24、ひとつの終わり
歩は、パチンコ屋の経営者、山伏の家で暮らしていた。従業員は親切で、歩も次第に笑顔が増えている。
経営が忙しい山伏夫人に代わって、歩は家の掃除や食事、そして店の掃除や簡単な作業を手伝い、小遣い程度の給料をもらうまでになっていた。
「歩ちゃん。奥さんが、もう帰ってええって」
尾形が事務所にいる歩に、そう声をかける。
「あ、はい」
「一緒に帰ろ。俺も終わりやねん」
二人は店を出ると、近くの山伏家へと向かっていった。
「今日も冷えこむなあ。歩ちゃんの部屋は大丈夫なん?」
尾形が心配して尋ねる。
「うん。山伏さんが、使ってないストーブを二つも持ってきたの。さすがにいらないって、一つにしてもらったんです」
「ハハ。旦那らしいな」
「貴美子さんは、今日はお休みなんですね」
今度は歩が尋ねた。
「ああ、熱出したんや。多分、風邪やわ」
「大丈夫ですか?」
「うん。病院にも行ったし、大人しく寝てると思うわ。歩ちゃんも、暖かくしてなあかんで。子供もいてんねんし」
「ありがとう」
そこで山伏家に着いたので、歩は軽く頭を下げる。
「ありがとうございました」
「ええよ、帰り道やし。それより歩ちゃん、一人で大丈夫なん?」
「大丈夫。すぐに奥さんも帰ってくるし。それより、貴美子さんの食事は大丈夫ですか? 私、作りましょうか?」
「え、いいん?」
歩の言葉に、尾形が食いついた。
「おかゆとかでいいなら」
「ありがたいわ。俺、料理ってまるっきり駄目なんよ……」
尾形の言葉に、歩が笑う。
「わかりました。じゃあ、作っておきます」
「ありがとう。貴美子の様子見たら、こっち取りにくるわ。ほな、後でな」
歩は尾形と分かれると、一人、家へと入っていった。
家の奥の部屋が、歩の部屋となっている。歩は部屋に入るなりストーブをつけると、凍える寒さに身を寄せる。
部屋に置かれた小さな座卓には、一つのオルゴールが置いてある。それは、かつて佐伯にもらった、お揃いのオルゴールだ。その他にも、部屋には佐伯にもらったマスコット人形などもあるが、それらはみんな歩の宝物である。数少ない歩の荷物であるが、部屋にはそれが象徴的に置かれていた。
歩はオルゴールのネジを回すと、一日の疲れを取るようにその音楽を聞くのが日課である。そしてオルゴールを聞き終わると、キッチンへと向かっていった。
しばらくすると、尾形が家へやってきた。
「歩ちゃん」
「尾形さん。今、作ってるところです」
キッチンで歩が言う。
「悪いね」
「いえ。それより、貴美子さんの具合はどうですか?」
「ああ、寝とったけど、もう大丈夫と思うわ。でもあいつ身体弱いから、念のため明日も休ませよう思うけどな」
「そうですか……これ、尾形さんの夕飯です。持って行きますか?」
「え、俺のもあるん?」
尾形が嬉しそうに覗きこむ。
「はい。急だったから、昨日の残り物だけど……」
「ええよ。ここで食べさせてもらってもええ?」
「どうぞ」
「ほな、いただきます。腹ぺコやったんや」
歩は笑って、尾形の恋人である貴美子の食事をタッパに入れると、自分たちの夕飯作りにかかった。
「歩ちゃん、料理の才能あるな。家でやってたん?」
食事をしながら、尾形が言う。
「うん。学校に行かなくなってから、お母さんは家のことを私に教えたんです。子供の頃から、好きで料理はやっていたけど……」
「そう。俺はまるっきり駄目やわ。かと言って、貴美子も料理はあかんからな」
「そうなんですか?」
「ああ。あいつ一応、お嬢やから」
「へえ……」
一通り料理を終えると、歩は尾形の前に座り、話を聞いている。
「見えないやろ? あれでもあいつの家、大会社の社長の家でな。俺は子供の頃に親亡くして、親戚の家に預かられてたんやけど、悪さしててさ。それでもあいつと知り合ってから、心入れ替えたつもりやねん。真面目に働いて、あいつのこと幸せにしたる思うて、結婚申しこんだんや。でも、あっさりあいつの両親に反対されてん……でも俺たち、離れることなんて出来へんかった。両親はあいつを見合いさせて、俺から遠ざけようとしたけど、それを知って、俺は見合い会場から、あいつをかっさらったんや」
尾形が武勇伝のようにそう語る。しかしその目は、遠く懐かしそうに輝いている。
「……カッコいい」
歩が言った。
「せやろ? まあ、今日までいろいろあった。あいつもホームシックにかかったりしたけど、俺を選んでくれたんや。もう帰る気はあらへんって……これでええのかわからんけど、もうなるようになると思って……」
歩は少し羨ましかった。佐伯には、尾形ほどの勢いはない。それは佐伯が教師という立場があるからということはわかっていたが、それでも尾形と貴美子を自分たちに重ね、羨んだり後悔せずにはいられなかった。
「ごちそうさま。美味しかったわ。今度の週末は遅番やから、また歩ちゃんの手料理食べれるな」
尾形がすべてをたいらげて言った。歩は遅番の店員に、いつもおにぎりなどの差し入れをしているので、それを楽しみにしている店員も少なくない。
「ありがとうございます。これ、貴美子さんに。少しおかずも入ってるけど、あんまり無理して食べないように言ってください」
「ありがとう」
尾形はそれを受け取ると、立ち上がった。
「あ、尾形さん……」
帰ろうとした尾形を、歩が呼び止める。
「うん?」
「もう、貴美子さんの家とは連絡取ってないの?」
突然の質問だったが、尾形は頷く。
「ああ。貴美子も連絡取るつもりない言うてるし、俺も親戚とは絶縁状態になってもうて、もう貴美子しかおらへんねん。駆け落ちして流れ着いたのが、ここやからな……まあ、もうしばらくはここで世話になるやろうな」
「……どうして結婚しないの?」
「うん? そうやな……時期が来たらするかもしれんけど、俺たちは一緒に居られれば、結婚なんてどうでもええんや。なんや、俺らが気になるんか?」
いつになく質問の多い歩に、尾形が尋ねる。
「うん。ただ、素朴な疑問で……」
「まあ、今は日々の生活で目一杯や。ほな、ごちそうさま」
尾形は家を出ていった。
「一緒に居られればか……いいな、そういう関係」
歩はぽつりとそう呟くと、料理の続きをした。
「ただいまー」
尾形が部屋に帰ると、貴美子は布団で眠っていた。
「まだ寝とるんかいな」
尾形はそう言って、貴美子に近づく。寝かせてやりたい気持ちもあるが、起きて少しでも何か食べさせたい。
「貴美子。歩ちゃんが、特製おかゆ作ってくれたで。貴美子……大丈夫か?」
尾形は熱を測ろうと、貴美子の額に触れた。その時、尾形は貴美子が冷たくなっているのに気がついた。
「貴美子……おい、貴美子。貴美子!」
尾形がどんなに呼びかけても、貴美子はもう目を覚まさなかった。
その日の夜遅く、歩が世話になっている山伏家に、中年の男女がやってきた。貴美子の両親である。
眠った貴美子のそばには、尾形がいる。
「貴美子に何をしたんや! おまえは娘を奪っただけでは飽きたらず、殺すんか!」
貴美子の父親が、尾形を何度も殴る。
「すんません! ほんま、すんません!」
尾形は土下座したまま、無抵抗で貴美子の父親に身を任せていた。
「やめてください! 貴美子ちゃん、急性肺炎だったんですよ。尾形君は、必死に看病してました。風邪だって、治りかけていたところだったのに……」
山伏夫人が、止めに入る。
風邪だと思っていた貴美子は、急性の肺炎で帰らぬ人となっていた。従業員は誰一人、その事実を受け入れられぬほど、急な出来事であった。
「こいつは我々から、貴美子からすべてを奪ったんや! こいつだけは許さへん!」
貴美子の父親が、尾形を殴りながらそう言う。
それから数時間、修羅場が続いた。尾形はただ謝るだけで、何も言えない。
その後、貴美子の両親は、もうしゃべらない貴美子を連れて、実家へと戻っていった。尾形は別の便で、貴美子の実家へと向かった。
突然の出来事に、歩もどうしていいのかわからなかった。
数日後。尾形が山伏家に戻ってきた。
「尾形さん!」
一人きりで家にいた歩が、尾形に駆け寄る。
「……奥さんたちは、まだ仕事?」
「はい。あ、お茶でも……」
「ありがとう……」
尾形はまるで生気のない顔をしている。そんな尾形に、歩は作り立ての料理を差し出した。
「今、出来たばかりなんですよ。冷めないうちにどうぞ……」
「ありがとう……」
そう言うものの、尾形は何も口にしようとしない。
「……尾形さん。ろくに食べてないんでしょう? 顔色も悪いし、一口だけでもどうか食べてください」
歩の訴えに、尾形は音を立てて拳をテーブルに叩きつけると、堪え切れない涙を流した。
「尾形さん……」
歩の声に反応して、尾形は歩を抱きしめた。歩もゆっくりと、尾形を抱き返す。
かつて自分を助けてくれた尾形に、何か返したかった。
「なんでここに戻ってきたんやろう……ここに貴美子は、もうおらんのに! 俺のせいで……!」
尾形が叫ぶ。
「違う! 尾形さんのせいじゃないです。そんなふうに思ったら、きっと貴美子さんだって悲しむと思う……」
尾形を宥めるように、必死な様子で歩が言う。しかし、尾形は何度も首を振った。
「もともと貴美子は、身体が悪かったんや! それなのに一人きりにして、無茶させて……精神的にもあいつ、参っとったんに違いない……」
しっかりと歩に抱きついて、尾形が堰を切ったように泣いて言った。そんな尾形の背中をさすって、静かに歩が口を開く。
「……貴美子さんは、幸せそうでした。いつも尾形さんのことを気にかけてた。私だって、幸せそうな二人を見て、どんなに羨ましく思って、憧れていたか……そんなふうに思わないでください」
歩の言葉に、尾形は涙を拭う。
「ありがとう、歩ちゃん……ごめんな」
そう言う尾形を、歩はもう一度抱きしめる。いつもは強がる尾形に、歩がしてやれることはこれしかないと思った。
しばらくして、山伏夫妻が帰ってきた。
「尾形さん! 戻ってきてくれたのね」
夫人が嬉しそうにそう言う。そして尾形を気遣いながら、優しく微笑んだ。
「すんません。店、何日も休んでもうて……」
「そんなことはいいのよ。それで、どうだったの? 貴美子ちゃんのご実家は……」
「……当然ながら、追い返されました。通夜も葬式も出られなくて、線香もあげられんかったです……」
俯いたまま、尾形が言った。その拳は固く握られ、悔しそうにしている。
「そう……」
「それだけ報告にきました」
「報告って……ここを辞める気なの?」
尾形の心情を察して、夫人が尋ねる。
「……辞めたくはないですけど、でも……」
「辞めたくないなら、辞めないでちょうだい。我々も、あなたの帰りを待っていたんだから。ここはあなたの家同然なのよ。貴美子さんと暮らした社員寮が辛いなら、部屋を変えてもいいじゃない」
尾形の手を取って夫人が言う。その暖かい温もりが、尾形の心に安らぎを与えていた。
「奥さん。ありがとうございます……」
尾形はもう一度、涙に濡れる。尾形に帰る場所などなかった。そして、貴美子の思い出が少しでもあるこの場所に、尾形は残ろうと思った。