18、別れ
「……あ……ゆみ……」
佐伯は信じられない光景に驚いた。さっき真子たちを見送りに外へ出た時は、いなかったはずだ。だが、そこには間違いなく歩の姿がある。
駆け寄りたい気持ちを抑え、佐伯は道路を隔てた静香の家の前から、歩を見つめて口を開く。
「歩。どうしてここにいるんだ?」
佐伯が少し強い口調でそう言った。歩は悲しそうな目で、佐伯を見つめている。
「あの……どうしても、会いたくて……」
「……先生。私、帰るね……」
静香は空気を察してそう言うと、背を向けようとする。そんな静香に、佐伯は歩を見つめたまま、口を開いた。
「いや、居てくれないか?」
「え、でも……」
佐伯はそのまま、ゆっくりと歩に近づいていく。
「……またお母さんに黙って来たのか? 約束しただろう。しばらく会えないけど、頑張ろうって」
佐伯の強い口調に、歩はゆっくりと口を開いた。
「ゆ、豊……私、確かめに来たの。豊、私に黙ってることあるよね……?」
歩のその言葉に、佐伯は口を閉ざした。歩もまた、ゆっくりと佐伯に近づく。
「私、あの時、聞いてたんだよ? 豊がお母さんと話してるの。もう会わないって……私と会うつもりはないって。迷惑だって……」
歩が、凍える唇でそう言った。
「……そうか。聞いてたのか……」
佐伯は、静かにそう言った。
もちろんあの時の言葉は、歩の母親に言わされたことであった。しかしそれは、佐伯の本心ではなかったものの、理想であったかもしれない。
歩は、佐伯と歩の母親が、事前に話し合っていたこととは知る由もなく、ただ別れ際の言葉が、佐伯の本心であると感じていた。しかし、それを受け入れることは出来なかったのだ。
「本当に……私のこと嫌いになったの? 好きな人がいるの……?」
歩は今にも倒れそうなか弱い声で、震えながらそう言った。佐伯は静かな目で歩を見つめている。
「……そうだよ」
やがて、佐伯がそう言った。自分自身辛いものの、きっぱりとそう嘘をついた。歩の将来のためにも、今は離れておく必要がある。
佐伯は言葉を続けた。
「聞いていたなら正直に言う。俺はもう、おまえのことをなんとも思ってないよ……俺は新しい場所で、新しい人生を歩もうと思う。だから……悪いけど、もうここへは来ないでほしい。はっきり言って……迷惑だ」
続けた佐伯の言葉に、静香も驚いていた。佐伯の気持ちはわからなかったが、この状況が二人の別れを意味していることだけはわかる。
「……ごめんなさい。わ、私……」
歩の目から思わず涙が流れた。そんな歩に近づいて、佐伯は歩の顔を覗きこむ。
「歩。泣いてないで、すぐに家に連絡するんだ。もうご両親にも心配かけるんじゃない。わかったな?」
「豊……もしかして、豊の新しい恋人って、静香さん?」
突然、歩がそう言った。静香はその言葉にドキッとしたまま、二人の様子を見つめている。
「……」
佐伯は、何も言わなかった。
「……そうなの?」
歩の言葉に、佐伯は頷きもせず、ただ歩を見つめている。それは歩にとって、肯定したとしか取れなかった。
その態度に驚きつつも、静香だけは佐伯が嘘をついていることがわかった。
「そ、そうなのね……」
静香が見つめている中で、歩は放心状態だった。佐伯は小さく息を吐くと、歩に金を差し出す。
「これ、タクシー代。すぐに帰れ。それから、すぐに家に連絡するんだ。いいな?」
それを聞いて、歩は金を握り締めるものの、その場から動こうとはしない。そんな歩の肩を叩くと、佐伯は静香を近くに呼び、歩に声をかける。
「……おまえも、いい人見つけろよ。おまえはまだこれからなんだから。そして幸せになってくれよ。俺も応援してるから……いいな? ちゃんとすぐに帰れよ。静香、行くぞ」
佐伯は静香の手を取ると、動かない歩を横切って、自分の家へと入っていった。
真っ暗な佐伯の家の玄関で、静香は佐伯を見つめた。佐伯はドアに寄りかかったまま、辛そうな顔を見せている。そして静香に背を向け、ドアの覗き窓から外を見つめた。佐伯の目には、傷ついたまま、まだ動こうとしない歩の背中が見える。
歩はしばらくその場に立ちすくんでいた後、カバンから何かを出してうずくまった。そしてしばらくすると、歩がこちらに近づいてくるのが見えた。
佐伯は息を殺して、その様子をじっと見つめる。歩は紙のようなものを畳むと、ドアにつけられたポストに、それを入れた。
佐伯は自分の下にあるポストに、確実に何かが入ったことを感じつつ、今はまだそれが何なのかを確かめずに、必死に歩の姿を見つめている。
そんな歩は、その後こちらにお辞儀を見せた後、静かにその場を後にした。
完全に歩の気配が消えた後、佐伯は急いで、ポストに入れられた紙のようなものを取り出した。紙はメモ用紙で、折り畳まれた中には、佐伯がタクシー代として渡した金がそのまま包まれている。そしてメモ用紙には、歩の凍えた字が綴られていた。
“豊へ。
豊の気持ちも考えず、今まで勝手なことをしてきて本当にごめんなさい。でも私は、今でも豊のことが好きです。出来れば豊にも、ずっと好きでいてもらいたかった……でももう駄目なんだね。相手が静香さんなら、仕方がないのかな。
今は悲しくて仕方ないけど、きっと乗り越えていけます。豊が今まで私にしてくれた優しさは、本物だって思えるから。私は豊を好きなまま、ちゃんと幸せになるって約束します。豊は静香さんと幸せになってね。
だから安心してください。もう豊には会いません。迷惑もかけません。だから、ムシがいいかもしれないけど、今まで迷惑かけてきたことは、全部忘れてね。もう会えないけど、私はいつでも豊の幸せを願ってます。今までありがとう。元気でね。さようなら”
前向きに綴られた歩の文字だが、歩がそんなにきっぱりと割り切れるはずがない。
佐伯は辛くて仕方がなかったが、歩が新しい人生に踏み切れるのだと思うと、これでよかったのだと思わずにはいられない。
しかし、これが本当の別れで、もう二度と会えないということを、佐伯は悲しまずにはいられなかった。
「……先生……」
静香の心配そうな声に、佐伯は我に返った。
「静香……」
「大丈夫?」
「ああ、ごめん。おまえにも辛い目に合わせた……本当にごめん」
佐伯は静香が自分を思っているのを知りながらも、歩と別れるためにとっさに恋人同士だと否定しなかった嘘で、静香を傷つけたことを謝った。
しかし静香は、微笑みながら首を振る。
「ううん、いいの……でも先生は、あれでいいの?」
「……ああ。いいんだ」
暗い表情の佐伯に、静香は詰め寄るように口を開く。佐伯が歩と別れることは嬉しいものの、辛そうな佐伯は見たくない。
「でもまだ歩さんのこと、好きなんでしょう? どうしてあんなこと……本当にそれでいいの? 後悔しないの?」
静香に言葉に、佐伯は顔を逸らす。
「好きだから突っ走るなんて、ガキみたいなこと出来ねえよ」
「……なに言ってるのよ。好きだから突っ走るのが、恋なんじゃないの?」
強がっているような佐伯に対して、静香が怒鳴って言った。佐伯が歩をどれほど好きだったかはわかっている。だから妥協してほしくはないと思った。
そんな静香に、佐伯は目を伏せる。
「……あいつの将来を考えたら、これが一番の方法なんだ。いくら互いに好き合っても……それがあいつの人生を潰すことには変わりないんだよ!」
佐伯の言葉に、静香は驚いた。佐伯はいつになく複雑な表情のままで、とても自分が支えになれるとは思えない。
「……わからないよ。潰すって?」
「あいつは俺への依存心が強い……両親も何もかも、俺のためなら捨てるという。まだ高校生のあいつに、俺がしてやれることなんて、たかが知れてるだろう? 恋も知らずに、夢も持たずに、あいつは一生俺に縛られるっていうのか?」
「わからないけど、それでも……歩さんにとっての幸せは、先生といることなんじゃないの?」
静香はそう言いながら、佐伯の本心を知り、とても歩には敵わないと思っていた。自分も佐伯のことが好きではいるが、それほどまでに強い意志で愛するなど、自分には出来ないと思う。
「……本当に悪かったな。誕生日なのに」
「ううん。いいの……」
二人が落ち着いたようにそう言った時、電話のベルが鳴ったので、静香はドアノブに手をかける。
「じゃあ、私はこれで」
「ああ……本当にごめんな」
「いいってば。早く電話に出なよ」
「ああ。悪い……」
佐伯は家へ上がると、電話に出た。
『よかった! やっと通じて……後藤です』
電話の相手は、歩の父親である。佐伯は、両親が歩を捜しているのだと悟った。
「はい。歩さんなら、さっき会いました。話をして帰しました。そろそろそちらに連絡が……」
『ああ、遅かったか……!』
電話口で、父親が落胆の声を上げた。
「え……どういうことですか? 何かあったんですか?」
「先生!」
ただならぬ雰囲気に、佐伯の顔色が変わる。その時、玄関の方から静香の声が響いた。
「先生。歩さんのお母さんが……」
静香のその声に、佐伯は受話器を持ち直した。
「後藤さん。今、奥様が見えたようです」
『では、話は家内から聞いてください。私も警察などに行かなければなりませんから』
最後の言葉が気になったものの、電話はそこで切られたので、佐伯は玄関へと向かった。玄関には、静香と歩の母親がいる。
「後藤さん……」