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教師  作者: あいる華音
26/33

26、優

 病院を出た佐伯は、街の中で咳きこんでいた。昨夜、電車の中で倒れ、そのまま一日入院した。原因は風邪をこじらせたことと、極度の疲労である。一日休んで点滴をしたので回復したものの、風邪が治っているはずもなく、寒さが一層、佐伯の体力を奪っていった。


 優の病室。歩が着替えをしまっていると、優が検査から戻ってきた。

「あ、ママ!」

「お帰り、優。検査だったのね」

「うん。明日、ちゃんと退院出来るって」

「そう。よかった!」

 歩もほっと胸を撫で下ろし、喜ぶ。

「今日はね、龍君と一緒にお絵描きしたよ。見て」

 日課のように、優が画用紙を開いて見せる。

「わあ。今日もいっぱい描いたね」

「うん。これ、お花。これ、お日さま」

「上手に書けてるね。この人は?」

 歩が画用紙をめくっていくと、一人だけ描かれている人物画があった。

「それね、お兄ちゃん」

「お兄ちゃん?」

「龍君と遊んでる時ね、龍君が僕のクレヨン取っちゃったの。その時、取り返してくれたんだよ」

 その絵はまさしく、佐伯の姿だった。だが、絵だけでは歩が気づくはずもない。

「そう。取り返してくれて、優は嬉しかったのね。誰かのお父さんかな?」

「わかんない」

「そう。でも、よかったね」

「うん」

「さあ、そろそろ寝ようね。明日は予定通り退院だから、早く寝なくちゃ」

 ベッドに入った優は、歩を見つめる。

「ママもいる?」

「うん。優が眠るまで、ずっとそばにいるからね」

「よかった。おやすみ」

「おやすみ」

 優はそのまま寝入ってしまった。歩は出しっぱなしの画用紙をしまうと、身の回りの片付けを始める。

 優が佐伯と出会っていたことなど、歩は夢にも思わなかった。


 次の日。優は無事に退院した。

「ママ。尾形のお兄ちゃんは? 一緒にお迎えにきてくれると思ったのに……」

 尾形が迎えにこなかったことで、優は残念そうにしている。

「お仕事よ。でも、今日は優の誕生日と退院のお祝い、盛大にしてくれるって」

「本当?」

「うん」

「ママ。お菓子食べたい」

 歩の腕を引っ張って、優が言う。

「お菓子なら買ったよ」

「本当? チョコも、飴も、アイスも?」

 優の言葉に、歩は苦笑しながらも、退院の嬉しさを隠せない。

「わかった。じゃあ、スーパー寄って帰ろうか」

「うん!」

 二人はそのまま、スーパーへと寄った。優は久々の外の世界に、興奮したようにはしゃいでいる。

「ママ、早く」

「そんなに急がないで。ほら、カゴを……」

 その時、優が歩の手から離れて、突然走り出した。

「ゆ、優、待って! 走らないで!」

 歩の言葉に、優は反射的に止まろうとしたが、その勢いで思いきり倒れてしまった。

「優!」

 その時の歩の顔に、血の気はなかった。脳裏に医者の言葉が響く。

『優君の症状は改善されていません。手術は緊急を要するというものでもありませんし、今の優君の健康状態では、耐えられない手術になると思われます。このまま入院された方がいいでしょうが、優君は家に帰ることを願っていますし、家で安静に出来るならば、退院しても構いません。しかし、発作も頻繁に起こっています。もしまた大きな発作があれば、命の保障はないとみてください……とにかく安静に。リラックスさせて、少しでも体力を回復させてあげてください』

「優!」

 歩が駆け寄ると、優は発作を起こしていた。

「優! 優!」

 歩はすぐに、医師に教えられた応急処置を施すものの、一向に回復しない。

「優、しっかりして! 頑張るのよ!」

 そうこうしているうちに、救急車がやってきた。慌しい中、優は病院へ逆戻りとなっていった。


 知らせを受けた尾形と山伏夫人がやってきた時、歩は霊安室で優を抱きしめたまま、離れようとしなかった。その姿を見て、二人は声を失う。

「嘘や……嘘やろ!」

 あっという間の出来事だった。優は発作を起こしたまま、改善の余地なく死んでいった。わずか二年の人生だった。

 歩はこれ以上ないというほどの悲鳴に似た泣き声を上げ、優を抱きしめたまま声を枯らしている。

「あ……歩……」

 尾形が話しかけても、歩は反応などしない。しばらくそのままにしようと、尾形と夫人は霊安室を出ていった。

「なんで優ちゃんが……あんなにかわいくて、元気な子が……」

 廊下の長椅子に座りながら、山伏も泣き崩れた。そんな山伏の背中をさすり、尾形も肩を落とす。

「……奥さん。俺がついてますから、奥さんは一度、帰った方がええですよ。このままいても、辛いだけでしょう。準備もいろいろあると思いますし……」

「そうね。何かあったら、すぐに知らせてちょうだい……あなたは大丈夫?」

「俺がしっかりせんと、歩が……」

「そうね……歩ちゃんを頼むわよ」

 尾形は山伏を見送ると、もう一度、霊安室へと入っていった。

「歩。そろそろ優を離さんと。一緒に家へ帰ろう……」

 そう言う尾形に、歩がゆっくりと顔を上げる。何か言いたそうな歩だが、声を枯らして声が出ないようだった。

「歩!」

 尾形は思わず、歩を抱きしめる。

「可哀想やけど……忘れるんや。早く忘れるんや! そのためなら俺、なんでもしたる。優の分も、俺が……」

「いやあ!」

 尾形から離れ、かすれた声で歩が叫ぶ。現実を受け入れられず、歩は泣き叫んでいた。そんな歩を、尾形は抱きしめることしか出来ない。

「歩。俺がおるから! おまえのこと、絶対守ったる。歩!」

 そんな尾形の声を聞きながら、歩はそこで気を失った。


 早朝。緊急入院をした歩のそばには、片時も離れずに尾形がいた。そこで、歩が目を覚ました。

「歩。目、覚めたか?」

 尾形が声をかける。しかし歩の目は虚ろで、尾形を見つめている。

「……」

「大丈夫か? ここは病院や。覚えてるか?」

「……あなたは?」

 歩の言葉に、尾形は驚きに目を丸くする。

「……俺がわからんのか? ほんまか?」

 歩は首を振り、俯いたまま、放心状態でその場にいた。

 自分がなぜここにいるのか、何をしているのか。現実を受け入れられず、自分は何者なのか、今の歩には、それすらわからなかった。

「歩」

「……歩?」

 歩が言った。尾形は歩の肩を抱き、しっかりと見つめる。

「おまえ、自分のこともわからんのか?」

 歩は首を振る。力もなく、生気もなく、ただ俯いていた。

「じゃあ、優のことは?」

「……ゆたか?」

 そこで、歩はハッとした。

「優……優は? 優!」

 我に返ったように、歩がそう叫ぶ。しかし、様子はいつもと違うままだ。

「だ、大丈夫や。優は家に帰ったで。奥さんが通夜も葬式もやってくれるって……」

「家? お葬式……優……」

 歩はぶつぶつと呟いている。

「まだ思い出さんのか? なんでもええから、覚えていることを言ってみてや……」

 尾形の言葉に、歩は頭を抱えた。必死に何かを思い出そうとするも、頭痛に耐え切れず、何も思い出せない。しかし優のことは、不思議と思い出が溢れ出してくる。

「……優と一緒にスーパーに行って、家に帰ろうとして、そうしたら。そう、したら……」

 歩はそう言いながら、どんどん興奮して涙を流した。

「そうしたら、優が走って……走って、私が……あ……あ……!」

「わかった! もうええんや。落ち着け、歩」

「あなたは誰? 私は? 何もわからない……もう嫌!」

 興奮したまま歩が叫ぶ。そんな歩を、尾形は必死に抱きしめる。

「じゃあ、覚えてるのは優のことだけなんやな? 自分のことも、優の父親のことも、両親のことも、何も覚えてないんやな?」

 その言葉に、歩はゆっくりと頷いた。

「わからない。頭が痛い……」

「ええんや……思い出すことなんか、何もあらへん。思い出したくないから、きっと忘れてしもうたんや。人生リセットや」

 尾形が言った。しかし歩は顔を強張らせたまま、優を失った悲しみと絶望に、打ちひしがれている。

「ええか。おまえの名前は、後藤歩や。俺は尾形龍太郎。俺たちは優の両親や。夫婦同然の間柄や」

 尾形は、歩にそう嘘をついた。

「……あなたが?」

 優の父親ということに、歩は少し疑問の目で尾形を見つめる。しかし何も思い出さない。尾形は頷いて、言葉を続ける。

「そうや。俺たちが愛し合って生まれた子やろ?」

「……わからない」

「思い出さなくてもええ。これから新しく、思い出作っていけばええんや……」

 尾形が歩を抱きしめると、歩はそのまま眠ってしまった。

 尾形はとっさに吐いた嘘に後悔しつつも、これでいいのだと自分に言い聞かせた。

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