28、会話
しばらくして、いつの間に眠ってしまった佐伯が目を覚ますと、そばには歩が座って本を読んでいる。
「あ、起きました? よく寝てましたね」
「よかった……夢かと思った」
佐伯が安堵の笑みを浮かべて言う。
「え?」
「いや……いつの間にか眠ってしまったみたいだね」
「いいんですよ。でも、さっきより大分顔色もいいみたい。今、おかゆ持ってきますね」
歩が去っていくと、佐伯は腕時計を見つめた。眠ってから、もう二時間以上経っている。頭痛や寒気はあるものの、気分はよかった。
そこに、歩が食事を持ってくる。
「どうぞ」
「ありがとう……」
そう言う佐伯の顔を、歩がじっと見つめた。
「……え?」
「あ、ごめんなさい。やっぱり息子に似てるかなって思って……ごめんなさい。私、あの子が死んでからおかしいの。でも、あの子が生きてたら、絶対あなたみたいに男前になってくれてると思うわ」
佐伯が苦笑いすると、歩に尋ねる。
「ゆたかっていうの? その子……」
「ええ。優しいっていう字で、ゆたか。誰がつけたかも覚えてないんだけど……」
「……記憶喪失なのかい?」
疑問の核心に触れるように、佐伯が尋ねた。歩は小さく頷く。
「ええ。半年前から……優が死んだ日におかしくなったって、尾形さんが言ってた。一時的なものらしいけれど、いつ戻るか一生戻らないのかはわからないって……」
「尾形さんというのは?」
「私の恋人……らしいです。らしいなんて変だけど、私、優のこと以外覚えてないんです。後藤歩って名前だって、本当かどうかわからない……でも、尾形さんが優の父親なんです」
「え……?」
「あの子が亡くなって不安定な時も、いつも尾形さんが居てくれた。だから残りの人生、優がいなくても、尾形さんと二人で生きていくって決めたんです。しっかりしないと、優に笑われちゃうと思うし……」
歩が静かに笑ってそう言った。佐伯は小さく息を吐くと、歩を見つめる。
「そう……その人は、一緒に住んでるの?」
「いえ、彼は近くの社員寮に。ここへ二人で駆け落ちして来たらしいんですけど、私は妊娠していて大した仕事も出来ないし、店長夫妻の手助いをすることが多かったので、人がよく出入りするここに居させてもらってると聞いています」
歩の現状を知ろうと、佐伯は質問を続ける。
そんな佐伯に、歩は正直に話した。また自分の素性を言うことで、記憶が戻るかもしれない、楽になれるかもしれないと思った。
「パチンコ屋で働いているの?」
「はい。今日は早番だから、早くに終わって……」
「ずっとここに……?」
「もう三年くらいになるそうです」
「そう……」
「あ、そうだ。あなたの名前を聞いてなかったですね。なんて呼べばいいですか?」
今度は歩が尋ねた。佐伯はゆっくりと口を開く。
「……豊。佐伯豊」
「嘘……あなたも、ゆたかっていうの?」
歩が驚いて言った。少し興奮した様子で、佐伯を見つめる。
「ああ。偶然、かな。俺は普通の、豊という字だけどね」
「そうだったんですか……きっと、うちの子が会わせてくれたんだわ。じゃあ、豊さんって呼んでいいですか?」
「ああ……」
歩は無邪気に喜んでいる。息子と同じ名の佐伯に出会えたことが、奇跡のようで嬉しかった。
「……俺もこの子に、一度だけ会ったことがあるよ」
写真を見つめながら、佐伯がそう言う。
「え?」
「半年くらい前……俺は同じ目的でこの街に来たんだ。その頃も風邪を引いていて、その上疲労で倒れて、病院へ運ばれたんだ。一日入院しただけで済んだけど、退院の日、たまたま通りかかった小児病棟で、足が止まったんだ……」
佐伯は当時を思い出し、目をつむる。
「そうしたら、その子ともう一人、男の子が遊んでいてね。男の子が、優君の持っていた画用紙を掴んで走り出したんだ。ちょうど俺の方に走ってきたから止めて、返してあげたんだよ……」
「ああ! 私も知ってます。優に聞いたもの!」
歩はそれを聞いて声を張り上げると、ハッと何かを思い出し、近くに置かれていた画用紙帳をペラペラとめくり、一枚を破って佐伯に差し出した。
「それ、優が書いたあなたの絵です」
「俺の?」
佐伯が驚いて受け取る。
「絵の好きな子で、その日にあったことを描いて見せてくれてたんです。あの日も、あなたが画用紙を取り返してくれたこと、そんなことがあっても友達と仲直りが出来たことが嬉しかったらしくて。それに、あなたのことが印象に残ってたんだと思います。嬉しそうに話してたから……その絵、よかったらもらってください」
佐伯は堪らず、もう一度涙を流した。佐伯が自分の境遇に同情してくれていると思いこんでいる歩は、つられて涙を流す。
「嫌だ、涙もろいんですね……私まで泣けてきちゃう」
そう言いながらも、歩の涙もとどまることを知らない。
その時、呼び鈴が鳴り、二人は現実に戻った。
「あ……ちょっと待っててくださいね」
歩は涙を拭うと、慌しく玄関へと走っていった。遠くで話し声が聞こえて間もなく、部屋に尾形が入ってくる。
「さっき話した尾形さんです。この人は、佐伯豊さん。ね、優に少し似てない?」
互いを紹介して、歩が尾形に尋ねる。
「うーん、そうか?」
尾形が渋って、佐伯を見つめる。
「似てると思うんだけどな……あ、尾形さん。私、ちょっと店に差し入れしてくるね。すぐ戻るから、後をお願い」
「ああ……」
歩はそう言うと、家を出ていった。佐伯はベッドから立ち上がると、尾形の前に立つ。
「唐突で悪いけれど……あなたは俺のことを知っているんですか?」
佐伯がそう言うと、尾形の顔が変わった。その態度に、佐伯の表情も変わる。
「あ、あんたやっぱり……あの“豊”なんか?」
「俺を知っているんですね? じゃあ、あの子は……歩に間違いないんですね?」
佐伯が言い終わらないうちに、尾形は佐伯を突き飛ばした。
「今更、なんや言うねん! おまえの出る幕やない。もう歩は俺のもんや!」
「何を言ってるんだ。歩は記憶を失っているんだぞ。それを、子供の父親だなんて嘘ばかり並べて!」
声を荒げる尾形に、佐伯も引き下がらない。
「俺は歩が好きや。歩かて、俺を必要としてくれとる。あんたの出番は終わったんや。とっとと失せろ!」
「なんだと!」
二人は互いの胸元を掴み合う。
「歩はあんたの記憶は一切なくしとる。あんたは歩に必要ないんや。歩かて、あんたと再会したって、ちっとも思い出さんかったやろ。あんたがいない間、俺たちにはいろいろあってん。そっとしといたってくれや」
尾形の言葉に、佐伯は小さく首を振る。
「俺は歩を捜してた。今までずっとだ! あの子の両親だって心配してる。歩が北海道にいる可能性が薄れてきても、俺は北海道に転勤して、この三年間ずっと歩を捜してきたんだ。歩の記憶が戻らないなら、それでもいい。だけど真実を教えてやってくれ。俺は今でも歩を……」
その時、尾形がカッとなって、佐伯を殴った。
「あんたの出る幕やない言うとるやろうが! だいたい、あんたは歩を一度捨てた男やろ。俺は歩が好きやねん!」
次の瞬間、佐伯が尾形を殴り返した。
「俺は歩を捨ててなんかない! 卑怯じゃないのか、そんな記憶を植えつけて!」
「なんやと!」
「何してるの!」
そこに、帰ってきた歩に気づいて、二人は止まった。
「歩……」
「尾形さん、この人は病人なのよ。原因は何? 初めて会った人が、殴り合いの喧嘩なんて!」
顔を顰めて、歩が尾形に尋ねる。佐伯と尾形は、互いに目を逸らした。
「……男には、初対面もなにもあらへんのや」
「まったく、あなたも病人のくせに無茶です。また熱が上がっても知らないから。尾形さんが来たし、車で病院まで送ります」
「……いや、大丈夫だよ。一人で帰れるから」
歩を見つめて、佐伯が答える。
「駄目よ。心配だもの」
「ああ……送ったるで」
尾形もそう言うが、佐伯は首を振る。
「いいんだ。ホテルに戻るよ」
「ホテル? 観光かなにかですか?」
「ちょっとね……」
「……どのくらいいるんですか?」
「冬休みが終わるまでかな……」
歩は佐伯に興味を持って質問を続ける。ここまで面倒を見た佐伯と簡単に別れるのが、なんだか寂しい気がした。
「会社の方ですか?」
「いや。教師だよ」
「学校……の先生?」
「ああ……」
正直に答える佐伯に、歩はもっと興味が湧いてきていた。本能的ななにかが、佐伯と離れるのを拒んでいるかのようである。
「すごいですね。よかったら、ホテルじゃなくてここにいたらどうですか? 優と偶然会ってたり、同じ名前だったり、もっと偶然があるかもしれないもの。いろいろ話が聞きたいです。ここまで関わったんだし、店長たちも賛成してくれると思います」
「歩、こいつは男やぞ。おまえにもしものことがあったら、どないすんねん」
歩の言葉に、尾形が口を挟む。
「わからないけど、この人は大丈夫のような気がするの」
「あほか。そんなことあるかい」
「ありがたいけど、ホテルに戻るよ。そうそう世話になってはいられないから。でも……また挨拶がてら、寄らせてもらってもいいかな?」
佐伯は笑ってそう言うと、自分の荷物を持ち上げた。歩は納得して頷く。
「もちろんです」
「ありがとう……じゃあ、お世話になりました」
「ああ、車出したる。ホテルまで送るわ」
部屋を出ていく佐伯を、尾形が追いかける。歩は佐伯を見送ると、不意に悲しい思いに駆られた。