31、もう、離さない
「ごめん! 今まで散々辛い目にあわせて、おまえにばかり苦労をかけて、俺は……」
佐伯の言葉に首を振り、歩は佐伯を抱き返す。
「ううん……豊も、ずっと私を捜していてくれたんでしょう……?」
「……ああ」
二人は互いの顔を見つめた。何よりも大切な人の顔である。
「なんだか、不思議な気持ち……眠り姫にでもなったみたい」
「ああ……」
「夢を見たの……」
もう一度、佐伯に抱きついて、歩が言った。
「夢?」
「そう、夢……優が出てきて、目を覚ませって。僕は幸せだから、ママもパパと幸せにならなきゃ駄目だよって。そんな時、オルゴールの音が聞こえて……ムシが良すぎる夢かもしれないけど、本当に目が覚めたみたい……」
歩が涙を流しながら言う。佐伯は微笑みながら頷いた。
「ああ、きっと本物の優だよ。歩の記憶を取り戻してくれた。俺も……目が覚めた」
「豊……」
その時、ドアがノックされて開いた。母親と尾形が入ってくる。
「気いついたんか?」
尾形が歩を見て尋ねる。
「尾形さん……」
「大丈夫か? どこもなんともないか?」
心配する尾形と母親を見つめ、佐伯は口を開く。
「……彼女の記憶が戻りました」
「え……」
「本当なの? 歩、お母さんがわかる?」
それを聞いて、母親が歩に駆け寄る。
歩は頷きながらも、その表情は強張った。久々の母子の再会だったが、まだ素直になれない部分もある。心配や苦労をかけ続けていたことがわかっている半面、無理矢理に家に連れ戻されたことは、親であっても少し許し難い。
「……うん。お母さん」
そんな複雑な思いを抱え、歩は母親を見てそう言った。後ろめたさもあり、涙腺が緩む。母親は、構わず歩を抱きしめた。
「ああ、歩……心配したのよ。本当に心配したのよ」
「ごめんなさい、お母さん……」
涙を流す歩に、尾形がゆっくりと近づいた。それに気づき、歩が尾形を見つめる。
「尾形さんも、ありがとう……」
歩の言葉に、母親は歩から少し離れる。それに代わって、尾形が歩に寄りながら俯いた。
「俺は人間失格や。おまえの記憶が戻らんかったらって……思っとった」
「ううん。私、尾形さんがいなかったら、今頃どうなっていたかわからない。本当に感謝してます」
正直に胸の内を語る尾形に、歩は何度も首を振ってそう言った。歩の言葉に、尾形は静かに微笑む。
「ありがとう、歩……俺は歩を好いとった。でも、もう終わりやな」
「……ごめんなさい。ありがとう……私、尾形さんには、本当に感謝しきれない。だって、ずっと誰よりも近くにいて、支えてくれた人だから……」
「ええんや。それに記憶をなくしてても、佐伯と会うた時はなにかが違ったって時点で、俺の負けや。卑怯な真似して、ほんまに悪かったと思っとる。佐伯なら安心や……少しすれ違ってただけで、二人は繋がったままやったんやからな……ほな、俺はもう帰るわ。仕事もそうそう休めんし」
尾形はそう言って、背を向ける。歩の記憶が戻った今、会わせる顔がなく居たたまれない。
「尾形さん。私……」
「歩、佐伯と幸せになれよ……ならんかったら承知せえへんからな。それから……北海道に来た時は、きっと寄ってくれな。あと困った時には、いつでも連絡してくれな」
「うん。ありがとう。ありがとう……」
そう言う歩の肩を、佐伯がそっと抱く。尾形は一同に背を向けたまま、言葉を続けた。
「ほな俺、行くわ」
「尾形」
佐伯が声をかける。なんと言ったらいいのかわからなかったが、尾形の存在は、佐伯にとっても歩にとっても、もはや大切なものになっている。
「ええんや佐伯。おまえは歩のそばに居といたってくれ。頼むわ……」
「ああ……連絡するよ」
「ああ。どうせおまえは、まだ北海道暮らしやろうからな。店のことは俺から言っておくけど、歩も一度、店長に電話でもしといたってくれや。じゃあな」
尾形はそれだけ言うと、そのまま家を出ていった。
残された一同はしばらく言葉を失いながらも、互いの空気を感じている。やがて、歩が静かに口を開いた。
「豊も行っちゃうの?」
「……うん」
歩の悲しそうな顔を見て、佐伯は少し俯くと、母親を見つめた。
「後藤さん。少しだけ……彼女と話をさせていただけませんか?」
突然の提案に、母親は渋々部屋を出ていった。それと同時に、佐伯は歩を抱きしめる。
「豊……」
「よかった……」
「うん」
互いの温もりを噛みしめるように、二人は離れようとはしなかった。
「歩。今まで、ごめんな……」
しばらくして、佐伯がそう言った。歩は佐伯を見つめている。
「謝らないで」
「歩……」
「私も、子供だったの……」
「歩、ずっと捜してたよ……ずっと言いたかった。俺には歩だけだ。愛してる……」
佐伯が言った。もう歩を離したくはない。その言葉に、歩の目からはまた涙が溢れ出す。
「豊、私もだよ……ずっと豊が好きだった。もう、離れたくない! 離さないで。ずっとそばにいて」
「ああ、もう離さない。誰にも渡さない」
二人はしっかりと抱き合うと、長いキスをした。
「……夢みたい」
歩の言葉に、佐伯は首を振る。
「夢じゃないよ」
二人はもう一度キスをすると、何度も抱き合い、そして見つめ合った。
「やっと会えたんだな……」
「うん。豊にも、ちゃんと優に会わせてあげたかったけど……」
「……辛かったな。でも俺も、一度も会えなかったわけじゃないから。それに、優が描いてくれた俺の絵まであるんだ。残念だけど、もうたくさんもらってるよ……」
「うん」
二人は抱き合ったまま、しばらく何も言えなかった。
「……これからどうする?」
しばらくして、佐伯が尋ねた。歩はすぐに不安な表情に戻ると、佐伯を見つめる。
「離れたくないよ……」
「ああ。でも、ご両親のこともわかってやってくれな……俺と同じで、ずっとおまえのことを思ってたんだから」
「わかってる。でも、ひどいよ。昨日だって……」
「うん……」
佐伯は歩の頭を撫でる。この先どうなるのか、どうしたらいいのか、まだ何も見えない。歩を離したくないといっても、両親の手前、すぐに暮らし始めることなど無理だろう。しかし歩に無茶をさせないためにも、ここでしっかりと話し合っておく必要がある。
「すぐ、北海道に戻っちゃうの?」
「そうだな……休みが明けるまでは、こっちにいようか」
「本当?」
「ああ。それまで、ゆっくり決めよう」
「……うん」
二人は、もう一度キスをした。
「そろそろ下に行こう。そうそう二人きりでいられない」
「うん……」
素直に頷くものの、歩は不安を隠し切れない。また両親によって、佐伯と引き離されるのではないかと心配した。
そんな歩の不安を悟って、佐伯はもう一度歩を抱きしめる。
「大丈夫。もうどこへも行かない」
「うん……」
歩は噛みしめるように自信と希望を取り戻し、二人はリビングへ降りていった。
それからしばらくして、佐伯は一人、歩の家を後にした。
その後、冬休みの間中、佐伯は歩の自宅近くのビジネスホテルに泊まっていたが、新学期もあるため、北海道へと戻っていった。しかし、歩は両親の強い希望もあり、しばらくは自宅に居ることとなった。
今は少しでも離れていたくはなかったが、歩の両親の気持ちも、二人は痛いほど理解していた。
数ヵ月後、三月――。
空港で、二人は久々の再会を果たした。
「豊!」
「歩!」
二人は会うなり、しっかりと抱き合う。
「これからは、ずっと一緒だからな」
「うん。もう離れないよ」
佐伯は北海道の高校を辞め、この春から東京の高校へ転勤となっていた。