29、重すぎる現実
車の中では、尾形が運転をしながら、ちらちらと佐伯を見つめる。
「……なに?」
そんな尾形に、怪訝な顔で佐伯が尋ねた。
「いや……意外とあっさり引き下がったからな」
「そりゃあ、あいつの中では、俺は他人だから……」
「へえ。意外と理解力あるやん」
「まあ、あそこにいれば、いなくなるようなこともないだろうし……」
歩を捜し続けてきたという佐伯を前に、尾形は佐伯を観察するように見ていた。
歩と出会ったというのに、佐伯は案外落ち着いていて、遠くを見つめたまま、難しい顔をしている。
「ずっと捜してたって、どこをや?」
「……北海道中。休みを利用したりしてね。でも、さすがに広くて、何度も諦めそうになった。東京に戻ってるかもしれないとか、いろいろ考えたけど、やっぱりいたんだな……」
「……歩の両親には伝えるのか?」
「いや、もう少し待つよ。今は俺も気が動転しているし。でも少ししたら教える……ご両親はもう半ば諦めていて、今は捜すことはしてないんだ。でも歩に兄弟はいないし、歩の両親は俺からの連絡を待ってる……歩は俺と別れてから、ずっとあそこに?」
今度は佐伯が尋ねた。
「ああ。流れ着いたように、公園のベンチに座ってた。風邪をこじらせとったけど、病院には連れて行くな言うて、目の前で気を失ったんや……あれからずっと、あの店長夫妻の家で世話になっとる。あの頃は、俺にも恋人がおったけど、優みたいに病気で死んでいった……優が生まれた時、俺は父親みたいに喜んだんや。歩を守りたいと思ってる……」
尾形が正直に言った。佐伯は流れる景色を眺め、質問を続ける。
「優って……名づけたのは、歩?」
「ああ。男の子やったら、ゆたかやって決めてる言うてた。でも、同じ字じゃ芸がないからって、一緒に調べたで」
「そう……」
「……あんたは本当に、優の父親なんか? 歩とは、教師と生徒の関係やったんやろう?」
尾形の言葉に、佐伯は小さく苦笑した。
「そうだよ……軽蔑するか?」
「ああ」
佐伯は、静かに目をつむる。
「ああ、俺だってわかってたんだ。許されない恋愛だって……でもお互い惹かれ合って、もう止められなくなってた……それがバレて歩と離れなきゃならなくなった時、俺は正直ホッとしたよ……悲しいけれど、歩が卒業したら迎えに行くつもりだった。でも、歩は耐え切れなくなって家に来て、すれ違って……」
佐伯はまぶたに手を乗せ、ひとり言のように過去を振り返る。
「歩が北海道にいると知ってしばらくして、俺は北海道に転勤することが出来た。それから、長期の休みはもちろん、週末には北海道中を回ってた。さすがに広いし見当がつかなかったけれど、こうして再会することが出来た……叩きつけられたのは、予想以上の落胆しかなかったけど……風邪を引いていてよかった。全部、嘘みたいだ……」
そこで、車は佐伯の泊まるホテルに着いた。
尾形は押し黙ると、佐伯を見つめる。今まで、歩を捨てた酷い男としてしか思っていなかった。しかし実際に出会った佐伯は、今でも歩を愛しているのがわかる。佐伯を哀れだとも思った。
「……また顔出せや。一応、俺の連絡先教えておくわ」
「ああ、俺も」
二人は連絡先を教え合うと、それぞれ重い心で帰っていった。
ホテルに戻った佐伯は、尾形に殴られた頬を冷やしながら、今日のことを振り返った。歩と出会えた安堵と嬉しさがこみ上げる反面、優の事実はまだ受け入れられない。また尾形のことは、今まで歩を支えてくれた男なのだと認識していた。
一人になり、佐伯は突きつけられた現実を前に、自分を悔いた。
尾形が歩のもとへ戻ると、歩は本を開いたまま、ぼうっとしていた。
「歩?」
「尾形さん……」
我に返ったように、歩が微笑む。
「……送ってきたわ」
「うん。ありがとう」
「どうしたん?」
「ううん。優のこと、思い出しちゃって……」
「ああ……」
尾形が歩を察して言う。記憶が戻らなかったにしても、歩の佐伯に対する態度は、他の人間とは明らかに違う。それは説明しがたいなにかが、歩の奥底にあるに違いない。
「ごめんね。勝手に男の人、連れてきちゃったりして……」
「いや。でも、あいつだったからよかったものの、気いつけろや」
「うん。でもさっき、どうして喧嘩なんて……」
歩の言葉に、尾形は押し黙った。
「……男には、いろいろあるんや。あれが男の挨拶や。でも俺たちは、もうただの知り合いになったから、心配すんな」
「そう。ならいいけど……」
「……歩。もし、おまえの記憶が戻ったら……」
尾形はそう言いかけて、やめた。
「え?」
歩は尾形の顔を見つめるが、尾形が何を言おうとしているのかはわからない。また、その話の続きを聞くのが少し怖く感じる。
「いや、なんでもない。帰るわ……」
「あ、夕飯は?」
「その辺で食べる」
「尾形さん?」
「……あいつ、ほんまに優に似とったな」
尾形が苦笑して言った。
「……うん」
「ほな、おやすみ」
「おやすみなさい……」
尾形は寮へと帰っていった。
残された歩は、記憶をなくして初めて、意味のわからぬ胸の高鳴りを覚えていた。
数日後。夕方、歩のもとに佐伯がやってきた。
「豊さん」
「どうも……」
「私も今帰ったところなんです。どうぞ上がってください」
歩は笑顔で、佐伯を招き入れる。佐伯はケーキの箱を差し出した。
「おじゃまします。これ、お土産」
「ありがとうございます。そんなのいいのに」
「世話になったからね」
二人は、リビングへと入っていった。
「適当に座ってください」
歩はテキパキとお茶を差し出し、佐伯の前に座る。
「具合は、もういいんですか?」
「ああ。病院にも行ったし、数日寝こんでたから、もう治ったよ」
「そう、よかった」
「ありがとう」
「いえ……」
お互いに心地のいい時間だった。昔のようではないけれど、二人は確実に安らぎを感じていた。
「……記憶をなくして、不便じゃない?」
突然、佐伯がそう尋ねた。歩は少し考えた後、悲しげに微笑む。
「不便ではないけど、自分が何者なのかわからないのは不安かな……」
「両親のことも、何も覚えてないのかい?」
「ええ。思い出そうとしても、もやがかかったみたいで、ひどい頭痛がするんです」
「そう……か」
「でも、もし生きているなら、会ってみたいとは思いますね。会ったら思い出すかもしれないし」
「……じゃあ、会わせてあげようか……」
佐伯がおもむろに、そう言った。
「え……」
「君が会いたいと思うなら、きっと会えるよ」
佐伯の言葉に、歩が笑った。
「あなたが捜し出してくれるの?」
「……望むなら」
冗談交じりの歩の言葉にも、佐伯は真剣な目をして言った。そんな佐伯に、歩も真剣な顔になる。
「不思議な人ですね。でも、なぜだか叶いそうな気がする……そうね。もし会えるなら、会ってみたいな。ちょっと怖いけど……」
今度は真剣に、歩がそう答えた。
「そう……じゃあ俺、そろそろ行くよ」
立ち上がる佐伯に、歩もつられて立ち上がる。
「え、もう?」
「目的も達成したし……一度、家に戻るよ」
「目的? あの、また会えますか……?」
名残惜しそうに歩が尋ねる。佐伯は優しく微笑むと、ゆっくりと頷いた。
「ああ、会えるよ。ここに来れば、会えるんだろう?」
「ええ……」
「また近いうち顔を出すよ。じゃあ……元気で」
佐伯はそれだけを言うと、家を後にした。そして近くのパチンコ屋へと向かっていく。路地から裏口を見つけると、そこにはゴミ出しをしている尾形の姿がある。
「尾形」
「おお、佐伯か。歩のところに……?」
少し身構えて、尾形が尋ねる。
「ああ、行ってきたよ」
「それで?」
「別に……これから、函館に帰るよ」
「……そうか」
「ただ、歩の両親には伝えようと思う」
それを聞いた尾形は、佐伯に駆け寄った。
「出来れば、それは止めてくれんか」
尾形の言葉を察して、佐伯は目を伏せる。
歩にも今の生活があることはわかっている。それを壊すべきではないとも思った。両親には知らせても、今は会う時期ではないのを、佐伯は悟っていた。
「……君の気持ちもわかるけど、歩の両親にとって歩は、まだ生死もわからないままなんだ。知らせれば、確かに両親はすぐに会いに来るかもしれない。歩にとってまだそれは早いと思う。だけど伝えなきゃならないと思う。肉親なんだ。本当は、すぐにでも知らせるべきだった……歩も会いたがってる」
「歩に早いんだってわかっとるんなら、知らせんなや! 俺たちの生活を壊す気か?」
佐伯は首を振る。
「だったら住所は教えない。ただ、どこら辺にいるかは教える……それならいいか?」
「……わかった。住所は教えないんやな?」
尾形は佐伯のその言葉を信じて頷いた。佐伯の気持ちもわかるが、しばらくは今の生活を壊したくはない。
「……歩を頼むよ。じゃあな」
加えて佐伯はそう言うと、尾形に背を向けて歩き出す。
「え、ええのか? 歩を俺のもんにして」
尾形の言葉に、佐伯は立ち止まった。
「それは駄目だ。でも、このまま歩が記憶を取り戻さないまま……いや取り戻した後も、尾形を選ぶなら、俺は何も言えない……」
佐伯が険しい顔をして言った。
「……変なやつやな。おまえはもう歩の教師でもなければ、なんでもないやん。俺やったら、かっさらってまうで」
「出来ることなら、とっくにしてるさ。教師と生徒の関係はなくなっても、過去の過ちは消えないんだ。ましてや歩の両親は、俺を一生許してはくれないだろう。それに……突然消えて、再会してどうだ! 息子にも会えず、肝心の歩だって、記憶をなくしてるんだぞ? 俺にどうしろって言うんだ!」
めずらしく佐伯が取り乱して言った。佐伯には、今後どうしたらいいのかなど、今はまったく考えられなかった。
無言の尾形に背を向けて、佐伯はそのまま街を後にした。成果はあっても、足取りは重い。
その後、家へ帰った佐伯は、歩の両親に電話をかけた。歩の居場所は教えられなかったが、両親は本当に喜び、近いうちに佐伯を訪ねてくることになった。