30、失われた記憶
次の日の夜。佐伯は職場の教師たちに誘われ、飲み会へと出ていた。少しの時間でも歩を捜していた佐伯は、今までほとんどの誘いを断っていたので、歩が見つかった今、つき合いもあり久しぶりに誘いを受けたのだった。
「乾杯!」
一同はそう言って、ビールのグラスを合わせる。佐伯の他に二人の男性教諭がいる。年が近いため、学校でもよく話す教師たちだ。
「佐伯先生。今回の休みは、お出かけにならなかったんですか? いつも休みとなると、長期でお出かけになるのに」
そう尋ねられ、佐伯は小さく微笑んだ。
「もう行ってきたんですよ」
「そうなんですか。どちらへ? 噂によると、行方不明の恋人捜しとか」
「ハハ……東京からこんな離れた場所でも、噂というものは広がるものですね」
冗談交じりの言葉に、佐伯は否定もせず、苦笑して答える。
「え、じゃあ本当なんですか?」
「ええ」
「へえ……行方不明とは大変ですね」
「ええ。でも、僕の場合は自業自得ですから……」
佐伯は静かにそう言うと、酒を飲み続けた。
それから数時間に渡り、飲み会が続いた。佐伯が家に帰ったのは、すでに夜中である。
家に入ってすぐに、部屋の呼び鈴が鳴った。佐伯は真夜中の訪問者に首を傾げて、ドアを開ける。するとそこには、尾形の姿があった。
「尾形……」
「佐伯! なんでおまえ、電話しても出えへんのや!」
「ああ、ちょっと今まで出てて……何かあったのか?」
ただならぬ勢いに、佐伯は不安気に尋ねる。尾形は佐伯の胸倉を思い切り掴んだ。
「おまえ、裏切ったな! 歩の親に、居場所教えたやろ!」
「え……」
佐伯の顔色が変わった。いったい歩に何が起こったというのか。
「昼間、歩の両親が来たんや。歩は有無を言わさず、家に連れ戻されたんやぞ!」
「なんだって!」
今度は佐伯が、身を乗り出して尋ねる。尾形は話を続けた。
「おまえは電話しても出えへんし、俺は歩の自宅なんて知らんからな。居ても立ってもおれんかったから、ここまで来たんや。どういうことか説明せえ!」
「……知らない。俺は住所も何も教えてない。歩の両親には、歩が見つかったことと、記憶をなくしたことは伝えたけれど、しばらくそっとしておくということで納得したはずだ。様子を聞きに、俺のところへ近々訪ねてくると言っていたが、本当にそれだけだ。歩を引き戻すなんて、そんなことは有り得ない!」
「じゃあ、どないしたっちゅうねん!」
「……わからない」
佐伯は少し考えた後、尾形を見つめた。
「とにかく入れよ。歩の実家に電話してみよう」
冷静を装って佐伯はそう言うと、中へと入っていった。尾形はそれに続いて中へと入る。佐伯はそのまま、すぐに歩の実家へ電話を入れた。
「もしもし……夜分遅くにすみません。佐伯ですが」
『ああ、佐伯さん。ありがとうございました。無事に歩は、家に戻ってきまして……』
電話に出たのは、歩の母親である。
「どういうことですか? 昨日の電話では、しばらくはそっとしておくということになったじゃないですか」
『ええそうですが、あの後もう一度、主人と話し合いまして、やはり会いに行くと決めて……だって私は、歩の実の母親なんですよ? 記憶がなかろうが、娘と会うのが当然でしょう?』
開き直ったように、母親はそう言う。以前とまったく変わらぬ態度に、佐伯は思わず溜息をついた。
「それはそうかもしれませんが、彼女は記憶をなくしているんですよ? それで……彼女は、今?」
『……部屋にいます。今はまだ、我々のことも理解出来ずに可哀想ですが、私たちと一緒に懐かしい家にいれば、すぐに思い出すに違いありません。佐伯さんにはいろいろとお世話になりましたけど、歩があなたのことを忘れたのは好都合ですし、あなたも歩のことは忘れてください。歩はこれから、新しい人生を歩んでいかせますから』
「待ってください! それはまた別の問題でしょう。だいたい、どうして彼女の居場所がわかったんですか?」
一歩も引かない歩の母親に、佐伯も食らいつく。
『パチンコ店と聞きましたから、片っ端から町中のパチンコ店に電話しましたの。地域だけは教えてくださったので』
「……わかりました。明日一度、伺ってもよろしいですか?」
『どうぞおかまいなく。あなたにはお世話になりましたが、我々はまだあなたを許したわけではありません。だいたい歩がこんなことになったのも、すべてあなたのせいなんですから』
母親の言葉が胸に刺さりつつも、佐伯は言葉を続ける。
「しかし今の彼女からすれば、見知らぬ人に拉致されたも同然なんです。話に聞けば、有無を言わさず連れ帰ったとか。一度様子を見に行かせてください。彼女の周りにいた人も、大変心配しているのです!」
『……わかりました。でも、一度だけですよ』
渋々、母親が言った。佐伯はそうして電話を切ると、深い溜息をつく。そんな佐伯に、尾形が顔を覗きこんだ。
「どうやて?」
「相変わらずな人たちだ……明日、東京に行ってくるよ。休みの間でよかった」
「ほな俺も連れてってくれ。歩かて、俺がいたら安心するかもしれん」
「わかった。狭いけど、よければ今日はここに泊まっていってくれ」
「ありがとう。でも歩、大丈夫かいな」
その言葉に、佐伯は黙りこむ。
「さあ……わからない」
「……歩の両親、最初は歩がどんな暮らしなのか見に来ただけ言うてたんや。でも歩のことを見た途端、泣き崩れおって……自分たちが親で、ずっと捜してたって名乗り出たんや。歩は戸惑ってた。それから父親の方が、強引にって感じで……」
「……なんとなく、わかるよ」
嫌と言うほど見てきた歩の両親なだけに、佐伯にはその時の状況がなんとなく想像できる。しかし今の歩は、佐伯が知っている歩ではない。考えれば考えるほど、心配になった。
「おまえも相当、苦労したんやな。あ、このオルゴール……歩と一緒に買ったんか?」
尾形が棚の上に置かれたオルゴールに気づいて尋ねた。歩の部屋にあった物と同じだ。
「いや、同じ物を持ってるけどね」
「知っとる。いつも大切そうに、棚に飾ってたからな。連れ帰られる時も、これだけは持って帰ってたで。どうしてかわからんけど、記憶を失っても、歩にとってこれは大事な物やったんやろうな……」
「……明日は早く出よう」
「ああ」
二人はしばらく話した後、眠りについた。
次の日の朝方。二人は足早に、東京にある歩の実家へと向かっていった。
「へえ。お嬢やったんやな」
「ああ、箱入りだよ……」
尾形が歩の家を見て呟く。佐伯は苦笑すると、逸る気持ちを抑えて呼び鈴を鳴らした。すると、歩の母親が出てきた。
「佐伯さん……」
母親はうんざりした様子で佐伯を見つめ、隣にいる尾形をも睨みつける。
「彼は尾形さんです。今までずっと彼女のそばにいた人間です。一緒に来たいと言うので、連れてきました」
佐伯が一歩前へ出てそう言う。母親も小さく頷いた。
「……どうぞ。主人は仕事で出かけていますが」
家の中へと通され、佐伯は口を開く。
「彼女は……」
「部屋に閉じこもったきりで……」
夫人の言葉に、佐伯と尾形の顔が曇る。
「なぜ無理やり連れ帰るようなことを……いえ、今はそんなことを言っている場合ではありませんね。彼女に会わせていただけますか?」
「ええ……でも、部屋から出ようとしないんです」
母親は二人を歩の部屋まで案内すると、ドアを叩く。
「歩ちゃん。北海道から、佐伯さんと尾形さんが見えたわよ。出てきてちょうだい」
夫人がそう声をかけるが、部屋の中からの反応は何もない。一同は顔を見合わせる。
「歩! もう大丈夫やで。出てきてや」
今度は尾形が声をかける。そして、佐伯も口を開いた。
「歩……」
その時、ドアがゆっくりと開き、歩は目の前の佐伯に抱きつき、泣いている。
「……大丈夫か?」
歩を優しく抱きながら、佐伯はそう尋ねる。しかし歩は何度も首を振った。
「怖い……怖い!」
しばらく歩は、佐伯の胸に顔を埋めたまま、泣きじゃくっていた。そんな光景を、母親と尾形は、見ていることしか出来ない。
その時、急に歩の全身の力が抜けた。
「歩!」
すかさず佐伯が抱き止めるものの、歩は気を失っていた。
「どないしたんや、急に」
歩の顔を覗きこんで、尾形が尋ねる。
「気が緩んだんだろう……しばらく休ませた方がいいな。きっと一睡も出来なかったんだ……」
佐伯はそう言うと、歩を抱き上げて、部屋の中のベッドに寝かせた。初めて入るその部屋は、北海道の歩の部屋によく似ている、歩らしい部屋だ。
「……しばらく眠っているでしょうから、下でお茶でもどうぞ……」
母親がそう言うと、一同は一階のリビングへと向かっていった。
「……昨日も連れ帰る時に、空港で倒れたんです。一応、医師には見てもらいましたが、異常はなく、精神的なものだろうと……我々も少し強引だったと、歩には悪いことをしたと思っています。でも信じているんです。私たちと一緒にいれば、必ず記憶も戻ります……」
俯きながら、母親がそう言う。その言葉に、尾形が立ち上がった。
「何を言うとんねん! そりゃ、あんたらが心配してた気持ちはようわかる。でも今の歩は、あんたらの知ってる歩ちゃうねん! 俺と会ってからも、いろいろあったんや。一人きりで見知らぬ土地に来て、子供が生まれて、死んで……記憶を失ったんやぞ!」
「やめろよ、尾形」
きつい口調で責め立てるような尾形を、佐伯が制止する。しかし、尾形の怒りは収まらないようで、佐伯の手を思い切り振り払った。
「おまえかて、そんな冷静な顔してるんやあらへん!」
尾形の目に映る佐伯の顔は、静かながらも怒りや苛立ちを発し、辛そうに自分を見据えている。
「俺のどこが冷静なんだ……昨日は居ても立ってもいられなくて、一睡も出来なかった。この三年間、俺は必死で歩を捜してきたんだ! でも、やっと再会して知ったのは、後悔しかない出来事ばかりだ……」
「佐伯……」
「……ちょっと、様子を見てきます」
佐伯はそう言うと、歩の部屋へと向かっていった。
部屋にいる歩は、ベッドで眠ったままだった。佐伯は歩を見つめると、歩の目から零れている涙を拭う。
「歩……全部、俺のせいだ。ごめんな……」
寝ている歩に向かって、佐伯がそう呟く。
「ゆたか……」
その時、歩がそう言った。しかしまだ眠ったままで、うわ言だったのがわかる。
「歩……」
佐伯はそう言うと、椅子に座り、祈るように歩を見つめる。
枕元には、佐伯と同じオルゴールが置かれていた。佐伯は無意識に、オルゴールのネジを回す。やがて流れたメロディは、思い出が鮮明に思い出されるような、懐かしい音だった。
その時、歩がそっと目を開けた。目を開くなり、歩の瞳から涙が溢れる。
「歩……」
「……豊?」
「ああ」
佐伯はとっさに歩の手を握る。歩の涙は止まらずに、後から後から溢れている。
「歩」
片方の手で涙を拭いながら、佐伯はもう一度そう呼んだ。そんな佐伯に、歩は涙を流しながらも、優しい顔で微笑む。
「豊……やっと会えたね……」
歩のその言葉に、佐伯の顔が変わった。
「俺が……わかるのか? 思い出したのか?」
「……うん……」
思わず佐伯は、歩を抱きしめた。壊れそうなくらい、強く離そうとしない。