12、重なる心
バイクが止まったのは、佐伯のマンションだった。
「大丈夫か? 俺の家のが近いからな。一度着替えた方がいい。熱は?」
「ないと思う……」
「とにかく上がれよ。ちょっと汚いけど……」
佐伯は歩を、部屋へと引き入れた。歩は初めて入る男性の部屋を、興味の目で見渡す。
「意外と綺麗……」
「そうか? ほら、タオル。それから俺のジャージだけど、着替えた方がいいぞ。奥で着替えな」
「ありがとう……」
歩は奥の寝室へと入り、すぐに着替えて戻っていく。佐伯は救急箱を用意していて、歩の怪我した足を消毒すると、立ち上がった。
「じゃあ、行くか」
「もう?」
佐伯の言葉に、思わず歩がそう言った。
「でもおまえんち、厳しいんだろ?」
「今日は大丈夫。打ち上げがあるから、少し遅くなるって言ってあるから……」
「そうか……じゃあ、少しは落ち着けるわけだ」
佐伯は小さく微笑むと、台所で湯を沸かし、温かい紅茶を出してやった。
「ありがとう、先生……」
顔色もよくなった歩に、佐伯は口を開く。
「……何があったんだ?」
佐伯の質問に、歩は小さく息を吐いた。
「……この間、二年生の人から告白されたの。同じ部活の先輩で……でも断ったの。だけど先輩、人気のある人で……」
「さっきのやからは、その追っかけってところか」
「わからないけど、急に連れていかれて……」
「そうか。おまえが悪いんじゃないのにな……」
「……怖い」
涙ぐむ歩の頭を、佐伯は優しく撫でてやった。
「おまえの担任には言っておくよ。部活の顧問の先生にも。これからは、俺も気をつけるし、今日はゆっくりするといい」
「うん……先生、ありがとう」
「いいよ」
佐伯は歩の制服を干すと、ドライヤーで乾かし始める。そして、話題を変えた。
「文化祭は楽しんだか? 俺は結構楽しんだよ。おまえのクラスもなかなかだったぞ」
「うん。全部は見れなかったけど……」
「あ、そうだ。これやるよ」
佐伯は思い出したように、カバンからマスコット人形を取り出す。
「人形?」
「ダーツの景品でもらったんだ。さすがに俺はな……」
「いいの?」
「ああ」
「ありがとう。かわいい……」
やっと歩が笑ったので、佐伯は少しほっとした。
「本降りじゃなくてよかった。制服もすぐに乾くよ」
「うん……」
その時、歩はテーブルの上のオルゴールを見つけて鳴らし始める。
「ああ、それ……」
「私、辛い時とか、これ聞いてるんだ……」
歩の言葉に、佐伯は無言でソファへと座った。
「歩。おまえにも親友みたいな友達が出来るといいな……それまでは、辛いことがあったら、俺が相談に乗ってやるよ」
佐伯のその言葉に、歩は涙を流す。
「だったら、友達なんか出来なくていい……」
「歩……」
「先生……私、あの時の告白、嘘なの」
おもむろに、歩がそう切り出した。
「え?」
「私、先生とどうこうなりたいわけじゃないって言ったけど、嘘……本当は、先生の特別になりたい……」
歩が真っ赤な顔をしてそう言った。佐伯は困ったように、歩を見つめる。
「あ……歩。わかるだろう? 俺は教師で、おまえは生徒なんだ……」
佐伯が一瞬、言葉を失って言った。歩は口を結んで、佐伯を見つめる。
「じゃあ、どうして優しくするの? 私の気持ち知ってるのに、どうしてこんなに優しくしてくれるの。ただの生徒だから? だったらもう、話しかけないでよ!」
歩はそう言うと、玄関へと走っていく。
「歩!」
玄関先で、佐伯は歩の手を掴んだ。
「離して……もう、傷つきたくないよ……」
「……」
佐伯は何も言わず、後ろから歩を抱きしめる。その時の佐伯は、自分がどうしたいのかがわからなくなっていた。だが、歩をこのまま行かせたくないと思う。
「離して……」
自分の腕の中で泣き続ける歩に、佐伯は一層強く抱きしめる。
「歩……俺は正直、どうしたいのかわからないでいるんだ。ごめんな……でも、おまえとは他の生徒よりは仲の良い方だし、大事にしたいと思ってる。おまえに友達が出来るように考えてやりたいし、いじめは排除したい。それは……やっぱり生徒だからだ。この一線は越えられない」
佐伯が言った。歩は振り返り、佐伯を見つめる。
「じゃあ……私が先生の生徒じゃなかったら?」
歩の言葉に、佐伯の心は揺れた。何も言えない佐伯に対し、歩は涙を流し続ける。
「歩、頼むから泣かないでくれ。俺はおまえの涙なんて見たくないよ。おまえが俺を好いてくれてるのは、嬉しくないわけじゃないんだ。でも……」
「キス……してください。お願い……」
歩の言葉に、佐伯は目を泳がせる。そんな佐伯に、歩は言葉を続けた。
「私は先生が好きだよ。それは今まで変わらなかった。私のこと、少しでも好きな気持ちがあるならしてほしい……今ここには、私たちしかいないじゃない。生徒だから駄目なら、私、学校辞めたっていい。先生の彼女になりたい」
泣いて酸欠状態になりながら、歩は精一杯の勇気で、佐伯に体当たりしていた。そんな歩に、佐伯は即答することが出来ない。
「馬鹿だな……なに言うんだよ」
「お願い、先生。キスしてくれたら、元に戻るから……」
佐伯はしばらく悩んだ後、歩にそっとキスをした。歩は涙を流しながら、佐伯を離さない。
「歩。俺もおまえが好きだよ……」
自分の言葉を噛みしめるように、佐伯が言った。今度は歩が驚く。
「せ、生徒として?」
「……いや」
佐伯の正直な言葉だった。歩は佐伯の頬に触れる。しかし見つめる佐伯の顔は、辛そうに自分を見つめている。
「……同情して言ってくれてるの?」
辛そうな佐伯に、歩が俯いて言う。そんな歩の顔に佐伯の手が触れ、涙を拭った。
「いいや。でも正直、どうしたらいいのかわからない……人間としておまえを受け入れることは出来るけど、俺たちは教師と生徒なんだ。どこまでいっても……」
「先生……」
「だから、もしおまえが卒業しても俺を好きでいてくれるなら、その時は……」
「嫌! そんなの待てないよ。どうして……私は先生が好きで、先生も私を好きでいてくれるなら、何の問題もないじゃない。先生と生徒の何がいけないの? 卒業までなんて、待てないよ……」
佐伯の告白を遮って、歩が叫ぶ。
「馬鹿か。辛いのが、おまえだけだなんて思うなよ」
歩に向かって佐伯が言った。佐伯の目は、真剣に歩を捉えている。
「先生?」
「……おまえは俺にとって、特別な生徒だよ。ずっと、気にかけてた……」
今までを振り返り、佐伯が言う。改めて考えると、歩のことが気になる存在だったのは事実である。友達の少ない歩をどうにかしたいと思っていたのも、特別な存在だからといえるのかもしれない。
しかし、無意識に歩への気持ちをかき消そうとしている自分がいる。だがそれは無理なことだった。歩の気持ちが、佐伯に痛いほど突き刺さる。
「せ、先生。今だけ抱きしめて……本当に私を愛してるなら、今だけ先生と生徒の関係なんてやめてよ。ここには私たちしかいないんだよ? お願いだから……」
少し震えながら、顔を赤らめて歩が言う。佐伯はそんな歩を、しっかりと抱きしめた。
歩は今までになく積極的で、佐伯は自分の気持ちに気づいた瞬間だった。
二人は長い間、互いの温もりを確かめ合うようにしながら、何度も何度もキスを重ねる。もう、互いのことしか考えられなかった。
しばらくして──。
「……もうこんな時間だ。そろそろ帰らないとな」
抱きしめる手を緩めて、佐伯が言った。
「まだ平気!」
「でも、そろそろおまえのクラスの打ち上げも、終わる頃なんじゃないの?」
「……でも」
「駄目だよ。お母さんに心配かけちゃ」
「……過保護なのよ。異常なくらい」
溜息をつく歩の頭を撫で、佐伯が苦笑する。
「一人娘だもんな。駅まで送るよ」
「平気。タクシー代、持たされてるから」
「へえ。お嬢様じゃん」
「やめてよ……」
歩はもう一度、佐伯に抱きつく。
「……先生。本当に私のこと、好き?」
「ああ……好きだよ」
ためらいもあったが、今は二人にとって幸せな時間であることは間違いない。
歩はすっかり安心して、佐伯に微笑みかける。
「じゃあ、一つだけわがまま聞いてくれる?」
「なに?」
「私、十二月が誕生日なの。だからその時……何かしてくれる?」
「いいよ。何日なんだ?」
佐伯も笑うと、軽く答える。
「二十四日」
「クリスマスイブじゃん。学校も休みだな」
「うん。でもその日は家でパーティーするから、会えないと思うけど……」
「じゃあ、違う日に会おうか。ご馳走作ってやるよ」
「本当?」
「ああ、本当」
「嬉しい!」
歩は、本当に嬉しそうに喜んだ。
「よし。じゃあ約束だ。今日はもう帰ろう」
「うん……」
二人は名残惜しそうに、もう一度キスをすると、歩は佐伯のマンションの近くから、タクシーに乗りこんで帰っていった。
今日のことは、二人にとって、まるで夢のような時間であった。