2、気になる先生
数日後。静香と真子のクラスに、佐伯の初授業がやってきた。
「佐伯先生の授業、評判だよ。カッコイイし、苦手な数学も克服出来そう」
頬を赤く染めて真子が言う。そんな真子に、静香は苦笑した。
「真子ってば、気が多いなあ。サッカー部の先輩はどうしたのよ」
「それとこれは別。じゃあ静香は、佐伯先生が格好いいとは思わないの?」
「そりゃあ思うけど……」
「やっぱり。じゃあウチら、ライバル?」
「嫌だなあ、真子ったら」
「アハハハハ」
そこにチャイムが鳴り、佐伯が入ってきた。
「はじめまして。二年の数学を受け持つことになった佐伯です。今日はこのクラスで初授業ってことなので、お互いを知るために、少し自己紹介の時間でも設けようと思います」
どこか軽々しく、接しやすい態度の佐伯は、すでに生徒たちから慕われ、人気者となっていた。
「質問いいですかー?」
そう言って、一人の女子が手を挙げる。
「どうぞ。ええっと……」
佐伯が、座席表を見つめる。
「エミりんでーす。えっと、恋人はいますか?」
その質問に、どっとみんなが沸いた。いきなりの質問に、佐伯は苦笑する。
「今はいません」
「本当かよー」
「はいはい、質問!」
その質問を機に、数人が手を挙げた。
「はいはい、じゃあ……」
座席表を見ながら、佐伯は手を挙げている生徒を調べている。
「年はいくつですか?」
「下の名前はなんていうの?」
「誕生日はいつ?」
「どこの学校から転任して来たんですか?」
「大学はどこ?」
佐伯が差す前に、数人が一気に質問した。
「わかったわかった、順番にな。えっと、年は二十五。フルネームは、佐伯豊です。前の学校は、東京の私立校、帝都学園高等部にいました。出身大学は東大。誕生日は五月十日。ゴトーの日と覚えてくれ。誕生日プレゼントは、幾らでもどうぞ」
軽いノリの佐伯に、一同が笑った。
「嘘、東大!」
「すごいね。帝都学園なんて名門じゃん」
「ゴトーの日だって。プレゼント、絶対買う!」
一同が、口々に勝手なことを言う。
「あれ? 君……」
その時、生徒たちに構わず、佐伯が静香を見てそう言った。静香は途端に恥ずかしくなり、目を伏せる。
「静香、先生と知り合いなの?」
「いや、知り合いじゃなくて、でもえっと……」
「家が近所なんだよな。そうか、この学校の生徒だったのか」
佐伯が言った。
「静香の家の近所なの? ずるい。今度、先生の家に遊びに行ってもいい?」
「それは駄目」
「アハハハハ」
その日の佐伯の授業は、雑談を踏まえながらの自己紹介となった。佐伯は、すぐに学校中の生徒に慕われていった。
放課後。静香が学校から帰る途中、静香の家の前にあるテラスハウスから、佐伯が出てきた。
「佐伯先生……」
「ああ、室岡……だったな」
「そう、室岡静香よ。覚えてくださいね」
「静香か」
静香は名前を呼ばれて、一瞬ドキッとした。
「今、帰り?」
佐伯が続けて言う。
「う、うん。先生はもう帰ってたの?」
「ああ。俺、まだ部活の顧問持ってないしね。今から買い物」
「……一人暮らし?」
「そうだよ。そういやおまえの家、弁護士らしいな。この町じゃ有名だって聞いたよ」
「お父さんがね……そうだ。この間、先生を家に上げなかったから怒られたの。今度、家で御飯でも食べていってくれませんか?」
静香の言葉に、佐伯は小さく笑って頷く。
「別に構わないけど……」
「本当! じゃあ、父に言います」
「ああ」
静香は家へと入っていき、佐伯は近所のスーパーへと出かけていった。
佐伯が家に戻ると、すぐに呼び鈴が鳴った。
「はい?」
佐伯が出ると、そこには静香がいる。
「静香」
「あの……今、父いるんです。よければ今日の夕飯、一緒にどうですかって……」
「早いな。いいけど」
教師という立場にも関わらず、あまりに簡単に答えた佐伯に、静香は少し戸惑いながらも、素直に喜んだ。
「よかった! じゃあ、早速来てください」
「今から?」
「うん」
「……オーケー。ご近所さんのよしみだもんな」
静香は佐伯を連れて、自宅へと入っていった。
静香の家のリビングには、すでに静香の姉以外の家族全員が揃っている。
「お父さん。前の家に越してきた、佐伯先生」
静香が佐伯を紹介した。
「どうも……佐伯豊といいます。突然、お邪魔して申し訳ありません」
「いえ。お呼びしたのはこちらですから。どうぞ座って、楽にしてください」
「ありがとうございます」
静香の父親の招きに、佐伯は席へと着いた。目の前の料理は、どれも美味しそうだ。
「どうぞ、お口に合うかわかりませんが……」
父親が食事を促す。
「いえ、ありがとうございます。いただきます」
佐伯は、料理を口にする。
「美味しいですね」
「それはよかった。一応、地元産ですよ。しかしこの町は小さいから、退屈でしょう? なんでも先生は、東京から転任なされたと聞きましたが……」
父親が会話を弾ませる。それに対して、佐伯は頷きながら答えた。
「ええ。しかし、学校はどこも変わりませんよ。僕はずっと東京ですが、なぜかこういう町はホッとするんですよね」
「それはよかった。しかし、先生は東大出だそうで……いやあ、すごいですね」
「そんなことはないですよ。それに室岡さんは弁護士さんだそうで、僕のようなしがない教師よりも、お子さんにとっては尊敬出来るのでしょうね」
社交辞令のような佐伯の言葉にも、静香の父親は機嫌をよくしていた。
「いやあ、そんなことはないですよ。私はもう引退したも同然の身ですしね。しかし、長女である静香の姉も、私の後を追って弁護士を目指してくれていましてね。東京の大学に行っているので、なかなか帰ってこなくて、寂しいものですよ」
少し自慢げに、父親が言う。佐伯は変わらぬ笑顔で頷いている。
「へえ、そうですか。じゃあ、将来は弁護士一家になりそうですね。静香さんも、ゆくゆくは東京の大学に?」
佐伯が尋ねた。
「いえいえ、とんでもない。静香は次女ですしね。長女と違って、何の取り得もない子ですし、なかなか……」
静香はそれを聞いて、箸を止めた。嫌というほど父親に差別されてきたと思っていたが、こんなところで言われたのも悲しかった。
「はあ……私は教師をしていて、何人もの生徒と接してきましたが、取り得のない子などいませんよ。静香さんの将来は、静香さんが決めるべきものですし、どうぞ静香さんの本音を聞いてみてあげてください。夢が弁護士とはいかないまでも、人には何か夢や取り柄があるものですから」
佐伯の言葉に、一同は驚いたように見つめている。そんな佐伯にたじろきながら、父親もおかずに箸を突いた。
「ええ、まあ……もちろん私も、この子の可能性は信じていますが……」
最後にそう言った父親に、静香は小さく微笑んだ。
しばらくして、食事を終えた佐伯は、静香の家を出ていった。
「先生」
家を出たところで、静香が家から出てきた。
「ああ、どうも。お招きいただきまして、ありがとうございました」
軽いノリで、わざとらしく佐伯が言う。
「先生……ありがとう」
静香が言った。
「……なにが?」
「わかってるんでしょ? 私が言いたいこと」
「さあ?」
横目で静香を見つめながら微笑む佐伯に、静香も嬉しくなって笑った。
「ありがとう……私、この家が嫌いなんです。この町も……何の出会いもない。刺激もない」
「……子供の頃は、そういう時期もあるよ。でも、その世界を輝かせるのもくすませるのも、自分次第……なんて、クサイこと言ったな。じゃあ、おやすみ」
「待って。あの……」
帰ろうとする佐伯に、静香が止めた。しかし、その先の言葉が出てこない。
「なに? 俺のこと、好きなの?」
いたずらな目で、佐伯がそう言った。静香の顔が、一瞬で赤くなる。
「バッ! バッ……」
「バカって言いたいのか?」
「バッ……」
「あれ。おまえ身長、一六三センチ?」
突然、佐伯がそう言った。静香は途端、我に返る。
「え? うん、ぴったり……どうしてわかるの?」
「いや、別に……ほら、俺って天才だから」
「また、馬鹿言ってる」
「ハハハ。じゃあな」
去っていく佐伯に、静香も家へと入っていった。
佐伯の顔や言葉を思い出すと、顔が緩んでくる。静香は、自分が佐伯のことを意識し始めていることに気がついた。