11、文化祭
一年前、秋――。
夏休みを終えたばかりの生徒たちに混じり、佐伯が学校に登校した。佐伯と歩の間には何もなく、もちろん夏休みに会うような、特別な存在ではなかった。
夏休みが終わってすぐに、文化祭の準備が始まった。文化祭のために、夏休みも活動していたクラスはいくつもある。
数学準備室。ほとんど佐伯しか使わないその部屋は、もはや佐伯の私物で溢れている。
そこに、歩がやってきた。
「お、一人か?」
歩に気づいて、佐伯が尋ねる。
「古屋さん、風邪で早退しました」
「そう。今日は別に、仕事はないよ」
「そうですか……」
「でも、ちょっと話でもしない?」
佐伯はそう言って、火のついた煙草をもみ消す。歩は佐伯の近くにある椅子へと座った。
「先生ってヘビースモーカーなんだね。いつも吸ってる」
「まあね……煙草は嫌い?」
「嫌いもなにも、吸ったことないもん」
「そうか。おまえはお嬢様だったな」
「そういうわけじゃないけど……」
歩は押し黙る。そんな歩に、佐伯はなんとなくの質問を続けた。
「兄弟はいるの?」
「一人っ子です。厳しい父と、教育ママに囲まれて……」
「幸せな家庭じゃないか」
「……わかりません」
「そうか」
佐伯は苦笑しながらも、話を続ける。
「夏休みは楽しかったか?」
「特に変わったことは……家族で親戚の家に行ったくらい」
「友達と遊んだりしなかったのか?」
「はい……」
「……まだ馴染んでないのか?」
友達の少ない歩が、佐伯は心配であった。佐伯とも前よりは打ち解け、明るくなっているように見えるが、歩はいつもどこか引いている部分がある。佐伯は教師として、力になりたいと思っていた。
歩は佐伯の質問に、俯きながら答える。
「そういうわけじゃないけど……うちの近くに友達いないし……」
「ふうん……」
歩の今後を模索するように、佐伯は名案がないかと考える。
そうして黙りこんだ佐伯に、今度は歩が口を開いた。
「……先生は夏休み、何してたんですか?」
「俺? 俺も、別に変わったことはしてないな……大学の友達と、山登りとかは行ったけどね」
「へえ。山登り……」
その時、チャイムが鳴った。
「予鈴だ。じゃあ行くか」
「はい」
二人は立ち上がると、教室へと向かっていった。
「おまえのクラス、文化祭は何やるの?」
廊下を二人で歩きながら、佐伯が尋ねる。
「プラネタリウムに決まりました。一人、とても詳しい子がいて、結構本格的に……」
「へえ、プラネタリウムか。いいね。俺、星好き」
「私も」
「楽しみにしてるよ」
佐伯の言葉に、歩は素直に喜ぶ。
「先生は、何もしないんですか? 文化祭」
「しないよ。俺は顧問も剣道部で、せいぜい講堂とかの入場整理とかだけだよ。その分、いろいろ見られると思うけどね」
「じゃあ、うちのクラスも、きっと見にきてくださいね」
「ああ。必ず行くよ」
二人はそのまま、教室へと入っていった。
文化祭当日。
「佐伯先生、そろそろ休憩時間ですよ。楽しんできてください」
一人の女性教師が、佐伯に言った。教師は交代制で、文化祭を回れることになっている。
「ありがとうございます」
佐伯はそう言うと、辺りを見回す。
「今日は曇ってしまったから、どうなるかと思ったけれど、たくさん人が入ってますね」
「ええ。夕方までは、天気はもつそうだからよかった」
佐伯はそのまま、教室を周っていった。
「あ、佐伯ちゃん。来るの遅いぜ」
一年生の棟で、男子生徒がそう言って、佐伯の肩を叩く。
「悪い。三年の方から順番に見てきた」
「まったく。ほら、見てってよ」
「五組はなんだ?」
佐伯は、目の前にある教室の中を見ながら尋ねる。小さなコーナーが区切られているようだ。
「ダーツに輪投げ。やってってよ! 豪華賞品あるからさ。まあ、当たればの話だけどね」
「おまえ、俺のダーツの腕知らないな」
呼びこみの男子生徒が、そのまま佐伯を教室の中へと連れていく。佐伯は腕をまくり上げると、自慢げにダーツの矢を手にする。
「そんなこと言って、どうせハッタリなんだろ」
「さあ、どうかな」
佐伯はそう言うと、ダーツの矢を放った。三本の矢のうち、矢はすべてまん中付近に刺さった。
「すげーじゃん、佐伯ちゃん! じゃあ、ここから三つ景品選んで」
そうやって差し出された箱の中には、消しゴムや折り紙などが入っている。
「ろくなのねえな……」
「そう言うなよ、佐伯ちゃん。でもマスコット人形だけは、女子の手作りだよ」
「じゃあ、それ三つもらおうかな」
マスコット人形の景品を受け取ると、佐伯は順番に教室を周っていった。
たまたま最後に来たのは、歩のクラスであった。
「豊ちゃん、入ってって。もうすぐ始まるよ」
呼びこみの女子が、佐伯を誘う。
「ここはプラネタリウムだったな」
「そうだよ。ちょうどいい時間に来たね。今から始まるから」
佐伯は、教室の中へと通された。中には大きな布が天井からかけられており、まるで大きなテントの中のようで、薄暗い明かりがついているだけだ。
「あ、佐伯先生だ。やっと来てくれたんだ」
中にいる女子が、佐伯に声をかける。
「ああ。体育館の方から順に来たから、ここが一番最後だよ」
「なんだ、ついてない」
「最後だから、ゆっくり見られるって」
「うまいなあ、先生」
「ほら、始まるんだろう。うるせえよ」
「ハイハイ」
「あの、佐伯先生……これ、パンフレットです」
そこに、歩がプリントを差し出してきた。
「ああ。ありがとう」
佐伯はそれを受け取り、歩のクラスも楽しんでいた
夕方。文化祭が終了し、佐伯は掃除をして、職員室へと戻っていった。
「佐伯先生、お疲れさまです」
男性教師が、佐伯に声をかける。
「お疲れさまです。後片付けのが大変ですね」
苦笑しながら佐伯が言う。
「ええ。でももう、大分片付きましたね。生徒たちもほとんど帰りましたし、後は教師の仕事です。我々も、なんだかんだと大変ですよね」
「本当に。じゃあ俺、ここのゴミ捨ててきますから」
職員室のゴミ箱を持ち上げて、佐伯が言う。
「ああ、すみません。外は雨が降ってるので、傘持っていった方がいいですよ」
「大丈夫ですよ。すぐ戻りますから。でも、昼間は天気がもってよかったですね」
「本当ですね」
「じゃあ、行ってきます」
佐伯はいっぱいになったゴミ箱を持って、焼却炉へと向かっていった。
そしてゴミを捨てると、どこからか声が聞こえてくる。しかし、辺りを見回すが、姿は見えない。
「いい気になってんじゃないって言ってんのよ!」
その時、そんな声が聞こえ、何かを叩く音が聞こえた。佐伯は近くの倉庫裏を覗きこむ。そこには、数人の女生徒に囲まれた、歩の姿があった。
女生徒たちは傘を差していて顔は見えなかったが、歩は怖さで震え、近くには傘が落ちている。
「泣けばいいとでも思ってるわけ? どういうつもりかって聞いてんのよ!」
「何してんだ?」
そこに、佐伯が声をかけた。女生徒たちは、驚きに声を失っている。
「あ……」
そこで、佐伯に初めて、女生徒たちの顔が見えた。二年生である。
「……いじめか?」
「そんなんじゃありません!」
女生徒たちは、逃げるようにその場から去っていった。
「おい。大丈夫か?」
残されたのは歩だけで、佐伯は歩の顔を覗きこむ。
「せ、先生……」
歩は、ガクガクと座りこんだ。
「歩」
「先生……先生!」
歩は涙に濡れ、佐伯に抱きついた。そんな歩の背中を撫でながら、佐伯は歩を見つめる。
「大丈夫だ。もういないよ」
歩は何度も頷き、やがて佐伯を見上げた。
「ご、ごめんなさい。ありがとう……」
大分、落ちついた歩を見て、佐伯は優しく微笑み、頷く。
「大丈夫か? 怪我してるな」
歩の頬は叩かれて腫れ、一度倒れこんだらしく、その拍子に怪我したと見られる傷が足にあった。
「大丈夫……」
歩はそう言うものの、ショック状態で動けないようだ。
「家まで送るよ。これ戻したら帰れるから」
佐伯はゴミ箱を見せてそう言う。歩は目を泳がせると、静かに口を開いた。
「私、クラスの打ち上げが……」
「無理しない方がいい。誰かしら残ってるだろう。見かけたら帰るって伝えろ」
「……うん」
「震えてるな……」
「平気……」
「じゃあ、教員の駐車場で待っててくれるか?」
歩は頷いた。佐伯はそのまま歩を一人にするのをためらったが、急いで職員室へと戻っていった。
「あ、佐伯先生。お疲れさまです」
佐伯が職員室に戻るなり、さっきの男性教師が声をかける。
「お疲れさまです」
「もう終わりでしょう? どうですか、たまには一杯」
「すみません。行きたいんですが、ちょっと一人トラブってて……」
「何かあったんですか?」
「大したことはないと思うんですが、心配なので送り届けます」
佐伯は正直にそう言い、自分の机の下を探る。そこには、予備で用意してあったヘルメットが置かれている。
「大丈夫ですか?」
「ええ、多分……じゃあ、お先に失礼します。今度ゆっくり飲みましょう」
「ええ」
佐伯は急いで、職員室を出ていった。
教員用の自転車置き場には、歩が座りこんでいた。
「歩」
佐伯が声をかけると、歩が立ち上がる。
「大丈夫……」
「これ着ろよ。バイクだから……しっかり掴まってろよ」
佐伯はジャンパーを歩に渡し、ヘルメットを被せた。自分も非常用で置いていたヘルメットを被り、後ろに乗せた歩に振り返る。
「おまえの家、隣町だったよな?」
その時、歩がくしゃみをした。
「大丈夫か?」
「う、うん。でも、すごく寒い……」
雨の中で詰め寄られていたため、歩の身体はずぶ濡れだった。今でもガタガタと震えているので、佐伯は頷く。
「参ったな……ちょっとの間、我慢しててくれよ。ゆっくり走るから」
佐伯はそう言うと、歩を後ろに乗せて、学校を出ていった。