだこざっぱりとしている。
「嫌だ、部屋がぐちゃぐちゃじゃない」
奥の寝室へ行った歩が、リビングに出てきてそう言った。
「ああ、悪い。久々に片付けでもしようと思ったら、散らかっちゃって……」
「もう、これだもん。ごめんなさい、静香さん。ここは綺麗なんで、どうぞ座ってください。今、お茶入れますね」
「おかまいなく……」
歩の言葉にそう言って、静香は勧められたソファへと座る。横の椅子に、佐伯が座った。
「この間、手紙出したところなんだ。届いたかな?」
懐かしそうに微笑む佐伯に、つられて静香も微笑む。
「はい、ありがとうございます。この間、実家で受け取って、カバンに入れっぱなしで……さっきも読み返してたところなんですよ。お返事出そうと思ってたんですけど、こうしてお会い出来てよかったです」
「バタバタしてて、なかなか出せなくてごめん。そうか、実家を出たんだな」
「はい。大学に通っているので、今は一人暮らしなんです。ゆくゆくは、教師になろうかと……」
「本当か。大変だぞ、教師なんて」
笑いながらも、佐伯は嬉しそうだ。静香も吹き出すように笑った。
「わかってます。でも私、先生に出会ってなにかが変わった気がするんです。地元の町も自分も嫌いだったのに、先生がいろいろ教えてくれた気がして。私もそんな先生になって、地元を盛り上げたいって思ってるんです」
それを聞いて、佐伯は照れ笑いをする。
「なに言ってんだ。教えるどころか、おまえには教師じゃない部分しか見せてなかった気がするよ。でもおまえの人生の転換期に、少なからずの貢献が出来たならよかった。教師として、これほど嬉しい褒め言葉はないよ」
「いえ、そんな……」
その時、歩がお茶を持ってやってきた。
「お茶、どうぞ。何にもないところですけど、ゆっくりしててください。私、ちょっと買い物行ってきます。いろいろ買い忘れちゃたから」
歩はそう言うと、部屋を出ていった。
「私、悪いことしたんじゃ……」
二人だけで盛り上がって話をしていたので、静香が心配そうに言ったが、佐伯は気に留める様子もなく微笑んでいる。
「いや。あれで気を利かせてるつもりだと思うから、気にしなくていいよ」
「そうですか?」
「ああ。それより、ゆっくり出来るのか? 夕飯食べていけよ」
「ありがとうございます。今日は休みなんで、買い物に出てたんです。でも、あんなところで歩さんと会うなんて、すごく嬉しい偶然!」
「そうか。これからも、近くに来たら遠慮なく寄ってくれよ」
「ありがとうございます」
二人は懐かしそうに笑い合う。それは出会った頃と変わらないように、何の違和感もなかった。
「地元のやつはどうしてる? 会ってるか?」
話題が尽きずに、佐伯は尋ねる。
「高校卒業してからはほとんど会わないけど、地元に帰る時は、真子にはよく会ってます。あ、先日、真子と広太が結婚したんですよ!」
「本当か? へえ、あいつらが……」
ローカルな話題に、静香の言葉が弾む。
「そう、幼馴染み同士で」
「そうか。みんな着実に大人になってるんだな」
「遅くなりましたが、先生もご結婚おめでとうございます」
「ああ、ありがとう」
そう言って笑いながら、お茶を飲んでいる佐伯を見て、静香はこの数年間の出来事を想像した。手紙には書ききれないことがたくさんあるはずだが、少なくとも今の生活は幸せに見える。それがなんとも、羨ましかった。
「……先生には、いろんなことを教えてもらった気がする。私、辛い時は、先生と歩さんのことを思い出したりするんだ。そうすると、勇気が湧いてくるの」
「なんだそりゃ」
思わぬ静香の言葉に、佐伯は苦笑する。
「だって私にはまだ、先生たちみたいに、全力で恋をしたこともないから……本当に大変だったと思うけど、今が幸せならそれでいいと思う。それに、そういう経験をした人が教師っていうこと、生徒にとっても勉強になると思う。少なくとも、私は先生に会えてよかったよ」
佐伯はゆっくりと口を開く。
「……俺は教師失格なのに、今でも教師を続けてる。俺みたいな教師で、生徒にはいつも申し訳ないと思ってるけど、俺はこの仕事が本気で楽しいし、おまえみたいにどんどん成長していくやつを見るのが嬉しいよ」
「駄目だよ、先生。私はこれから教師を目指すんだから、ずっと上にいてもらわないと。もっと自信持ちなよ。もう、歩さんは生徒じゃないんだから。それに先生の授業は楽しかったし、先生には本当に、大切なことを教えてもらったって気がするんだ」
「……ありがとうな、静香」
照れ臭そうに佐伯が微笑んだ時、歩が帰ってきた。
「ただいま」
「ああ、お帰り」
「今、夕飯作るね。いろいろ買って来ちゃった。パスタでいいかな?」
「私、手伝います」
歩の言葉に、静香が立ち上がる。
「いいの、いいの。静香さんはお客様なんだから。積もる話もあるでしょうし、どうぞくつろいでいてください」
歩はそう言いながら、キッチンへと向かった。少し困った様子の静香に、佐伯は笑う。
「くつろいでろってさ。何もしなくていいよ。“奥さん”やりたいんだから」
「豊。なんか言った?」
佐伯の言葉に、キッチンから歩が口を挟む。
「いいや、何も」
わざとらしく、佐伯が答えた。幸せそうな二人のやり取りに、静香も優しく微笑む。
三人は一緒に夕食を食べると、夜遅くまで話をしていた。