15、運命のその日
歩、二年生の春。
「豊。お誕生日おめでとう」
歩がそう言いながら、ラッピングされた包みを渡す。今日は佐伯の誕生日である。
「ありがとう」
佐伯が包みを開けると、中にはパスケースが入っていた。
「パスケース?」
「うん」
「本革じゃん。高かったんじゃないのか?」
佐伯は、上等なパスケースを見て尋ねる。
「ちょっとね……でも大丈夫。私、おこづかいは結構あるんだ。それに豊だって、私の誕生日に、高そうなネックレスくれたでしょう? 料理も作ってくれたし。本当は私も、料理作りたかったんだけど、それはさすがに家じゃ無理だから……」
「ありがとう。大事にするよ」
佐伯は優しく微笑んで言った。
「うん。それから、これ……」
続けて、歩が恥ずかしそうに差し出したのは、一枚の写真だった。そこには、春の遠足で撮られた、歩と古屋の姿がある。その向こうにも数人がカメラ目線でポーズをとっており、仲の良さそうな集合写真となっている。
「私一人の写真じゃ、なにかと不便かと思って……」
歩の意図することを理解すると、佐伯は歩の頭に手を置き、写真を受け取った。歩は嬉しそうに微笑んでいる。
「ありがとう。じゃあ、早速入れて使うよ」
「うん」
「じゃあ、俺からはこれ」
「え?」
「ゴトーの日のプレゼント」
「うふふ。ありがとう」
そう言って、佐伯が差し出した物は、写真立てだった。
「なんか俺たち、趣味が合うよな」
「うん。私も大事に使うね」
「ああ」
二人は、ささやかな誕生日パーティーをしたのだった。
七月。
「暑くなってきたね」
今日も早朝、佐伯の部屋にやってきた歩は、佐伯の腕の中でそう言った。
「ああ。もう本格的に夏だからな」
「夏休みになったら、もっと会えるかな?」
「そうだなあ……」
「楽しみ」
「ああ」
「うーん……最近、離れられなくって寝不足みたい」
歩がそう言ったので、佐伯は歩の頬に触れ、見つめる。
「大丈夫か?」
「うん、平気。寝不足になったって、この時間は捨てられないよ」
「……歩」
佐伯は歩の頭を撫でる。これがいけないことだとわかっていても、歩とは離れられなかった。しかし毎日同じ後悔を抱いていたのは、事実である。
「今、何時?」
佐伯が尋ねる。
「五時。ああ、もうこんな時間か。嫌になっちゃう」
「仕方がない。行くか」
「うん……」
歩は素直に返事をするものの、浮かない顔をしている。佐伯はそんな歩の頬を軽く引っ張った。
「そんな顔しない。後で会えるよ」
「うん……」
佐伯は、しぶる歩をバイクに乗せ、歩の家へと向かっていった。
佐伯はいつも歩の家の前までは行かず、近くの公園に送っていた。それは、バイクの音で、歩の家族や近所の人を起こさせないよう、考えてのことである。
「今日もありがとう……」
歩は名残惜しそうに言った。
「ああ。じゃあ、気をつけて帰れよ」
「すぐそこだけどね」
「すぐそこでもだよ。ごめんな、家まで送れればいいんだけど……」
「ううん。いいの」
「歩!」
その声に二人は硬直した。振り向くと、そこには歩の母親がいる。
「お、母さん……!」
歩はあまりに突然の出来事に、後退りする。
「あなたは……佐伯先生!」
母親は、佐伯の顔を見て言った。もはや、言い逃れなど出来る状況ではない。
「どこへ行ったのかと思えば、あなたはいつもこんなことをしていたの? 夜中に勝手に抜け出して。それも、学校の先生なんかと……歩、なんとか言いなさい!」
歩の母親が、震えながら怒鳴り散らした。
「ご、ごめんなさい……」
歩には謝ることしか出来なかった。佐伯も何も言えない。
「あなたはどういうつもりなんですか。教師のくせに、夜中に娘を連れ出して! たまたま私が様子を見に行かなければ、一生バレないとでも思っていたのですか!」
母親の矛先は、佐伯に向かう。佐伯は深々と頭を下げた。
「申し訳ありません……!」
「どうしたのか、心配でたまらなかったんですよ。ずっと捜し回って……さあ歩、帰りましょう。佐伯先生、このことは当然、学校に言いますからね」
「やめて、お母さん!」
それを聞いて、突然、歩が母親に掴みかかる。佐伯は歩を止めようと、すぐに手を伸ばす。しかし、歩は母親の腕を掴みながら、必死な目で訴えている。
「豊は何も悪くない! 悪いのは私なの。私が先生を好きになったのが悪いの! 先生は私を拒んだよ。でも、私が……」
「歩」
佐伯が歩を止めようと、歩の肩に触れる。その時、母親が佐伯の手を振り払った。
「うちの子に触らないで! 豊ですって? あなたは、うちの子を……うちの子を!」
歩の母親は涙目で、怒りに震えている。
「お母さん、やめて! 豊、早く帰って」
すぐにでも手が出そうな母親を止め、歩が必死になって叫ぶ。そんな歩を見て、母親は冷静さを取り戻そうと、歩を連れて背を向けた。
「……歩、帰るわよ。佐伯先生、覚悟しておいてください。うちの子を傷ものにした罪は、重いですからね!」
母親はすごい剣幕で歩の手を掴み、その場を去っていく。
「嫌、離して! 私たち、何も悪いことしてない。離して、お母さん。豊……豊!」
歩の悲痛な叫びが、早朝の街に響いた。佐伯はしばらく、その場を動けなかった。
数時間後。佐伯の家の電話が鳴った。学校からである。佐伯はしばらくの間、謹慎を言い渡され、放課後の緊急会議に出席するよう言われた。
歩も謹慎処分が出て、母親の執拗な監視下に置かれたのであった。
夕方。佐伯は学校に出向いた。すれ違う生徒の態度から、もう学校中に知れ渡っているのだと悟る。会議室には、歩の両親もいた。
「どういうことですか、佐伯先生。あなたは本当に、こちらの後藤さんの娘さんと、交際関係にあったというのですか?」
そんな質問に佐伯は深呼吸をした。周りにいる教師たちも、いつもと違う冷やかな態度でこちらを睨みつけている。
「……はい。本当です」
佐伯は言い逃れなど少しもせず、はっきりとそう言った。
「ほ、本当ですって、あなたはご自分の立場をわかっているのですか? 相手は生徒ですよ!」
「はい……本当のことです。弁解の余地もなく、言い逃れは致しません。私は……後藤さんと交際していました。教師と生徒という立場は重々わかっていた上でしたが、互いに真剣で……」
「先生方、この男を直ちにクビにしてください! もう、この人の顔なんて見たくない。うちの歩を……歩の人生はめちゃくちゃです!」
佐伯の言葉を遮って、歩の母親が叫んだ。佐伯はもう一度、頭を下げる。
「本当に申し訳ありません。どんな処分も覚悟しております」
「では、教職を辞めても悔いはないとおっしゃるんですね?」
教頭が佐伯に尋ねる。
「はい。ただ……」
「ただ、なんですか?」
「後藤さんの処分だけは、考えていただきたいのです」
佐伯の言葉に、一同はざわついた。そんな中で教頭が口を開く。
「処分は免れないでしょう。朝の口論を、近所に住む生徒が聞いていたということで、すでに学校中の噂になっているんですよ? 出てきたところで、後藤歩本人だって……」
「噂は消えるものです。謹慎処分は免れないかもしれませんが、彼女の普段の素行に問題はないはずです。未成年の生徒ですし、退学だけはどうか考えてください。その代わり、私の処分がどうなっても構いません」
佐伯はまっすぐに一同を見つめて、そう言った。
「かっこいいことを言って、あの子のレッテルは消えないのよ!」
母親は尚も興奮して叫ぶ。父親はそんな母親を宥めながらも、佐伯を冷たく見つめていた。
「どう言われようが、私に弁解の余地はありません……退職願は書いてきました。ですから、どうか生徒の在学だけは保障してください。大きな過ちとはわかっておりますが、彼女には将来があるのも事実です。お願いします!」
佐伯はもう一度そう言うと、深々と頭を下げた。
その日のうちに、佐伯の退職が決まった。しかし、佐伯と後藤夫妻の申し出により、歩だけは退学処分とならずにすんだのだった。
会議が終わると、歩の両親が佐伯に歩み寄ってきた。そして父親が、無言で佐伯を殴る。
「退学にならなかったことだけは救いだが、私はおまえを一生許さない! ここで約束してくれ。もう二度と我々の前に、歩の前に現れないと。この街にも来るな!」
佐伯の胸倉を掴みながら、歩の父親が言った。佐伯は目を伏せると、やがて歩の父親を見つめる。
「……わかりました。でももう一度だけ、彼女と話をさせていただけないでしょうか?」
そう約束せざるを得なかったが、佐伯は最後にそう申し出た。しかし、それを両親が受け入れられるはずもない。
「なにを馬鹿な……そんなことを許すわけがないでしょう?」
「しかし、このままでは、私も歩さんも前へ進めないと思います。歩さんには、私からきちんと話をしたいんです」
「何の話ですか? もう二度と、歩には会わせません。歩には我々がいます。我々がきちんと言い聞かせますから結構です。それよりいいですね? もう二度と、歩には会わないでください!」
歩の両親はそう言うと、学校を後にした。
佐伯はその日のうちに学校の荷物をまとめると、家へと帰っていった。他の生徒にも話が出来ない辛さは、どうしようもなかった。
その後、佐伯は地方の学校に就職することが出来、夏休み明けに引っ越したのだった。