26、優
病院を出た佐伯は、街の中で咳きこんでいた。昨夜、電車の中で倒れ、そのまま一日入院した。原因は風邪をこじらせたことと、極度の疲労である。一日休んで点滴をしたので回復したものの、風邪が治っているはずもなく、寒さが一層、佐伯の体力を奪っていった。
優の病室。歩が着替えをしまっていると、優が検査から戻ってきた。
「あ、ママ!」
「お帰り、優。検査だったのね」
「うん。明日、ちゃんと退院出来るって」
「そう。よかった!」
歩もほっと胸を撫で下ろし、喜ぶ。
「今日はね、龍君と一緒にお絵描きしたよ。見て」
日課のように、優が画用紙を開いて見せる。
「わあ。今日もいっぱい描いたね」
「うん。これ、お花。これ、お日さま」
「上手に書けてるね。この人は?」
歩が画用紙をめくっていくと、一人だけ描かれている人物画があった。
「それね、お兄ちゃん」
「お兄ちゃん?」
「龍君と遊んでる時ね、龍君が僕のクレヨン取っちゃったの。その時、取り返してくれたんだよ」
その絵はまさしく、佐伯の姿だった。だが、絵だけでは歩が気づくはずもない。
「そう。取り返してくれて、優は嬉しかったのね。誰かのお父さんかな?」
「わかんない」
「そう。でも、よかったね」
「うん」
「さあ、そろそろ寝ようね。明日は予定通り退院だから、早く寝なくちゃ」
ベッドに入った優は、歩を見つめる。
「ママもいる?」
「うん。優が眠るまで、ずっとそばにいるからね」
「よかった。おやすみ」
「おやすみ」
優はそのまま寝入ってしまった。歩は出しっぱなしの画用紙をしまうと、身の回りの片付けを始める。
優が佐伯と出会っていたことなど、歩は夢にも思わなかった。
次の日。優は無事に退院した。
「ママ。尾形のお兄ちゃんは? 一緒にお迎えにきてくれると思ったのに……」
尾形が迎えにこなかったことで、優は残念そうにしている。
「お仕事よ。でも、今日は優の誕生日と退院のお祝い、盛大にしてくれるって」
「本当?」
「うん」
「ママ。お菓子食べたい」
歩の腕を引っ張って、優が言う。
「お菓子なら買ったよ」
「本当? チョコも、飴も、アイスも?」
優の言葉に、歩は苦笑しながらも、退院の嬉しさを隠せない。
「わかった。じゃあ、スーパー寄って帰ろうか」
「うん!」
二人はそのまま、スーパーへと寄った。優は久々の外の世界に、興奮したようにはしゃいでいる。
「ママ、早く」
「そんなに急がないで。ほら、カゴを……」
その時、優が歩の手から離れて、突然走り出した。
「ゆ、優、待って! 走らないで!」
歩の言葉に、優は反射的に止まろうとしたが、その勢いで思いきり倒れてしまった。
「優!」
その時の歩の顔に、血の気はなかった。脳裏に医者の言葉が響く。
『優君の症状は改善されていません。手術は緊急を要するというものでもありませんし、今の優君の健康状態では、耐えられない手術になると思われます。このまま入院された方がいいでしょうが、優君は家に帰ることを願っていますし、家で安静に出来るならば、退院しても構いません。しかし、発作も頻繁に起こっています。もしまた大きな発作があれば、命の保障はないとみてください……とにかく安静に。リラックスさせて、少しでも体力を回復させてあげてください』
「優!」
歩が駆け寄ると、優は発作を起こしていた。
「優! 優!」
歩はすぐに、医師に教えられた応急処置を施すものの、一向に回復しない。
「優、しっかりして! 頑張るのよ!」
そうこうしているうちに、救急車がやってきた。慌しい中、優は病院へ逆戻りとなっていった。
知らせを受けた尾形と山伏夫人がやってきた時、歩は霊安室で優を抱きしめたまま、離れようとしなかった。その姿を見て、二人は声を失う。
「嘘や……嘘やろ!」
あっという間の出来事だった。優は発作を起こしたまま、改善の余地なく死んでいった。わずか二年の人生だった。
歩はこれ以上ないというほどの悲鳴に似た泣き声を上げ、優を抱きしめたまま声を枯らしている。
「あ……歩……」
尾形が話しかけても、歩は反応などしない。しばらくそのままにしようと、尾形と夫人は霊安室を出ていった。
「なんで優ちゃんが……あんなにかわいくて、元気な子が……」
廊下の長椅子に座りながら、山伏も泣き崩れた。そんな山伏の背中をさすり、尾形も肩を落とす。
「……奥さん。俺がついてますから、奥さんは一度、帰った方がええですよ。このままいても、辛いだけでしょう。準備もいろいろあると思いますし……」
「そうね。何かあったら、すぐに知らせてちょうだい……あなたは大丈夫?」
「俺がしっかりせんと、歩が……」
「そうね……歩ちゃんを頼むわよ」
尾形は山伏を見送ると、もう一度、霊安室へと入っていった。
「歩。そろそろ優を離さんと。一緒に家へ帰ろう……」
そう言う尾形に、歩がゆっくりと顔を上げる。何か言いたそうな歩だが、声を枯らして声が出ないようだった。
「歩!」
尾形は思わず、歩を抱きしめる。
「可哀想やけど……忘れるんや。早く忘れるんや! そのためなら俺、なんでもしたる。優の分も、俺が……」
「いやあ!」
尾形から離れ、かすれた声で歩が叫ぶ。現実を受け入れられず、歩は泣き叫んでいた。そんな歩を、尾形は抱きしめることしか出来ない。
「歩。俺がおるから! おまえのこと、絶対守ったる。歩!」
そんな尾形の声を聞きながら、歩はそこで気を失った。
早朝。緊急入院をした歩のそばには、片時も離れずに尾形がいた。そこで、歩が目を覚ました。
「歩。目、覚めたか?」
尾形が声をかける。しかし歩の目は虚ろで、尾形を見つめている。
「……」
「大丈夫か? ここは病院や。覚えてるか?」
「……あなたは?」
歩の言葉に、尾形は驚きに目を丸くする。
「……俺がわからんのか? ほんまか?」
歩は首を振り、俯いたまま、放心状態でその場にいた。
自分がなぜここにいるのか、何をしているのか。現実を受け入れられず、自分は何者なのか、今の歩には、それすらわからなかった。
「歩」
「……歩?」
歩が言った。尾形は歩の肩を抱き、しっかりと見つめる。
「おまえ、自分のこともわからんのか?」
歩は首を振る。力もなく、生気もなく、ただ俯いていた。
「じゃあ、優のことは?」
「……ゆたか?」
そこで、歩はハッとした。
「優……優は? 優!」
我に返ったように、歩がそう叫ぶ。しかし、様子はいつもと違うままだ。
「だ、大丈夫や。優は家に帰ったで。奥さんが通夜も葬式もやってくれるって……」
「家? お葬式……優……」
歩はぶつぶつと呟いている。
「まだ思い出さんのか? なんでもええから、覚えていることを言ってみてや……」
尾形の言葉に、歩は頭を抱えた。必死に何かを思い出そうとするも、頭痛に耐え切れず、何も思い出せない。しかし優のことは、不思議と思い出が溢れ出してくる。
「……優と一緒にスーパーに行って、家に帰ろうとして、そうしたら。そう、したら……」
歩はそう言いながら、どんどん興奮して涙を流した。
「そうしたら、優が走って……走って、私が……あ……あ……!」
「わかった! もうええんや。落ち着け、歩」
「あなたは誰? 私は? 何もわからない……もう嫌!」
興奮したまま歩が叫ぶ。そんな歩を、尾形は必死に抱きしめる。
「じゃあ、覚えてるのは優のことだけなんやな? 自分のことも、優の父親のことも、両親のことも、何も覚えてないんやな?」
その言葉に、歩はゆっくりと頷いた。
「わからない。頭が痛い……」
「ええんや……思い出すことなんか、何もあらへん。思い出したくないから、きっと忘れてしもうたんや。人生リセットや」
尾形が言った。しかし歩は顔を強張らせたまま、優を失った悲しみと絶望に、打ちひしがれている。
「ええか。おまえの名前は、後藤歩や。俺は尾形龍太郎。俺たちは優の両親や。夫婦同然の間柄や」
尾形は、歩にそう嘘をついた。
「……あなたが?」
優の父親ということに、歩は少し疑問の目で尾形を見つめる。しかし何も思い出さない。尾形は頷いて、言葉を続ける。
「そうや。俺たちが愛し合って生まれた子やろ?」
「……わからない」
「思い出さなくてもええ。これから新しく、思い出作っていけばええんや……」
尾形が歩を抱きしめると、歩はそのまま眠ってしまった。
尾形はとっさに吐いた嘘に後悔しつつも、これでいいのだと自分に言い聞かせた。