25、我が子……
数ヵ月後、夏――。
産婦人科病院に、尾形と山伏夫人の姿がある。そこには、元気のいい産声と共に、母親の顔となった歩の姿があった。佐伯の子供は無事生まれ、男の子である。
たった一人で生きていくという不安に負けそうになりながらも、歩は優しい人たちの中で前を見つめ、今日まできていた。
「歩、大丈夫やったか?」
尾形が駆け寄って言う。まるで子供の父親のように、嬉しそうな顔の尾形がいる。
「ありがとう、尾形さん。大丈夫……」
ホッとした様子で、微笑みながら歩が言った。その手に抱かれた我が子が、愛おしくてたまらない。
「歩ちゃん、おめでとう。男の子だってね」
山伏夫人も、安堵の顔を見せて言った。
「ありがとうございます、奥さん。すみません、ご心配をかけて……」
「なに言ってるのよ。私も孫が出来たみたいで嬉しいわ」
山伏の言葉に、歩は我が子を抱いて頷いた。
「あ、そうや。写真取ろうや、写真」
尾形が、持っていたカメラを取り出す。
「まあ尾形さん。いつも持ち歩いてたの?」
「もちろんですわ。歩のベストショットを収めなあかんので。はい、笑って」
尾形は、歩と赤ん坊に向けてシャッターを切る。一同は笑顔に包まれていた。
函館。
「佐伯ちゃん!」
駅のホームで、一人の少年が走り寄ってきた。呼ばれた佐伯は、それに気づいて手を振る。少年は、佐伯の教える男子高校の生徒である。
「おう、どこ行くんだ?」
「隣の駅だよ。親戚んちにちょっとね。佐伯ちゃんは? 大きな荷物だけど、旅行かよ。夏休みだからっていけないなあ」
「ちょっとな」
その時、電車がやってきた。
「あれ、東京戻るんじゃないんだ?」
男子生徒は、佐伯の乗る電車の方向を見て言った。
「ああ」
「さては、女だな?」
「ハハハ。まあ、そんなところかな。おまえも気をつけて行けよ」
「うん」
佐伯は電車に乗ると、生徒に手を振って去って行った。
歩が消えて半年が過ぎていたが、佐伯は北海道から離れずに、かすかな望みにかけていた。どうしても、歩を捜し出さねばならないと思った。
週末や休みになると、北海道中を捜している。時に青森に渡ったり、東京に戻って捜したりもしたが、何の情報もないままでは、歩を埋もれさせているに過ぎない。それでも佐伯は、諦めきれなかった。
二年後――。
病院の小児病棟に、歩が訪れた。
「ママ!」
歩に走り寄ってきた男の子の名は、優。「優」と書いて「ゆたか」と読んだ。二歳になったばかりの、歩と佐伯の息子である。
そんな優は生まれつき心臓が弱く、月一度の診察を義務づけられ、運動することも走ることさえも許されていない。先日、発作が起きてからは、入院をしている。
「優、いい子にしてた?」
すっかり母親の顔つきで、歩が尋ねる。優は母親の姿に目を輝かせて、大きく頷いた。
「うん。苦いお薬も、ちゃんと飲んだよ」
「偉いね」
「ママ、僕のお誕生日、入院しちゃったでしょう? ここでお祝いしてくれたけど、退院したらまたお祝いしてくれる? ケーキが食べたいの」
優の言葉に、歩は笑って頷く。
「うん、約束する。大きなケーキを食べさせてあげる」
「本当!」
優は喜ぶと同時に、咳きこんだ。
「大丈夫? ほら、落ち着いて」
歩の対応も、もはや落ち着いたものだった。内心はいつどうなるかビクビクしているものの、そこは母親の強さが備わっている。背中をさすっていると、すぐに優は咳を止めた。
「大丈夫ね?」
「うん……」
「そうだ。今日は何の絵を描いたのかな?」
気を紛らわせようと、歩は話題を変えて尋ねる。
「見せてあげる」
そう言って、優は近くにあった画用紙をめくった。その中には、いろいろな絵が描かれている。
優は絵を描くのが好きで、いつも画用紙とクレヨンを手放さなかった。
「これが先生でね、これがひなちゃんと大地君。こっちが婦長さんだよ」
優が指を差して説明する。まだ人物画としては乏しいが、それでも同じ年の子供の比べれば、格段に上手い。
歩は絵を覗きこんで、指を差す。
「わかった。みんなでご本を読んでいるのね?」
「うん、そう!」
「あ、もうすぐ画用紙なくなっちゃうね。明日、買ってくるね」
「うん」
その時、尾形がやってきた。
「こんばんわ」
「お兄ちゃん」
尾形の姿を見て、優は手を振る。
「おお、優。元気そうやな。土産やで」
尾形はそう言うと、数冊の画用紙帳を差し出す。
「ありがとう! 今ね、明日買ってくるって言ってたの」
「そうか。優は絵を描くのが好きやからな。またすぐなくなってしまうと思って、買ってきたんや」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「ええよ」
尾形は優の頭を撫でる。尾形の存在は優にとって、父親代わり同然となっていた。
しばらくして、面会時間の終わりと共に、歩と尾形が病院を去っていく。
別れ際には、いつもは手のかからない優もぐずるのだが、二人はそれを泣く泣く放し、家へと帰るのであった。
「いつもすみません、尾形さん……」
すまなそうに、歩が言う。
「なに言うとるんや。優はみんなの子供同然やからな。奥さんなんて、孫みたいに溺愛してるやろ? 優には甘いんやからなあ」
「ありがとう……」
「ええって。それより、退院決まったんか?」
「うん。週末にもって……」
「よし。今年は誕生日もろくに祝えんで、可哀想やったからな。退院したら、ドカンと盛大にやろうな」
「ありがとう、尾形さん」
毎日を不安の中で過ごす歩は、そんな尾形の優しさで救われていた。
次の日。優が入院する病院の病棟では、一人の男が辺りを見回していた。佐伯だった。
佐伯は小児病棟に差しかかると、フリースペースで遊ぶ子供たちを見て、無意識に微笑む。すると、佐伯の方に小さなボールが転がってきた。その後を、小さな女の子が駆け寄る。
「はい」
佐伯がボールを差し出すと、女の子が笑って受け取った。
「ありがとう」
女の子はそう言うと、そのまま去っていった。
不意に歩のことを思い出す。子供が無事に生まれていれば、もう二歳になっているはずだ。男の子か女の子かもわからないが、佐伯は子供たちを見て、自分の子供と重ねていた。
「返してよ!」
その時、そんな声が聞こえて、佐伯は我に返った。窓際では、一人の男の子がもう一人の男の子のクレヨンを取っている。
奪った男の子が佐伯の方に走ってきたので、佐伯はその男の子を静止した。
「返して!」
「優君、走っちゃ駄目よ!」
看護師が、クレヨンを取られた男の子の方に駆け寄り、止める。止められた男の子は、まさしく佐伯の息子、優だった。しかし佐伯は、そんなことを知る由もない。
佐伯は、一瞬聞こえた「ゆたか」という名前に反応したものの、すぐに抱き止めた男の子の方を見つめた。
「駄目だよ。ちゃんと返さないとね」
佐伯の言葉に、掴まれた男の子は俯いている。
「だって優君、絵ばっかり描いてつまんなかったんだもん……」
「でも、そんなことをしたらいけないだろう?」
「……うん」
「ちゃんと謝るんだよ」
「……ごめんね」
男の子は佐伯の言葉に頷くと、優に向かって謝った。優は首を振る。
「ううん。病気が治ったら、いっぱい遊ぼうね」
優の言葉に、男の子は嬉しそうに頷くと、優と手を繋いで歩き出す。
「あ、ぼうや。これ……」
佐伯は、取り返したクレヨンを優に差し出す。
「ありがとう!」
優の笑顔に、佐伯は一瞬、ドキッとした。優はそのまま、さっきの男の子と一緒に、窓際で絵を描き始めた。
「どうもすみません」
佐伯に向かって、先ほど優を止めた看護師が言った。
「あ、いえ……」
「ご面会ですか?」
「いえ、ちょっと迷ってしまって……一般の受付はどっちですか?」
佐伯が苦笑しながら尋ねる。
「このまままっすぐ行ったところですよ。ここは少し入り組んでいて、迷う方が多いんですよ。もう少し行けば、わかるはずですから」
「そうですか。ありがとうございます」
佐伯はそう言うと、そのまま歩き出そうとした。その時、優が手を振っているのが見えたので、佐伯は優に手を振り返し、そのまま去っていった。
初めての、親子の対面であった。