少女に恋した悪魔
ある村には悪魔がいた。
血を求めては人間を殺してその血肉を喰らう。
それがこの村の悪魔に対する噂で、悪魔に近づかないようにするための言葉でもあった。
そんな噂の標的とされていた悪魔は、実の所一度も人間を食べたことがなかった。
まず、空腹というものを感じたことがないし、血を求めたこともない。
見た目も人間みたいで、大きな牙と2本の太く長い角さえなければ、きっとこんな不当な扱いを受けなかったはずだ。
それでも、そんな不当な扱いを受けても悪魔はなんとも思わなかった。
出会えば悲鳴が上がり、銃を突きつけられたり、剣で脅されたり。
そんなことをされる意味もわからず、そのことについて一晩中考えてみたが無駄に終わった。
きっと分かり合えないのだろう、とどこかで諦めてしまい、それからは村に寄り付かずに森の中でひっそりと暮らしていた。
誰にも合わず、空を見上げ、花を愛で、時々動物達と語り合う。
そうして怠惰な時間を過ごしていたのだがーー
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ある日。悪魔は森を抜けた先にある大きな花畑にいた。何故ここにいるのかはわからない。ただ、気まぐれにこの場所にいるだけだった。
彩り豊かな花々に囲まれた場所。ゴツゴツとした座り心地の悪い岩に座っていると、一つの影の隣に、別の影が現れた。
悪魔が不審に思い振り返ると、そこには少女がいた。悪魔と同じ年齢くらいの少女が。
「あなたが悪魔さん?」
少女は笑顔で問いかけてきた。
「そうだよ。君の知るような人を喰らい、血を舐め、肉を貪る悪魔さ」
悪魔は淡々と告げる。好奇心旺盛な人間なのだろう。声を低くし、牙を鳴らしてやった。
「へぇ、そんなに怖いのね。私はアンナ。ねぇ、隣いい?」
少女は悪魔の答えも聞かずに横に座る。岩の座り心地が悪くて位置を調整していたが。
「……君は事の重大さが分かってないのかな。それとも、言葉が難しかったか」
「これでもお勉強はしているから意味はわかってるわよ。それに私は君じゃなくてアンナよ」
頬を膨らます少女に悪魔は不信感を得た。屈託のない笑顔で嘘をついてるようには見えない。それでも、信じられなかった。
「ならなぜ逃げない。君……アンナはこれから僕に殺されるかもしれないんだよ?」
「君」という言葉を言った直後に少女が睨んできたので悪魔は言葉を訂正する。
「殺してないじゃない」
逃げ出さない少女に悪魔はますます不信感を得る。
「これからかもしれない」
「悪魔さんって嘘が下手なのね」
笑っている少女に、悪魔は何を言っても無駄だと諦めた。
それからは、少女が話し始め、悪魔は無視するだけだった。
無視をすれば、好奇心旺盛な少女はつまらないと言って二度と来なくなるだろうと考えたからだ。
それでも、少女は毎日足を運んできた。初めは雑な対応をしていた悪魔も、段々と言葉を返すようになり、二週間経てば、二人はすっかり友達のように話し合っていた。
「ねぇ、そういえば悪魔くんって名前はあるの?」
唐突に問いかけられた言葉。「悪魔さん」から「悪魔くん」に呼び方は変わってはいたが、悪魔それについて何も言わなかった。
「名前……はないね。生まれた理由も、どうしてここにいるのかも分からない」
「そうなのね……ねぇ、名前考えてあげよっか!」
少女は思案げな顔をキラキラと輝いた顔にする。どちらでもよかったが、名前というものに興味のあった悪魔は頷いた。
「悪魔くんの名前は……そうね……悪魔だからアークはどう?」
「アンナ、それは安直すぎないか」
悪魔だからアーク。本当に安直なものだ。悪魔の言葉に少女は頬を膨らませる。
「ふん! じゃあいいもん。アークの名前考えてあげない」
もうアーク呼びになっているのだが。などと悪魔は考えていない。悪魔が考えていることは、ぷいっとそっぽを向き、いじけた姿の少女への疑問だった。何がそんなに嫌だったのだろうか。
「別に嫌とは言ってないぞ」
「嬉しそうにしてないじゃない! 本当は嫌なんでしょ」
いよいよ本当に怒りだす少女。
「嬉しそう……か」
「アーク?」
悪魔は思案する。このことを少女に話すべきか。ただ、考えたのは一瞬のことで。
「僕には嬉しそうなんて感じたことがない。僕には感情がないんだ。唯一与えられた感情は疑惑の感情。これは全悪魔に共通していることなんだ。悪魔は人間にはない力を二つ持ってるのさ」
悪魔には感情がない。人間に騙されないようにと不信感を得たり、何故という感情は持てるが、それ以外の感情はなかった。だからこそ、誰一人として寄り付かなかったこの場所訪れた少女に喜びも得なかったし、勝手な噂を立てられて攻撃されても悲しまなかったし、悪魔が嫌われるようなこの世界に怒ることもなかった。
「感情がない……」
「あぁ、そうさ。気味が悪いだろう?」
少女は怒ることも悲しむことも喜ぶこともできる。それを悪魔が羨むことはない。
悪魔は知っていた。自分とは明らかに違うところを見ると人間は嫌悪感を覚えることに。角や牙を見て、人間が怯えるのと同じように。
だからこそ、このことを告げれば少女は逃げ出すと思っていた。
なぜ話すことを躊躇ったのか。避けてもらうことは自分から望んでいたことなのに。
そんなふうに考えている悪魔に少女は、
「可哀想……」
そう言った。気味悪がらず、可哀想だと言ったのだ。
「は?」
悪魔は戸惑った。予想を裏切った言葉に、ちゃんとした言葉の返しができない。
「だって、嬉しいとか、楽しいとかって思えないんでしょ? 可哀想よ!」
本気で思ったことを口にしている少女に、悪魔は今度こそ何も言えなくなった。
「アンナは僕の予想をことごとく裏切るようだね」
数秒の間のあと、悪魔は口を開いた。この少女のことを考えても無意味だろうと思い、諦めてしまったのだ。
ただ、言葉に不快な感情はなかった。
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ある日から少女は花畑に来なくなった。一日目に来ない時はそれほど気にもしなかった。これまでにもあったことで、また来るだろうと悪魔は思っていたからだ。
二日目になっても少女は来なかった。悪魔は風邪かなと思っていた。
三日目も四日目も五日目も、少女は来なかった。
一週間経ち、悪魔は村へ向かうことにした。
花畑を通り、村の近くの森まで歩いた。近くで村の男達が立ち話をしているのを見て、悪魔は慌てて木に隠れた。聞き耳を立てると、村の男達の話し声が聞こえてきた。
「あの子……アンナも可哀想だよな」
少女についての話のようだ。悪魔は少しだけ近づいて耳を傾ける。
「あぁ、段々と弱っている。進行の早い病気らしくて、もう一日も経たずに死ぬらしいな」
「ど、どういうことですか!?」
少女が死ぬ、その事を聞いた悪魔は木の影から思わず飛び出してしまった。飛び出してから自分の失態に気づくが、もう遅い。
「あ、悪魔だぁぁぁぁ!?」
男の一人が悲鳴をあげ、それを聞きつけた他の村人が剣や銃を持って集まる。
「あ、悪魔め!ついに来やがったな!」
「俺たちを殺すつもりだな!」
「近寄らないで!」
全員が悲鳴のような罵声を浴びせてくる。銃を突きつけられる中、悪魔は必死に弁明をする。
「ち、違います。殺しません。食べようともしません。ただ、アンナに会いたいんです」
懇願するように、縋るように悪魔は村人に頼む。
「だ、黙れ!この悪魔が!」
激しい音と衝撃が、悪魔を貫いた。大量の鮮血が、悪魔の腹部から流れ出し、血の絨毯を作りあげる。
「聞いて……ください。あの子に……アンナに会いたいんです」
「うるさい!黙りやがれ!」
銃声が鳴る。腹部から新たな血が流れ出す。
「お願……い、しま、す」
頭を地につけ、悪魔は懇願する。一目だけでいい。それが終われば、死んでも構わない。だから、だから
村人達が動揺する。恐怖の象徴が、自分たちに頭を下げている。そのことに、村人達はどうすればいいものかと戸惑っている。
しばらくのどよめきの後、
「……わかりました。ついてきてください」
村人の一人が、悪魔に手を差し出してそう言った。恐る恐る悪魔が顔を上げると、他の村人達も全員、銃や剣を下ろしていた。
「ありがとう……ございます」
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悪魔が連れてこられた場所は先ほどより少し歩いたところにあった。その間も血は流れ続けていたが、悪魔の生命力と、村人の処置でなんとかたどり着いた。
「アンナ……」
少女は酷く衰弱していた。透き通るような白い肌は、もはや病的にも捉えられるような白さだった。
少女は声のした方へ首を動かし、涙を浮かべる。
「アーク……」
「ごめん……こんな時、どうしたらいいんだ。僕にはわからない。恨めばいいのか。それとも怒ればいいのか」
感情のないことを恨めしく思う。村人達と同じような感情を得られないことに怒りを覚える。
「アーク……大丈夫よ」
「大丈夫じゃないんだ……ごめん……ごめんよ」
「アーク……もう分かってるんでしょ?」
「何が!」
声を荒らげる。こんな時にまでなにを言ってるんだと悪魔は怒りと悲しみをあらわにする。
「もう、あなたには感情がある。どうすればいいのか分かってる。だから、泣いてるんでしょう?」
「ーーーー」
言われてやっと気づく。怒りも、恨みも、悲しみも今さっき感じたことだ。そして、
「泣い……てる」
目尻に触れると、指先が暖かな水で濡れた。悪魔の目には大量の涙が溢れていた。それが頬を伝い、悪魔の顔を濡らしている。
「そうだ……僕は泣いている。君がいなくなるから……悲しい。辛い。苦しい。嫌だ。嫌だ。 嫌だ! 死んでほしくない!」
涙が止まらない。感情が爆発する。激しく咳き込みながら、少女の手を力強く握る。
「アーク……私ね。最初にあなたに会ったのはただの好奇心からだったの」
少女はアークの手を握り返し、話し始める。
「なんだ、悪魔って怖くないんだって。でも、みんなに言っちゃったら怒られちゃうから。内緒で毎日あの花畑に向かったわ」
悪魔は涙を流し続ける。それでも少女の話に耳を傾ける。一語一句聞き逃してはいけない気がしたから。
「段々と話していくうちに、驚いたこともあったし、辛いこともあったわ。それでも、アークといる日々が楽しかったの。嘘じゃないわ」
「うん……うん!僕も楽しかった!楽しかったんだ!僕も嘘じゃない!」
多分、ずっとそうだった。出会った時から嬉しくて、彼女といる時間が楽しくて。そのことに気づいてないだけだった。
「アーク……お話できてよかったわ。一緒にいれてよかったわ……私はあなたのことが」
少女は流れる涙をそのままにして、あの頃と同じ笑顔を向けて
「大好き」
「アンナ!」
少女は目を瞑る。手に感じていた圧力もなくなり、悪魔は顔を青くする。
「嫌だ!嫌だよ!まだ君に言ってないんだ。僕からは言ってないんだよ……いなくならないでよ……」
声が段々と弱くなる。少女の顔をーー笑顔のままの顔を見て悪魔は泣く。いつまで泣けばいいのだろうか。枯れることのない涙は、悪魔の服すらも濡らし始めていた。
「君が死ぬなんて嫌だ。僕は君に助けてもらった。君は僕のたった一つの光なんだ。だから……だから君のためだったら、僕は死んでもいい」
そう言って悪魔は自分の胸に手を当てる。鼓動が伝わる。少女からは消え去った音。その音を聞いて、悪魔は自身の胸を貫いた。心臓を掴み、握りつぶす。大量の鮮血が胸から、口から溢れ出した。
悪魔の二つの力のうちのもう一つの力ーー願いを叶える力だ。悪魔は自身の心臓を貫くことで、自身の一番望む願いを叶えられる。
「僕の願いは……アンナに生きてもらうことだ。それが叶うなら……この命、惜しくなんてない」
少女を汚さないように。こんなに優しい子を自分の汚れた血で汚さないようにと悪魔は注意を払う。そうして、心臓が完全に潰れた瞬間、悪魔の胸から淡く小さな光が生まれる。光は少女の方へゆっくりと動きだし、少女の胸の上で眩い光を放った。
「え……?」
少女の目が開かれる。起き上がり、視線を悪魔に向ける。
「ア、アーク!」
少女はベッドから降りて悪魔を抱きしめる。
いつの日か少女には、自分に二つの力があることを言ったのだ。だからこそ、少女は事態を察したらしい。悪魔は、荒い呼吸を立てて少女に目線を合わせる。
「アンナ……よかった」
少女が生き返ったことを目にして、悪魔は安堵する。
「よくない! よくないよ! アーク……あなたが死んじゃうじゃない!」
悪魔の血に顔や服を汚しながら、少女は大泣きをする。汚れないよう注意したのに汚しちゃったか。悪魔は少女に苦笑する。
少女を汚してしまったことに怒って、少女を泣かせた自分が憎くて、でも少女が泣いてることに安堵して、自分が死ぬことに泣いてくれる少女を嬉しく感じている。
ーーあぁ、僕ってひどいやつだな。
悪魔はもう一度苦笑する。こんなにも感情というものは憎くもあり、喜ばしくもあるのかと。
「アンナ……最後に君に言わせてくれ」
「アーク……うん、わかったわ」
少女は何かを言いたそうにしたが、悪魔の目を見て口を閉じた。少女は目を擦って涙を拭っていた。
悪魔は少女の行いに感謝する。そうして、
「アンナ、大好きだよ」
あの日の少女と同じ笑顔で、そう告げた。
アンナも目を赤くしながら笑っていた。
そうして、二人で笑いあって、一人が長い息を吐いて、そのまま動かなくなった。
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小さな村があった。小さな村の奥、森を抜けるとそこには花畑がある。花畑の傍にはいくつもの花束や摘まれた花たちが置かれたお墓があって、墓標には『アーク』と名前が刻まれていた。
そこに訪れた少女はお墓の前で座り込み、花を手向けて笑顔を見せる。
「また来たよ。アーク。今日はどんなお話をしよっか」