23、決意
佐伯はそれから数日間、ほとんど飲まず食わずで歩を捜すものの、手掛かり一つ掴めないまま、新年を迎えていた。
歩の母親は絶望し、すでに自宅へと引き返している。佐伯は望みを捨てていなかったが、身一つで出てきたため、一度家へ戻ることを決め、北海道を去っていった。
佐伯が自宅へ戻ると、早速、静香が駆けつけた。
「……その顔じゃ、進展なし?」
「ああ……でも、ありがとうな」
残念そうな静香に、力なく笑って佐伯が答える。
「いいってば。それより、痩せちゃったんじゃない? ちゃんと食事してる?」
「大丈夫だよ」
生気のない佐伯を心配しながらも、静香は久々に姿を見て安心し、家へと戻っていった。
その後、佐伯は冬休みギリギリまで、もう一度北海道へ向かったが、曖昧な情報があるだけで、進展はなかった。
そうこうしている間に冬休みが開け、学校が始まった。
「先生!」
佐伯がバイクに乗ると、静香が制服姿で声をかけてきた。佐伯は新学期ということもあり、いつもの笑顔で笑いかける。
「おう。おはよう」
「おはよう。よかった……先生、学校辞めちゃうんじゃないかと思ってた」
「辞められないよ、こんな中途半端な時期に……ほら遅刻するぞ。早く行け」
佐伯はそう言うと、バイクで学校へと向かっていった。
その後の佐伯は、週末には北海道へ行ったり来たりの生活をしていたが、歩の両親は警察に任せるだけとなり、北海道へ出向くことはなくなっていた。
二月。静香の学校では、突然の噂話が持ち上がった。
「ねえ! 豊ちゃん、今期で学校辞めちゃうんだって!」
静香はそれを聞くなり、十分な話も聞かずに、佐伯のもとへと走っていった。
「ああ、本当だよ」
佐伯のいる数学準備室には、すでに噂を聞きつけた生徒たちが真相を確かめるため、押しかけている。
「嘘、どうして!」
生徒たちが問い詰める。
「転勤が決まったんだ。少し前に、届けを出してね」
「嫌だよ、豊ちゃん! ここが嫌なの?」
「別に嫌ってわけじゃないよ。ここはいいところだと思うよ」
「じゃあなんで?」
「俺にもいろいろ事情があんの。ほら、授業始まるぞ」
苦笑しながら、佐伯は生徒たちをあしらう。
「じゃあ、どこに行くかだけ教えてよ」
「ん? 北海道」
野次馬の後ろの方で聞いていた静香は、そこで初めて佐伯の思惑を知った。
その時、予鈴が鳴り、生徒たちは一斉に去っていく。そこに、静香一人だけが残った。
「なんだ、静香もいたのか。予鈴鳴ったぞ」
静香に気づいて、佐伯が言う。
「先生……今の話、本当なの?」
「……うん。この間、正式に決まった。生徒は情報が早いな」
苦笑している佐伯を前に、静香はその場に立ち止まったまま、一瞬、言葉を失った。
「そ、そこまでするの? 妊娠なんて、嘘かもしれないじゃない……」
静香が言った。佐伯を諦め、二人を応援しようと決めた静香だったが、佐伯のあまりにも突然の行動に、戸惑いを隠せない。
佐伯は、静香を見つめる。
「……そうだな。でも多分、嘘じゃないよ」
「でも北海道には、もういないかも……」
静香が続けて言う。
「そうかもな……でも、広いあの大地に、まだ埋もれてる可能性はあるんだ。可能性がある限り、俺は捜すよ。そうじゃないと俺、一生後悔する」
佐伯は正直にそう言った。もう何も迷っている様子はない。
「……北海道のどこに行くの?」
「函館市内の男子校だよ」
「四月から?」
「ああ。こっちの整理がついたら、春休み中にでも行くつもりだ。マンションも、もう決めてきた。おまえには迷惑かけ通しだったけど、いろいろありがとうな」
優しい笑顔でそう言う佐伯に、静香は涙が出そうになる。
その時、本鈴が鳴った。
「静香。授業……」
「私……先生のことが好きだった。でももう、本当に終わりだね……さよなら」
静香は笑ってそう言うと、その場を去っていった。そしてそのまま、学校をも飛び出す。今は何も考えたくなかった。もう終わった恋だと諦めても、佐伯が遠くに行ってしまうショックは隠しきれない。
その日から、静香は佐伯には近づいてこなくなった。
佐伯は時が経つにつれ、学校の荷物を着々とまとめ、今までの思い出はすべて断ち切るように、時を過ごしていた。もう振り返る余裕すらない。歩を早く捜したい、その一心だった。
そして終業式。佐伯は名残惜しむ生徒たちを振り切って、学校を後にした。そして家へ戻ると、身軽なバッグを持ち、足早に家を出ていく。すでに荷物は新居へと送っていたため、もはや家の中には何もない。
佐伯が家を出ると、そこには静香が立っていた。
「静香……」
しばらくの間、声すらかけてこなかった静香に、佐伯が驚いて言った。
「……これ、餞別だよ」
静香は少し照れながらも、前と変わらぬ様子で笑って、袋を差し出す。
「ハハ。餞別か」
佐伯も以前と同じように振る舞い、袋を受け取った。すると袋の中には、手編みのマフラーが入っている。
「お、マフラー?」
「うん。もう春だけど……急に編み出したから、ちょっと雑だけど、まだ北海道は寒いでしょ?」
「ありがとう……手紙書くよ」
「……いいわよ」
まだ少し冷たい初春の風が、二人を包んだ。二人は微笑み合う。
「じゃあ俺、行くよ。元気でな……」
少し重い空気を断ち切って、佐伯が言った。頷いているだけの静香の肩を叩くと、佐伯はゆっくりと歩き出す。
「せ、先生も……ちゃんと御飯食べるんだよ。あと、無茶しないでね……!」
離れた佐伯の背中に向かって、最後にやっと静香がそう言った。
「ああ!」
佐伯は振り向いてそう言うと、小さなその町を出ていった。
静香の目から涙が溢れ出てきたが、もはや胸は晴れている。そして佐伯が歩を捜し出して幸せになることを、心から願った。
「さよなら、先生――!」
小さく見える佐伯に、静香が叫ぶ。佐伯にはもうその声は届かなかったが、二人は別々の新しい道を、しっかりと踏み出していた。
(いつか……私もすべてをかけるような、あんな恋がしたい……先生。先生が教えてくれたこと、いつまでも忘れないよ。あんなに嫌いだった自分自身が、窮屈だったこの町が、先生を好きになれたことで、こんなに輝いて見える。ありがとう、先生……頑張ってね)
静香は晴れた気持ちで、自宅へと入っていった。
「ただいまー!」
「なんだよ、姉ちゃん。テンション高いじゃん」
弟の隆一が、いつもと違う様子の静香に声をかける。
「なに言ってんのよ。私はいつも通りよ。まあ強いて言えば、私は大人になったのよ。あんたにはまだ早いかもね」
「なんだよ、それ」
怪訝な顔をしている隆一を尻目に、静香はリビングへと向かった。キッチンでは、母親が食事の支度をしている。
「おかえり、静香」
「ただいま。お母さん、私、進路決めた!」
静香が突然そう言い出したので、母親は首を傾げる。
「あら、どうしたの? 急に……」
「教師よ、教師! 小さな町の、名物教師。子供たちが楽しく学べるような、そんな学校づくり。地域活動とかもいろいろしたいな。とりあえず、東京の大学目指すわ!」
静香が言った。漠然としたものではあるものの、佐伯と同じ教師を目指したい。自分が憧れていた佐伯のような教師になりたい。今はそれだけだった。
「め、目指すって、そんな急に……」
静香から今まで将来のことなど聞いたこともない母親は、ただただ驚いている様子でいる。
「決めたの」
「でも今のあなたの成績じゃ、どうなのかしら。教師だなんて、思いつきでなれるものじゃないのよ。それにお父さんだって何か言うわよ。今まであんたは、真面目に将来についてなんて言ってこなかったじゃない」
現実的な目で母親が言う。しかし静香の決意は固く、その目は輝いている。
「成績は頑張って上げるもん。お父さんのイヤミだって耐えてみせる。いいの、決めたんだから。駄目でもともと、目指したい。これから勉強するから、今後の成績に期待しててよ!」
静香はそう言って、自分の部屋へと入っていく。
窮屈なままの家族も、急に受け入れてくれるものではないとわかっていた。だが静香は、勉強することで、その決意を示そうと思う。
その日から、静香は今まで真面目に取り組んでこなかった勉強を前に、出来るだけの努力しようと誓った。佐伯が去っていった悲しみはあったが、それ以上に、見知らぬ力が漲っていた。
佐伯は、静香のいる町を後にして、東京へ向かい、歩の両親に挨拶をしてから、北海道へと旅立った。
歩の両親は、未だに佐伯を許せないものの、転勤までして娘を想う気持ちを、初めて少し理解していた。
佐伯はそのまま、函館市内のマンションへと移り住んだ。新学期からは、男子校へ勤めることになっている。そして北海道へ到着したその日から、歩捜しに出かけた。