10、ゴトーの日
現代。
佐伯は数学準備室から動かないまま、一人、黙々と煙草を吸っていた。そこに授業終了のチャイムが鳴る。佐伯は、部屋に貼られた授業表を見つめた。
「次は静香たちのクラスか」
佐伯は煙草の火を消すと、職員室へと向かっていった。
「佐伯先生。新しいチョークがほしいって言ってましたよね? 机に置いておきましたから」
同僚の女性教師が、佐伯に言った。
「あ、すみません。俺、筆圧すごくて、すぐ折っちゃうんですよね……」
佐伯は、苦笑しながらそう言う。その言葉に、女性教師も苦笑した。
「私は薄くて、生徒たちに怒られてます」
「どちらもいけませんね」
「本当」
二人は笑った。そして佐伯は、自分の机の上で、授業の支度を始める。
「佐伯先生って、意外と綺麗にしてますよね」
女性教師が、机を覗きこむようにしてそう言った。佐伯は吹き出すように口を開く。
「どういう意味ですか?」
「あらごめんなさい。でも、そんなにさっぱりしている先生っていないから……」
「はあ。前の学校でも、あんまり職員室にいなかったんですよ。俺、どうも職員室って苦手で……」
「あら。昔、怒られたりしたクチですか?」
「まあ……ここの学校、あんまり準備室に入り浸る先生いないから、おかげで数学準備室は、自分の城になってますよ。そっちは散らかってるから、片付けないと」
「うふふ。おかしな人ですね、佐伯先生って」
「そうですかね……」
佐伯は、頭をかいて苦笑した。
* * * * * * * * * *
一年前。帝都学園数学準備室。
そこでも佐伯は、一人で煙草を吸っていた。そこに、ドアがノックされる。
「はい」
「一年二組です」
「はい、どうぞ」
ドアのところには、歩ともう一人の数学係の少女が立っていた。
「次はうちのクラスですけど、何か仕事はありますか?」
「ああ。そこの提出用のドリルを持っていって、配ってくれる?」
「わかりました」
「でも、もう始まるな。俺も一緒に行くよ」
佐伯は歩たちと共に、教室へと向かっていった。この間の放課後から、佐伯と歩が放課後に音楽室で会うことはなくなっていた。それどころか、こういう場でも目さえ合わない。佐伯は、そんな歩の態度を気にしていた。
「ユタ先生」
一年生の廊下で、数人の少女が佐伯に駆け寄ってくる。
「ユッコたちか。なに?」
「はい、これ」
少女たちが佐伯に差し出したのは、透明の袋に入ったクッキーだった。
「クッキー?」
「そう。昨日ユッコの家で、みんなで作ったんだ。先生の誕生日、明日でしょう? 明日は日曜で会えないから、今日持ってきたんだ」
「そりゃあ、わざわざありがとう。じゃ、遠慮なくいただきます」
「うん。それより先生。この間、五組の遠藤さんが先生に告白したって本当?」
少女たちの言葉に、佐伯は苦笑する。
「なに言ってんだ」
「噂だもん」
「本当、噂なんて当てにならねえな。そんなこと、あるわけないだろ。それにな、俺は誰にもモテるんだよ」
「キャハハ。バッカ。でも、私たちだって先生に惚れてんだからね」
少女たちは、あっけらかんと佐伯にそう言った。佐伯は慣れているように笑う。
「そりゃどうも。いいから行け。授業始まるぞ」
「はーい。クッキー、ちゃんと食べてよね」
「ああ、サンキュー」
少女たちが去っていき、三人はまた歩き始めた。
「モテモテですね、先生。生徒に告白されたって本当ですか?」
歩と同じ係の、古屋が尋ねる。
「まさか……そうだ、歩。おまえには、ゴトーの日の記念品やるっていう約束だったよな」
話題を避けて、佐伯が歩に言う。佐伯の誕生日の語呂と歩の苗字をかけて、生徒全員の前でプレゼントをあげる約束をしていた。
笑ってそう言う佐伯に、歩は佐伯を睨みつける。
「そんな物、いりません」
そう言った歩は、明らかに佐伯を拒んでいた。
「でも、せっかく……」
「私、そういうの嫌なんです」
歩の言葉に、佐伯は笑って頷いた。
「そうか。ごめんな……」
少し重苦しい雰囲気の中で、三人は教室へと歩いていった。
次の日。佐伯は、自分の誕生日でもある休日を、一人で過ごしていた。そこに電話が鳴る。
『佐伯? 俺、大友だけど』
電話の相手は、大学の同級生だ。
「大友か。久しぶりだな」
『ああ。それより今日おまえ、誕生日だろ?』
「そうだけど……なんでだよ」
『ゴトーの日だろ、覚えてるよ。それより、どうせ彼女いなくて暇なんだろ? たまにはおごってやるから出て来いよ。飲もうぜ』
「昼間っから、酒かよ」
佐伯は呆れながらも、笑って答える。
『いいだろ。近くの日本料理屋にいるんだ。とにかく来いよ。待ってるから』
「わかった」
佐伯は電話を切ると、指定された店へと向かっていった。
「来た来た。佐伯」
佐伯が店に行くと、店には大友という男性と、一人の女性が待っていた。
「おお、美香子。久しぶりだな」
佐伯はそう言って、女性の隣へ座る。美香子という、大友の妻である。二人共、佐伯の大学時代の同級生だった。
「おい、佐伯。人の女房に手を出すなよ。俺とも久しぶりだろうが」
美香子の横から顔を出して、大友が言う。佐伯は懐かしい友人に、ほっとしたように笑う。
「誰が手を出すか。おまえとは美香子より会ってる」
「そうかい。実を言うとさ、美香子がおまえの誕生日、覚えてたんだよ」
そのまま大友が、佐伯に向かって言う。
「へえ。そうだったんだ」
「本当に久しぶりね、佐伯君」
佐伯と大友は、何度か飲み会をして会っているが、美香子とは数年ぶりである。
佐伯は美香子に向かって、口を開く。
「ああ。こいつとは、うまくいってる?」
「まあまあってとこね」
「ハハ。そっか」
「佐伯君はどうなの? 高校の先生は」
「こっちもまあまあってところかな。二年目だけど、まだまだわからないことだらけだし」
「おいおい。なんで二人して話すんだよ。俺も仲間に入れろよ」
仲良く話している佐伯と美香子に向かって、大友が口を挟む。そんな大友に、佐伯は苦笑した。
「悪い悪い。美香子のほうが久々だからさ」
「おまえも早く結婚しろよ。そしたら俺、嫉妬しなくて済むだろう」
「へえ、意外だな。おまえはそういう考えなんだ」
「茶化すなって。ほらほら、酒が来たぞ。乾杯しよう」
一同はグラスを交わし、酒に口をつける。その後、一番初めに口を開いたのは、美香子であった。
「でも佐伯君、昔から結構、硬派なところあったよね。今、本当に彼女いないの?」
「いませんよ。それどころじゃないって。ガキばっか相手にしてるんだから」
佐伯は苦笑して答えた。そんな佐伯に、大友が身を乗り出す。
「そりゃあ大変だ。それに佐伯は硬派じゃなくて、ガリ勉なんだよ。大学時代から」
「確かに」
「それで? そのガキには告白とかされちゃったりするわけ?」
「いつの時代も、生徒にとって教師は憧れの存在なの。そういうやつもいるだろう」
「へえ、告白されるんだ」
「おまえはどうなんだよ」
今度は佐伯が大友に尋ねる。大友もまた、高校の教師である。
「俺は男子校だぞ」
「ハハハ。そうだった」
三人は数時間、そのまま一緒に食事をすると、それぞれ家へと帰っていった。
その頃、佐伯の自宅マンションには、歩の姿があった。手には職員名簿で調べた住所のメモが握られている。
学校では素直になれなかったものの、今日は佐伯の誕生日だ。歩は今までの行動を謝るためにも、どうしても今日、会いたい……そして、誕生日プレゼントを渡したいと考えていた。
歩が佐伯の部屋を訪れると、その前には数人の女子たちが座りこんでいた。
「なによ、あんた。豊ちゃんになにか用?」
女子たちは上級生のようで、威圧感たっぷりに歩を睨みつけている。
「あんた一年ね? ガキは帰んな。豊ちゃんが、あんたなんか相手にするわけないんだから。ウチら三年はもうすぐ卒業で、ガキじゃないからいいけどね」
歩は押し黙った。しかし、ここまで来て帰るのも空しい。歩は勇気を振り絞って、口を開いた。
「せ、先生はいないんですか?」
「うるさいな。とっとと帰んな!」
女子たちの剣幕に、歩は驚いて後ずさりすると、肩を落としてマンションを出ていった。
「歩?」
その時、ちょうど帰ってきた佐伯が、歩を呼び止めた。
「先生……」
「どうした? こんなところで……」
「あの。名簿を見て……誕生日プレゼント……」
人付き合いの苦手な歩が、しどろもどろでそう言いながら、小さな箱型のプレゼントを差し出す。
「ああ、そっか。わざわざありがとう……俺もおまえに渡すもんがあったんだ。ちょっと待ってて」
佐伯の言葉に、歩は佐伯の腕を掴み、首を振った。
「へ、部屋の前に、三年生がいる……」
怯えたようにしている歩の顔を、佐伯は覗きこんだ。
「追い返されたのか?」
「うん……」
「そうか。じゃあ明日、学校に持っていくよ。おまえはいらないって言ってたけど」
「……ゴトーの日のプレゼント?」
歩が笑って尋ねる。
「当たり。俺も安月給だから、大したもんはあげられないけど」
「ううん」
「……よかった。もう、口きいてくれないのかと思った」
歩の笑顔に笑いながら、佐伯が言った。
「え?」
「俺……おまえ、傷つけちゃったもんな」
佐伯の言葉に、歩は佐伯を見つめる。
「先生……私、決めて来たの」
「何を?」
「私、先生のことが……」
「ストップ」
歩の言葉に、佐伯は突然そう言って、歩の話を止めた。
「先生?」
「悪いな、歩……俺、生徒をどうこうする気ないんだ。だから誰が何を言っても、答えは同じだ。もうおまえのこと傷つけたくないし、わかってほしいんだけど……」
「……わかった……」
歩は佐伯が気になっていた。学校でかまってもらえたのが嬉しく感じる。話をする機会もない日は苦しくて仕方がない。
そんな胸いっぱいの想いを抱え、歩は佐伯の誕生日を機に、一生分の勇気を使い果たしても、告白しようと思っていた。だがその寸前で、歩はすべてを否定され、断られてしまった。
「……ごめん」
佐伯にとって、生徒から告白されたことは、歩が初めてではなかった。それゆえに、生徒である歩が何を言おうとしているのかがわかってしまう。傷つけたくはなかったが、教師としてきっぱり言わなければならないこともある。
歩は肩を落としながらも、無理に笑って首を振った。
「ううん。じゃあ……さよなら」
歩はそう言うと、その場から去っていった。佐伯は小さく溜息をつくと、マンションへと入っていった。
佐伯が部屋に向かうと、歩が言った通り、部屋の前には数人の女生徒たちがいる。
「あ、豊ちゃん! 遅いよ、ずっと待ってたんだよ。誕生日おめでとう」
佐伯の帰りに盛り上がりながら、女生徒たちはラッピングされた袋を差し出す。しかし、佐伯の顔は晴れておらず、女生徒たちを見つめている。
「ああ。ありがとう……」
「ねえ、中入れてよ。寒かったんだよ」
「悪いけど、もうここには来ないでくれ」
溜息をつきながら、きっぱりと佐伯がそう言った。そこに学校で見るような佐伯はいない。
女生徒たちは、戸惑いながら口を開く。
「え、なんで?」
「なんでも。俺にもプライベートってもんがあるし、こんなところに集団でいられたら、マンションにも迷惑だ。おまえたちならわかるだろう?」
「……なによ。せっかくわざわざ来てやったのに」
「悪い」
「自惚れないでよ。もう知らない!」
女生徒たちは腹を立てて立ち上がると、去っていった。
佐伯は溜息をつきながら、部屋へと入っていった。そしてソファに腰を下ろすと、ふと気になって、歩からの誕生日プレゼントの包みを開ける。中には、カントリーロードのオルゴールが入っていた。
佐伯はそれを見て少し驚いた後、部屋の棚に置いてあった小さな包みを持って、マンションを出ていった。
佐伯はそのまま、バイクで駅へと向かっていた。しばらく走ると、駅の近くの商店街で、歩がとぼとぼと歩いているのが見える。
「歩!」
佐伯はそう言って、歩の前にバイクを止める。
「先生……」
「間に合ってよかった」
笑いかける佐伯に、歩は首を傾げる。
「ど、どうしたの?」
「これ、ゴトーの日のプレゼントだ。やっぱり今日、渡したくなった」
佐伯はそう言って、ポケットに突っこんでいた小さな包みを差し出す。
「ありがとう……」
「開けてみな」
「うん」
歩は嬉しそうに包みを開けると、そこにはカントリーロードのオルゴールが入っている。
「先生。これ……」
「同じ物、買ってたんだな」
二人は微笑んだ。そして歩は、笑っている佐伯を見つめる。
「先生、やっぱり言わせて。私、先生のことが好きだよ」
歩の言葉に、佐伯の目が揺れる。
「歩……」
「だからと言って、先生にどうこうしてもらいたいわけじゃない。ただ……言っておきたかったの。私が勇気持って告白したの、忘れないで……」
「……ありがとう……」
二人は優しく微笑むと、その場で分かれて帰っていった。