お前は天使か? それとも悪魔課!?
大きな戦が終わって数百年。国々は平和に栄え、順調に発展を続けて更に百年。
世界は滅びの危機を迎えていた。
死者が、死なない。
確実に死を迎えたはずの人間が、確実に寿命を迎えたはずの人間が、往来を闊歩している。しかも何故か、善良ではない人間ばかりそうなる。
穏やかに、日々を慎ましやかに暮らしていた人間は、生前と同じくして穏やかに生を閉じる。
だが、悪党であったり、罪人であったり、処刑された人間でさえ、死なない。
彼らは幾ら取り押さえても、幾度刑を執行しても死を迎えない。
始めはそんな馬鹿なと笑っていたはずの人々は、その数が着々と増え始めた頃ようやく顔色を変えた。国々が重い腰を上げた時は既に、徒党を組んで国を、世界を脅かし始めていた。
死んでも死なない死者は『死人』と呼ばれた。
何をしても死なない。首を刎ねたはずなのに、次の日には元の姿に戻っている。そんな奴ら相手に、兵士に何ができただろう。
徐々に、徐々に、戦線は人々の住む場所にまで下がっていく。後退の一途を辿っていた軍は、村を四つ落とされた。現在留まっている関を越えられると、背後に控えるのは大きな街であり、街道だ。街道を辿れば王都まで踏み込まれてしまう。
王城からは年若くも武で名高い第三王子が派遣され、砦に留まった。しかし、彼は戦を経験したことなどない。国々が戦をしていたのは、もうお伽噺になって久しい時代だった。
第三王子の指揮の元、砦は何とかその役割を果たしているが、それも最早限界である。何せこちらは兵を失うばかりで、敵は増え続けるのだ。守っているはずの国内から新たな死人が現れ、平和を脅かす。
八方塞がりとなった時、国一番の巫女が託宣が下ったと叫んだ。
巫女は言う。
異世界から救世主を呼ぶのだと。
神はそう告げられたと。異世界から救世主を召喚する術も授けてくださったと。
その報が砦に届けられた時、既に砦は死人に包囲されていた。押し返す兵力が残されていない砦では、最早門を破られる寸前まで追い詰められていたのだ。
第三王子はすぐに召喚の用意を命じ、それは実行に移される。
召喚は、成功した。
人々が固唾を飲んで見守る中、一際大きく光が放たれる。光が一か所に引き寄せられ、終息した時、誰もいなかった場所に一人の人間が佇んでいた。
量の多い黒髪と、金に近い色の瞳が印象的な、まだ年若い、男とも女ともとれる中性的な顔つきをしている。
救世主は、事態を飲み込めないと言わんばかりに、大きな目をぱちりと瞬かせた。
エンドウは目をぱちくりとさせた。
さっき自分は仕事を終えて部屋に帰ってきたのだ。格好だって仕事着のままだ。といっても、普段着と変わらないが。
いつものように立てつけの悪い自室兼事務所の扉を蹴りつけ、こじ開けた隙間から先に弟子を入れる。その後に自分も入ろうとしたらぐらりと世界が揺れた。驚いた顔の弟子が走り寄ってくるのを片手で制止したのは覚えている。
次に目を開けたら、ずらりと並ぶ人間に囲まれていた。全員やけに薄汚れている。土やら埃やら、黒いのは血液だろうか。頭やら腕やら、汚れた包帯を巻いていない人間を見つけられない。
首に巻いたやけに長い、真っ黒なストールがずるりと落ちかけて、無意識にそれを直す。
「お、おお、成功だ!」
「成功した!」
「これで我が国は、世界は救われた!」
わいわいと喜んでいる人間達に囲まれたエンドウは、少しの間目をぱちくりとさせていたが、すぐに片手を上げた。
「いや、困るんで自分帰ります! じゃ!」
そして、本当に帰った。
雲が原料となる地面は時間帯によって染まる。今は夕暮れだから赤色に染まり、そこを歩く人々の頬には光が反射して薄ら頬紅を指したようになっていた。
下界のような営みが主流となったのは何時頃だったのだろう。家路に急ぐ人々の足、沈みゆく太陽に急かされるように走り抜ける子ども達の声を聞きながらぼんやりと考える。
街並みを構成するのも雲なので、当然光の影響で色が変わる。朝焼けで紫色に染まり、昼は白い太陽で真白く、夕焼けで真っ赤に染まり、闇と一緒に静まり返る。
生活感あふれる街並みになった頃は、神聖な天界の外観を損なったとの反対派もいたらしい。
「あ、魚やす…………高いな……」
「高いですね…………」
安かったのは隣のツマで、魚は今日もしっかり高かった。雲海で捕れる魚の漁獲量が最近減っていて、お値段高騰中だ。安定した給料が入る課とは違い、除籍とならない程度の最低限の仕事しかしていないエンドウには、ちょっと縁遠くなった魚介類なのだ。
「エンドウ! 今日は雲海ダコが安いよ!」
袖捲りした店主が、ぱんぱんと両手を鳴らして本日の売り上げの締めをかけようとしている。この時間ならば少しくらい値引きもしてくれるだろう。実際それを目指して人々は店を覗いていく。
エンドウは苦笑して肩を竦めた。
「悪い、今朝家賃取りたてられたばっかりだ」
「おっと、そいつぁ残念だ。また今度寄ってくれ!」
「そん時はまけてよ」
客足とは不思議なもので、さっきまで閑古鳥が鳴いているように見えて、一人が並ぶと待ち構えていたのかと思うほどあっという間に行列になったりする。エンドウが足を止めたことによって、どこから現れたのかぶわっと客が溢れ返った。
「帰ろっか」
「はい、師匠」
弟子のスイレンと手を繋ぎ、エンドウは足早に離れていく。
「だって、お魚食べたいんだもん――!」
「僕もお金稼げるようになったら、師匠にお魚貢ぎますから――!」
涙を飲んで魚屋を離れ、鳴る腹を押さえて部屋に帰ったエンドウを待っていたのは、まさかの異界召喚だった。
次に目を開けたら自室だった。
目を真っ赤に泣き腫らした弟子が大きな目をぱちくりさせている。相変わらずさらさらの金髪が麗しい。
しかし、今はそんなことより部屋の惨状だ。朝に洗い損ねたコップが無残に床で砕け、本棚に仕舞われていたはずの本は、人生を……本生を儚んで集団ダイブしている。積んであったタオルの山は、何故かベッドの下をエンジョイしていた。洗い直しである。
「…………スイレン君、どうして部屋の中が凄いことになっているんですかね」
小さな子どもは、背中から真白い八枚の羽を弾き出して飛びついてきた。その羽が当たって部屋中のあちこちで物がひっくり返る。成程。部屋はこうして荒れたのか。
だが、弟子を取るまではもっと凄かったので特に怒るつもりはない。足の踏み場があるだけ素晴らしいと思うのだ。
抱きついたまま羽をぶんぶん揺らす弟子の頭を撫でながら、うんうんと頷く。
「師匠がいきなり世界から消えるからです!」
「いや、それ自分の所為じゃな」
い、と答えようとしたエンドウの身体が、またぐらりと揺れた。せめて最後まで言わせてほしい。後一文字だから。
咄嗟に、抱きしめていた弟子を突き飛ばし、嘆息する。
「ごめん、もっかい行ってくる」
「師匠――!」
「救世主様がお戻りになられた!」
「救世主様!」
「お願いします、救世主様!」
「闇に覆われたこの世界をお救いください!」
さっきと同じ人間達が徒党を組んで詰め寄ってきた。思わず仰け反って後ずさる。何が悲しくて、若きから老いまで選り取り見取りに詰め寄られなければならないのだ。
エンドウは背中の二枚羽を広げて、一旦宙に逃げた。
今度目を丸くしたのは彼らのほうだ。それはそうだろう。エンドウの見た目は人間のそれと同じだが、実際は天界に住む者だ。
「あ、あなたは、何、なのですか?」
人々の声は震えていた。それもそうだろう。だって、エンドウの羽は灰色なのだ。
「人間ではないですね」
素直に答えると、ひっと引き攣った叫び声をあがり、周りを取り囲んでいた円が遠ざかる。それはそれで、ちょっとだけ寂しい。
そんな中、一人だけ一歩踏み出した人間がいた。まだほんの少年だ。そういえば彼が他の人間に指示を出していたなと思い出す。立場ある人間なのだろう。
恰好からすると軍人に見える。だが、身に着けている品が良すぎるから、もしかするとかなり身分ある人間かもしれない。どちらにしても、エンドウには関係のない話だ。
紫髪を揺らし、きつい目つきをした少年は、剣に手をかけてまた一歩踏み出した。
「お前は天使か。それとも」
「悪魔課です」
正直に答えたら、しんっと周りが静まり返った。
「…………何と?」
「自分は天使課所属じゃありません。悪魔課所属の、しがない役所勤めの天界人です。なので、異界の事は異界でなんとかしてもらえますかね。ただでさえ、見ての通り自分が人間界に関わるのは面倒事が多いんで。じゃあ、お疲れ様でした! お先に失礼します!」
片手を上げて挨拶して、エンドウは再び元の世界に帰った。
途端、胸の中にタックル。
「げふぉ!」
「師匠の阿呆! 馬鹿! 間抜け! とんま! ずぼら! 大雑把! 片づけ下手!」
「おまっ、幾らなんでも師匠に酷い! 寧ろ人として酷い!」
「師匠の万年金欠――!」
「ぐふぉ!」
弟子は、エンドウの痛いところを的確についてくれる。何とも心優しい弟子だ。破門したい。
そもそもスイレンがエンドウの弟子になるのはおかしいのである。スイレンは純血の天使だ。つまり、混ざり物なしに純粋に神の御膝元から生まれでた命だ。神が代替わりを行うことがあれば、その筆頭候補になる存在である。そのままエデンで大切に大切に育てられ、行く行くは天使庁で天界を率いていく身の上だ。なのに、何を間違ったか、どうしてこんな下っ端の弟子になってしまったのか。幾ら本人の希望だとはいえ、本来は天使庁か、悪くても天使課の誰かの弟子になるはずだったのに、『純血天使がお前の弟子になりたいそうじゃ。それいけエンドウ』と上司の爺が勝手に許可を出した所為だ。
まあ、彼のおかげで散らかり放題だった部屋は整理整頓清潔を保ち、一日三食規則正しい食事に睡眠、糊の効いたシャツと大変ありがたい状況に改善されたので、破門は考え直すことにした。
確か自分は、世間知らずの神に最も近しい純血種を『弟子』にしたはずだ。
気づいたら可愛いお嫁さんが出来ていた気分だ。
駄目な師匠で本当ごめん、スイレン君。
スイレンはエンドウの肋骨辺りにぐりぐり額を押し付けながら、ぷりぷり怒っている。
「何だったんですか!? 僕を突き飛ばすとか何を考えているんですか! 僕は地界だろうが異界だろうが反逆だろうが、師匠がいるところならどこまでだってついていきますからね!」
「堕天じゃ済まないことをさらっと言うのやめてくれるかな!?」
下手すれば存在ごと塵芥と化す。エンドウだけ。
ちなみにエンドウの羽が灰色なのは、別に悪魔だからとか堕天している等の深刻な理由はない。単に灰色なだけだ。要は髪の色みたいなものだ。
悪魔とは人間を騙し惑わし、そして堕とす悪の象徴、魔の権化。
天使は天の御使い。神の名のもとに人々を天に召す聖の象徴。
悪魔は人間を堕落へと誘う。
天使は人間を神の御許へと誘う。
ただし、そんなものは人間の数が少なかった時代の話である。
天界が天使だけで埋め尽くされていたのはもう随分昔の話だ。
今では地界のように生活感が溢れ、店が軒を連ね、子さえ成し、生を営んでいる。天使は天界人へと姿を変え、純血種の天使は、神のおわす天宮から滅多な事では出てこない。
始めから神に仕えることが決まっている純血種以外は、天界人だろうが仕事をしないとやっていけない。様々な職種があるが、最も数が多いのが元々は天使の仕事だった地界の人間達の魂の管理だ。
天寿を全うであろうが突然の死であろうが、善人であろうが悪人であろうが、死んだ人間は全て天使課の管轄である。死者を迎えに行くのが天使課の仕事だからだ。
大抵の人間は死した際、迎えに現れた天使課の役人に素直について昇ってくるのだが、中には例外がいる。死にたくないと抗う人間だ。死を迎えて尚、天使課の迎えを拒み逃亡した人間を死人という。
天使課は人間に対して一切の攻撃を禁じられている。それらは全て悪魔課の担当である。
悪魔課は昇るのを拒否する人間に対し、武力を持って対応することを許された公的機関だ。死ぬはずだった人間は、仮令天使課から逃れられたとしても既に魂は死者に近い。そんな物を野放しにしていては神が敷いた摂理が歪む。天使課が全ての死者を管轄しているのに対し、悪魔課は死を拒む、いわばイレギュラー処理要員だ。よって天使課のように巨大な役所を持たず、職員達は個別に居を構えて仕事をしている。一人では困難な仕事の時は手を組むが、基本的に個々で仕事をするのが悪魔課のスタイルだ。中には、仲間や弟子で構成された大きな事務所を構える者もいるが。
悪魔課の仕事はスケジュールが建てられない上に、自ら仕事を探さなくてはならない。どの人間が悪魔課の管轄となるかは、天使課が出動するまで分からないし、逃げだした死人にしてもすぐに捕縛できた場合はいいものの、時間が経てば経つほど発見が困難になっていく傾向がある。
なので、悪魔課は既に作成された悪魔課管轄リストから捕縛対象を探し、各々仕事をして悪魔課に報告するというスタンスをとっている。神の名の元に既に何百年先もリストが組まれた安定の仕事をしている天使課と違い、給料も出来高制だ。稼ぎたければ金になる高額者を狙うか、小物であれど数をこなしていくしかない。地上をただぶらぶらして見つけられるはずもない。ある程度の情報収集を行い、目途をつけて下りなければならないが、そこまでしても空振りに終わることも少なくないのだ。
エンドウの戦闘能力は普通以下だ。小物をちょこちょこ狩れたらいいほうなので、収入はいつも雀の涙である。スイレンを弟子に取ってからは、二人三脚でちまちま追い込み漁が出来るようになり、ちょっと改善されたが。
それというのも、スイレンがまだ子どもだからだ。純血種は身の内の力が強すぎて、子どもの身体に耐え切れない。身体が力に見合うようになるまで、彼の力は封印に近い状態で保たれている。
そんなこんなで、エンドウはいつでも胸を張って堂々と宣言できるほど、金欠だった。
人間界の発展も、そんなに力がある方ではないエンドウの懐事情を圧迫してくれる。人がお仕事してる時に、ツブヤイタッターとかやるの本当にやめてほしい。死んだ後も世界に発信とか本当に勘弁してほしい。サンタクロースがセコームサレタッターと嘆いている気持がよく分かる。いろんな進歩は、こっちの世界の住人には迷惑この上ないのだ。
だから、さっきの世界はエンドウには少し懐かしい空気だった。電波がないって素晴らしい。だからといって、そうぽんぽん呼び出されては困る。
余程驚いたのだろう。スイレンはまだ抱きついたままだ。そして、そろそろ肋骨が限界だ。痛い。
「何なんですか何なんですか!」
「何なんだろうね。ちょっと上に連絡いれとかないとまず」
視界が少しだけぶれた。突き飛ばそうとしたスイレンは、死んでも離すまいと齧り付いていた。下手に引き離したほうが危ないと、諦めて深く抱きこむ。
それにしても、い、とせめて最後まで言わせてほしい。ほんの一文字分なのだから。
しかも今度はまずい。ほとんど視界が揺れることなくエンドウは異界に召喚されていた。恐らく、姿形をしっかり捉えられたのだろう。そりゃ、一度ならともかく二度三度と続けば、相手は確信を持ってこちらを呼べる。
まずは取り押さえる方針に出たのか、今度は槍先を突きつけられていた。先頭集団には、やはりあの紫髪の少年がいる。
彼らはエンドウの腕の中にいるスイレンを見てぎょっとした顔をした。
「さ、浚ってきたのか!?」
「生贄の子を救え!」
酷い誤解である。
ちょっとエンドウの羽が白くないからってあんまりだ。スイレンがまるで天使のように愛らしい子どもであるからって、実際天使なのだから気にしないでほしい。
そして、腕の中でぶるぶる震えている子どものこれが恐怖だと決めつけないほうがいい。
普通に憤怒だから。
「スイレン、落ちつい」
「わが師を愚弄するか、無礼者――!」
て、と、せめて最後まで言わせてほしい。後一文字だから。
感情と一緒に白い八枚羽が飛び出す。顔面にもふりとした感触。そのままもふもふ動かれるとつらい。鼻どころか顔面全てをくすぐる羽に、エンドウは諦念の表情を浮かべた。羽に隠れて誰にも見えなかっただろうけれど、エンドウはその時、全てを諦めたのだ。
「ふ、ふ、ふえくっしょおおおぉぉぉぉぃ…………」
おおぉぃ、おおぉぃ、おおぉぃ………………。
無駄に広い広間の隅々まで、エンドウの盛大なくしゃみは響き渡った。
スイレンの羽についた鼻水に猛烈な抗議を食らい、丁寧に拭ってやっている間に周りの視線は随分温かいものになっていた。温かいは温かいでも、最初に生がつく。
生温かい視線に見守られつつ、とりあえず話を聞くことにした。こうも頻繁に異界に召喚されては日常生活も侭ならない。好きに戻れるとはいえ、こっちにだって生活があるのだ。
「代表はだ」
「私です」
れ、と、せめて最後まで言わせてください。後一文字、後一文字だから!
一歩踏み出したのは、やはりというべきだろう、あの紫髪の少年だった。周囲の手は彼を止めようとしていたが、彼は意に介さず二人の前にどかりと腰を下ろす。
そう言えば床に直接座っていたが、もう今更だ。
「で、殿下! 誰ぞ椅子を!」
泡を喰った悲鳴のような声を、少年は片手を上げる事で制した。
「先程は大変失礼を致しました。私の名は、リンドウと申します」
「あ、良く似てますね。自分の名前はエンドウで」
「この世界は現在、闇に覆われています」
共通点から話を弾ませよう作戦と、最後の一文字はぶった切られた。
そろそろ泣いていいだろうか。
リンドウの話を纏めると、死者が死なないらしい。普通は何じゃそりゃと思うだろうが、エンドウは笑えない。
死なない死者の多くは悪党や死刑囚だという。死刑を執行したはずの人間が死なず、制圧したはずの山賊の住処には今も山賊が巣食う。だというのに、奴らに殺された人々は死んでしまうのだそうだ。
死人も、ゾンビのように衝動のままに人を襲うのならまだ分かりやすかった。だが、死人はそうではない。生前と同じように行動する。つまり、生はないが人間である。
そして現在、一般の人間が死を迎えても死人となる事例も発生しているという。つまり、死人の数が増える一方だというのだ。
それは、そうだろう。エンドウは敢えて口には出さなかったけれど特に驚きはしない。だって、死なずに済む方法を知ってしまったのだ。実際は生者と異なるのだが、そんなこと人間には分からない。誰だって知らないことは分からないが、一度知ってしまったら無かったことにはできない。
いつの世も、どこの世界でも、不老や不死の誘惑から人は逃れられない。それが例え善人であろうとも、己の為、誰かの為、一度死にたくないと願ってしまえば、その方法があると知った今、抗うことは酷く難しいだろう。
まだ周囲を威嚇しているスイレンを抱いたまま、エンドウは眉間に皺を寄せた。
「明らかに悪魔課の管轄ですが…………この世界の神は何をしておいでで?」
悪魔課天使課の概要については簡単に説明を済ませている。おかげで悪魔と罵られる事態は回避した。羽色は髪色みたいなものですと説明した結果、『歳を取ったら白になるのですか?』と真面目な顔で問われたときはちょっと笑った。
天使の白は、白髪の白!
弟子に怒られた。
リンドウは、エンドウと同じくらい難しい顔をして答えた。
「巫女の元に下った神託に従った結果、あなたを召喚しました」
「怠慢だ」
ぶすっとした顔のスイレンの口を塞ぐ。師匠が言いたいのを我慢しているというのに、さらっと口に出すな。羨ましい。
エンドウも特に驚いたりはしない。神が関わっているという気はしていたのだ。そうでなければ他界の神の管轄であるエンドウと、特にスイレンが界を越えるなどできるはずがないのだから。問題は、この世界の神がエンドウ達の神の許可を取っているかどうかだ。もしも何の通達もないただの誘拐だった場合、この世界は存続ごと危ない。
そして、平和的に話し合いの結果であれば、できれば事前連絡などあるとありがたかった。だが、神は気紛れで、ちょっと適当だ。
「異界のあなたには関わり無き事と理解しております。ですが、我らには最早手の打ちようがないのです」
それはそうだろう。人間に死者を殺すことはできない。エンドウは唸った。死者は人間の管轄外だ。そこは天界人の管轄であり、またそうでなければならない。人間が関わっていい領域を超えてしまうと、神の怒りを買うだろう。
「うーん……手を貸してあげたいのは山々なんですがねぇ…………まずは上司の指示を仰がないことには何とも言えませ」
ぽりぽりと頭を掻くと、少し遠巻きにしていた強面の中年男が立ち上がった。
「ええい! 最早我慢ならぬわ! 我らの世界が滅ぶか否かの事態に何を悠長な!」
「止せ、ウズミ! 無理を言っているのは私達だ!」
たかが一文字、されど一文字。
男を制すリンドウには感謝しつつ、このもどかしい思いをどうすればいいのか。ん、だけ言えばいいのか。それはそれでつらい。
「こっちにもこっちの事情があるんですよ」
結局、エンドウは話の続行を選んだ。
「それは、人間と関わってはならぬというものでしょうか」
硬い声音のリンドウに、エンドウはつっこみたい。その前に異界に関われるかどうかを考えてほしかった。だが、エンドウの言っている事情もそれではなかったりする。
エンドウは、無礼を承知で中年男を指さした。
「いいですか、自分はあなたように殿下と肩を並べられるような身分ではないんです。言うならば兵卒です。羽がある事と異界の者であることで特殊に見えるかもしれませんが、特に珍しいことではないんです。いや、人間から見れば珍しいかもしれませんがそこは置いておいてください。そして自分は役所勤めなんですよ。給料は税金です。あなたは、この国から給金を頂いている兵卒が、個人の判断で、救いを求められたからとこの国の武器と力を使い、他国の戦に参加していたらどうしますか。しかも給料はこの国持ち」
エンドウはきりりと眉を吊り上げた。
「最高の温情が頂けてもクビですよ、クビ! そうしたら誰が自分の給料払ってくれるんですか! ただでさえ家賃払ってお財布すっからかんで、弟子に新しい服も買ってやれないのに、クビですよ! そうならないように、せめて上司に伺いを立てて、上司が上に連絡して、許可が出ないと動けるわけないじゃないですか! 一介の兵卒に何期待してくれてるんですか! あなた方に我が世界の神が天罰を食らわせていないところを見ると、神は御許しになっているのかもしれませんが、だからといってこっちだって都合があるんです。せめて上司の許可がないと動けないに決まってるじゃないですか! 神の許可があるかの事実確認だって必要です。人の世の魂の処遇に、自分がおいそれと手出しなんてできませんよ! それともなんですか! あなたは自分に、上に一切の伺いを立てずに神に存在を消滅させられる覚悟でこの世界の為の贄になれと? 真っ平御免ですよ! その後どうすりゃいいんですか! 消滅させられるだけなら百歩譲ってまだマシですけど、一生タダ働きでこき使われたらどうするんですか――!」
この世界は恐らく、まだ生まれて日が浅い。その為、天界は溢れかえる人間とその死に収集をつけられなくなっているのだろう。エンドウ達の世界にもそういう時代があったから分かる。
だからといって、ほいほいと手を貸せるほど世界は無秩序ではない。規則があるし、神のご機嫌だって重要だ。
いつの世も、平社員ってつらい。そして聞きたい。
エンドウは虚ろな目で弟子を見下ろした。
「逆にさぁ……特別手当とか、でるかな…………」
「出るといいですね、師匠。そしたら、事務所の雨漏り直しましょう」
「それで残ったら、ベッドもう一個買おう」
「あ、それは要りません」
「お前……寝ぼけて自分の腕齧る癖、直してから言えよぉ。痛いんだぞ、あれ…………」
師の腕を齧らせるほどお腹を空かせているのかもしれないと考えると、余計に涙が滲んだエンドウだった。
しみじみ頷き合う師弟を見ていた男達は、何だか切なくなった。
羽がある。異界からの召喚。神託に導かれて現れた、異界の救世主。世界を救う存在。
その人物は、彼らの前で、下っ端の悲しさと金欠に嘆いている。神託に導かれて現れた天界人が、ぐっと身近に感じられた。
哀愁漂う背中を見せていたエンドウは、何かを考え込み、何とも言えない曖昧な顔を上げた。
「あの、さっきから気になってたんですが」
「何でしょう」
むっつりとした口を僅かに開いて、低い声音でリンドウが答える。それにちょっとだけ怯みつつ、優先事項を口に出す。さっきから気になっていたのだが、どうも何かがおかしい。
「あまりに多くて逆に気の所為かと思ったんですが、さっきから凄まじく死人の気配がするんですが」
「それは、そうでしょう。いま死人との戦中で、ここは最前線です。そろそろ砦が破られそうで切羽詰まった結果、あなたを呼んだのですから」
あっさりと返されて、エンドウは頭を抱えた。項垂れていくエンドウを、可愛い弟子が必死に励ましてくれる。
「師匠、師匠、頭痛いんですか? 大丈夫ですよ、来月もきっと家賃払えますから!」
「ぐふぅ……」
足に抱きついている可愛い弟子が止めを刺してくれた。
とにかく上司に連絡を入れると断ったエンドウは、腕輪を数回指で叩く。すると、空中に楕円形の画面が現れた。おおっと上がった声を無視して、たんたんと指で腕輪の石を叩く。何かを打ち込んでいるわけではない。貧乏強請りみたいなものだ。
「早くー、エル管理官、早くしてー」
足に抱きついているスイレンを構うように足を振りながら上司の通信を待っていると、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「何事だ!」
リンドウの鋭い声に全員が振り返る。現れたのは槍を持った兵士だ。
「で、殿下! 門が、門が破られました!」
「くそっ!」
リンドウはマントを翻してエンドウに向き合った。
「あなたなら、あれを如何にか出来ますか!」
「出来ますけど許可がですね! っていうか、そんな切羽詰まる前に何とかしてくれませんか!? そしてそこまでの状況に陥ってるのなら、単体召喚じゃどうしようもないじゃないですか! 単体にしたって、もっと上の大天使とかにしてくださいよ! 自分は天使課に入れないような天界人なんですからね!」
「申し訳ありませんが、我々は巫女に告げられた託宣をそのまま行ったのです!」
「こっちの天使本当怠慢!」
通信画面は白いままだ。早く、早くしてくれエル管理官。早くしろ、爺! 腰が痛いとかいう言い訳は聞かない。だって、遠くで羊羹切る音を聞きつけて駆けつけられる爺なのだから。
「殿下、お逃げを!」
あちこちから伸ばされ、囲まれた手をリンドウは振り払う。
お逃げをお逃げを。たくさんの声に囲まれても、リンドウはその手を振り払っていた。そして、前に出て剣を抜くのだ。
周りの人々の悲鳴に似た嘆願で、彼が愛されているのがエンドウにも分かった。さっき喋ったばかりの人だが、周りの人間の嘆願に嘘偽りの色は見られない。寧ろ、自らを盾にしても彼を守ろうとする決意ばかりだ。
エンドウはこういう人達が嫌いじゃない。寧ろ好ましいと思う。好ましいのが、まずい。
逃げられないじゃないか。
「エル管理官エル管理官エル管理官!」
爪で貫かんばかりに腕輪を連打しても応答はない。
窓から下を覗きこむと、死人の群れが雪崩れ込んでいる。突いても切っても死なない死人を相手にするのは兵士には無理だ。何とか壊れた門を直そうとしている兵士もいるが、到底追いつくものじゃない。
「ああ、もぉおおお! 真っ平御免って言ってるじゃないですか――!」
がりがりと頭を掻きむしり、エンドウはスイレンの目を掌で覆った。見えなくなった眼は、きっとぱちくりしているのだろう。長い睫毛が掌を擽る。
「師匠?」
怒るなよと念じながら、怒るだろうなと胸中で苦笑する。弟子は師の手から力を感じて、覆われた目を見開いたらしい。長い睫毛が掌を擽った感触でそれが分かる。
「師匠!」
「元々ご指名は自分だからね」
弟子の髪が不自然な風によって翻ったのを、エンドウは自らの力で無理やり抑え込んだ。そのまま転送陣を組み立てる。封印の解かれていない状態ならば、天界人最低ランクの能力しかない自分でも抑え込める。
「お前には頼みがあるんだ、スイレン。エル管理官にこの事を伝えて指示を仰ぐのと、そっちからもこっちの天界に出動要請。後、もし万が一、神がこの事についてご存じでなかった場合、消滅させられないようご機嫌取っといてくれたら非常に嬉しい。…………出来れば、クビ回避もお願いします。ほんとお願いします。切実にお願いします。路頭に迷ったらお前は神の宮に返すからな!」
「嫌ですよ!」
「次代神候補をホームレスに出来るか!」
「師匠が宮に来てくれたらいいじゃないですか!」
「え!? 自分、クビ決定!?」
ショックを受けてよろめいた師を見上げながら、スイレンは小さな拳を握りしめた。
スイレンにだって分かっている。今の己では師の足を引っ張るだろう。この身は爆弾と同じだ。もしも師が傷つけられたら、スイレンは激情のままに封印を弾き飛ばす自信がある。そうしたら、こんな不安定で幼い世界、一溜りもない。
だが、スイレンにだって言い分がある。
急激に遠くなる師と、急速に近くなる神の気配に目を回しそうになりながら、スイレンは叫んだ。
「僕は師匠大好きです! でも、その、貧乏くじ引くなら自分だろうなぁって自然に受け入れるとこだけは、ぶん殴りたいくらい大嫌いです!」
「殴るなよ!?」
「無事じゃなかったら、殴りますからね!」
「結局殴るの!? 職を失った上に弟子に殴られるの!? お前、それあんまりじゃない!?」
「師匠の馬鹿! お人好し! 幸薄! 金欠!」
「ぐふぅ!」
あんまりだあんまりだと騒ぐ師から視線を外し、スイレンは小さな身体で声を張り上げた。
「人の子! わが師を煩わせたら承知しないからな! 万が一わが師を傷つけてみろ。次にこの世を襲うは、神の怒りぞ!」
「いま自分を傷つけてるのは確実におま」
「師匠、どうかご無事で!」
「一文字――!」
嘆く師の声を聞きながら、スイレンは元の世界に転送された。
弟子を送り出したのを確認するや否や、エンドウはストールを剥ぎ取って一振りした。すると、一枚だったストールは三分の一と二に分かれる。
「エンドウ殿!?」
驚く人々の切羽詰まった声に、エンドウはそれ以上に切羽詰まって叫び返す。
「リンドウ殿!」
「は!」
「自分はあなた方に手を貸します! ですから自分の指示には従ってくださいよ!? これは絶対条件です! 指示を守らない場合死んでも知りませんからね!? その場合は自力で昇ってください! 死人になったりして手間増やさないでくださいよ!?」
大きいほうのストールは更に大きくなっていく。驚くほどに巨大になった布は、エンドウの指が示すままに門に飛んでいき、押し合う兵士と死人の間を縫って広がったと思うと、ぴたりと門に張り付いた。
「この間に門を修繕! 他の人は全力で中に入った死人の動きを止めてください! 足飛ばすなり首飛ばすなり自己判断で宜しく!」
「で、ですが、それでは奴らは止まりません! どういう原理かは分かりませんが蘇るのです! 火で焼こうが、切り刻もうが、死人を殺せなかったのです!」
「そりゃ、死んでる奴は殺せませんよ!」
エンドウは窓から飛び出し、空中で羽を広げて制止した。一振りされたストールの残りは、一瞬で形を変える。これが天界人の武器だ。通常時はただの布だ。だが、これは持ち主の意思で何にでも姿を変える。時に幾人も包み込める強固な砦に、時に敵を切り裂く刃に。
今はエンドウの身体をも超える、大鎌だ。
「死神……」
どこからか上がった声に、エンドウはほくそ笑んだ。今時大鎌は古いかなと思い、ずっと違う型の武器を使ってきたけれど、威圧感を与えられたのなら僥倖だ。命を連れていく者だと死人が分かればいい。
にたりと笑い、ゆらゆらと大鎌を振り回す。そして、ぴたりと動きを止める。
次に一振りされたとき、鎌は小振りの剣になっていた。
「…………エンドウ殿?」
窓から顔を出したリンドウは胡乱な顔をしている。それに何とも言えない笑顔を返す。
「…………重かったですか」
「…………ご名答です」
やっぱり使い慣れない武器は駄目だ。
いつもの形に戻して、ちらりと腕輪に目線を戻す。駄目だ。反応がない。トイレか、トイレなのか、爺。
眼下では兵士と死人がぽかんとした顔でこちらを見ている。少し視線を遠くに向けると、どこか懐かしい景色が広がっている。広い野と、聳え立つ緑の山だ。しかし、そこに蠢く死人の数が尋常ではない。エンドウはうぐっと喉を鳴らした。なんだこれ、天界の職務怠慢にも程がある。もしかして、悪魔課総動員しないといけないレベルじゃなかろうか。
後ろを振り向けば、天に近づきすぎない建物が平らに、静かに広がっている。リンドウ達はこれを守るためにここにいるのだろうなと思うと、面倒な事は考えないよう後回しにして頑張ろうと思えてしまうのはやはりお人好しなのだろうか。だからって幸薄とはなんだ、幸薄とは。
それに、エンドウは好きなのだ。誰かと協力することが、誰かと共同して何かをすることが、輪に混ざれることが、とても、好きだった。だから断われなかったのは仕方がない。色々と面倒はあるけれど、リンドウ達と一緒に何かをすることに不満はなかった。
今頃、怒り狂いながら神を説得しているであろう弟子を思い出しながら、今度もみあげぐりぐりしてやろうと心に決めたエンドウだが、すぐにはっとなった。弟子を成敗するより早く、殴られるのは多分自分だと気づいたのだ。
灰色の二枚羽と武器を構えられた死人は、顔を真っ青にした。
彼らは自身が死者だと知っている。迎えに来た天使から逃げたのだから当然だ。だが、その後は特に追手が来ることもなく、夢の中で美しい天使がか細い声で『死を受け入れてください』と囁きかけてくるだけだった。だから安心していたのだ。誰も自分達を止められない。だって誰にも殺せないのだから、と。
死人達はどんどん増長した。最初は小さな悪事を働くだけだった。だが、段々と欲は膨らみ、誰にも殺されないのなら国だって乗っ取れると思い始めたのだ。
現にこれまではうまくいっていた。どれだけ剣の腕が立つ騎士でも、どれだけ怪力自慢の傭兵でも、死人を再び殺すことは叶わなかった。
そんな死人の前に現れたのは、夢に現れるか弱く全身が白い天使とは違う、灰色の羽と武器を持つ少年とも少女ともつかない何者かだ。
死人はもう動かない心臓が、どくどくと波打ったような気がした。
「お、お前は天使か。それとも」
「悪魔課です。これより貴方々は、天使課の管轄を外れ、悪魔課の管轄となりました。担当は自分、エンドウです。普段はここで帳簿と照らし合わせて、お名前と死亡理由、死亡時刻を読み上げるのが慣例ではありますが、今回は特例という事で省略させて頂きます」
一礼をして、それはにこりと笑う。その笑顔は、誰もが一度は目にした事があるものだった。
役所で書類を処理する事務員がしている、あれだ。
男はごくりと喉を鳴らした。
「以上、簡易ながら説明をさせて頂きました。これより、悪魔課業務開始します……」
しかし何故、業務用の笑顔を浮かべた羽のついた何かは、あんなにもしょんぼりしているのだろうか。
無賃かもしれなくて、それどころかクビになるかもしれなくて、それどころか存在消滅させられるかもしれない仕事……テンション下がる。消えずに帰れるのだろうか、これ。
しょんぼりと羽と肩を落としたエンドウに、リンドウ達はおろおろと従う。
「あ、あの、エンドウ殿」
「ああ……リンドウ殿。では、守りはお願いします……自分は魂を切り離すだけで精一杯ですので、動きを止める作業をお願いします。言っておきますが、自分、弱いので。天界人の中でも最弱の部類ですので。中に入った死人一掃したらしばらく休憩ですからね!? 絶対外の奴まで相手できませんからね!? どうにかしたいんなら、貴方々だけで拘束なりなんなりで頑張ってください。後、門はさっさと修理してください! あっちにまで力回す余裕はほんとないんです! 以上です!」
「エンドウ殿!」
「宜しくですよ――!」
エンドウは重力に従って落ちながら、ため息と一緒に剣を構えた。
結局戦闘は泥仕合だ。圧倒的な力で相手を薙ぎ倒す力量も潜在的な力も、エンドウにはない。これが高位の天使なら、ストールで国一つ包み込むくらい訳はない。指先一つでやってしまうだろう。
しかし、エンドウには門を覆うだけで精一杯なのである。
こんなに大量の死人を一度に相手にした事もないのだ。最終的には巨大トンカチを振り回してぶん殴っていた。扱いきれずに自分の足に落としたのは内緒だ。武器と切り離したストールの一部を防具に回していなかったら、粉砕されていたのはこっちだった。
だが、基本的に死人の足止めをするのはリンドウ達で、魂を切り離すのがエンドウの仕事だ。本当にこの世界の天使は働かない!
死人を殺す方法を得たリンドウ達は強かった。終わりの見えない戦闘によって削られた気力が見る見る復活して、今迄の鬱憤を晴らすといわんばかりに生き生きと死人の首と足を跳ねていく。ある意味恐ろしい光景だが、エンドウには何より頼もしい。
ずっと背を預けているリンドウは、中でも一際剣の腕が立つらしく、安心して魂剥ぎ取り作業に没頭できる。
「終わり! 次!」
「エンドウ殿、あちらに首なし十体!」
「早い! もうちょっとペース落としてくれて構わないんだけどね!?」
「申し訳ありませんが、あちらでも首が宙を飛びました!」
「ちくしょう、でかした!」
「はい!」
嬉しそうな笑顔にちょっと絆されそうになった。スイレンも褒めたらこんな笑顔を返してくれるのだ。でも、後で泣かれるのだろうか。それはそれでつらい。そして多分痛い。物理的にも精神的にも。
「金欠って悲しい……」
「俺の終わりをつれてきた奴がこれで、俺の方が悲しいわ……」
エンドウに伸し掛かられた恐らく二十代後半であろう男の死人は、観念したように力を抜いた。死人の足は二本とも斬られている。再生する前に魂を切り離してしまわなくてはならない。
力を纏って構えられた剣を見上げながら、男は肩を竦めた。
「なあ、あんたは天使か? それとも悪魔か? わかりづれぇ羽しやがって」
「悪魔課です」
「更にわかりづれぇ!」
「すみませんね、自分下っ端なので課の所属変更の権限はないんですよ」
素直に謝ると、男は一度瞬いた後、声を上げて笑った。
「て、天使も俺らみたいなこと言うな!」
「いや、自分ただの天界人なので。天使とか高貴な存在じゃないんですけど」
「庶民かよ! こいつはいいや!」
男はけらけら笑う。
エンドウの周りでは着々と次の死人が用意されていく。
「おい、庶民」
「何ですかね」
「仕えてた貴族に罪擦り付けられて殺された俺の終わりがあんたってのは、神様の計らいかい?」
面白そうに下から覗き込んでくる男に、エンドウはちょっと考えた。
「さあ、神様は案外見てないものですけどね。あの、自分忙しいんで、もう終わらせていいですか?」
首なし足なし死人がそこら中で這い回ってるのは、ちょっと精神衛生上宜しくない。天界人だろうがそこは一緒だと思う。
それに、感情移入もしたくないのである。
「俺は、終わるのが嫌で人間の枠組み外れちまったんだ。天使のあんたには分からないだろうけどさ、終わりに脅える人間の気持ちも汲んでくれよ」
つまりもう少し話していたいのだろう。
だが、エンドウは剣を振りかぶった。男も抵抗はしない。ただ、ちょっとだけ批難の色を浮かべた。
「自分も一応元人間なんですけどね」
男の目が見開かれる。
「終わらなかったっていうのは、それはそれで複雑ですよ」
驚く男に見上げられながら、エンドウは苦笑する。
「それでは、生を全うお疲れ様でした。願わくば、再びの邂逅がないことを」
そうして振り下ろされた刃によって、男の思考は完全に停止した。
「これで、最後!」
エンドウの掛け声と同時に、わっと歓声が上がった。
砦内に侵入していた死人、四二八人を、きっちり始末し終えた。切り離した魂は、エンドウの羽を一枚刺して天上に送っている。せめて出迎えくらいしろと怒鳴りたかったけれど、やはり天界の門はぴちりと閉じていた。
働け、天使。
おかげでエンドウの羽は剥げている。再生する力もない。最早精根尽き果てた。簡易とはいえ修繕が施された砦の門からはとっくにストールを回収している。そっちに回す力はとっくの昔に切れていた。
ぐったりと地面に俯せたまま倒れているエンドウの元に、慌ててリンドウが駆け寄ってくる。
「エンドウ殿!」
「平気……状況は?」
「一先ずは、何とか。ですが……その…………」
口籠る様子に、事情を察する。恐らく外にいる死人が勢いづいているのだろう。
いとも簡単に抱え上げられたエンドウは、羞恥を感じる余裕もない。指一本動かないのだ。そもそも、悪魔課の仕事は本来、月二、三人狩れたらいい方なのだ。
「門、どれくらい持ちそう?」
「恐らく一晩は大丈夫だと思うのですが、夜は、死人が活性化しますので……」
今にも寝てしまいそうな瞼をこじ開けて、空を見る。真っ赤だ。夕焼けが終われば夜が来る。
「門がまずくなったら起こし」
最後まで言えずに吐血した。おい、自分、後一文字。
「エンドウ殿!」
真っ青になったリンドウに苦笑を返す。なんだか反応がスイレンに似ている。
「大丈夫。力が空になっただけだから」
だからちょっと寝る。そう続けたかったが、リンドウがあまりに思いつめた顔をしていたので言えなくなった。
「本当に……申し訳ございません!」
苦渋に満ちた顔で、地面につきそうなほど頭を下げる様子を見て、いつのまにか兵士達も同じ体勢を取っていた。その中にはウズミもいた。最初に悪魔と間違えて切っ先を向けていた時とは、エンドウを見る目が変わっている。
「我々の事情をあなたに押し付け、その犠牲を強いました! 私は、救世主であるあなたが死ぬかもしれないことを、神託により存じ上げていたにも拘らず、あなたに、それを伝えず、あまつさえそれで世界が救われるなら小さな犠牲だとさえ思っていました!」
最早完全に地面に額をつけているリンドウを止める者は誰もいない。それどころか彼よりも深く頭を下げようとしているかのように、額が地面を掘っている。
「力を使い果たしたあなたは元の世界に戻ることも出来ない。迎えが来るまでここにいるしかないのだと、知っていながら、それを望みました!」
「はあ、まあ、そうでしょうね」
エンドウの気の抜けた声に、土のついた額が揃ってがばりと跳ね起きた。そんなに驚かれると思わず、エンドウも驚いてしまう。
「いや、自分の力の残量くらい分かってますよ。寧ろ自分より分かられていたら、それはそれで問題で」
「知っていて、何故!」
「一文字! ……いや、まあ、元々人間だった誼、ですかね? そうまでして呼ばれたのがこれで逆にすみませんね。大天使とかなら、外に群がる死人も一撃だったんですがね」
一文字の悲しみを背負いながら、エンドウはぱたぱたと手を前後に降った。
「はい、散った散った。こんなことしてる暇があるなら、各自持ち場に戻るなり、門の補強継ぎ足すなり、体力補給で寝るなり、やることやってください。自分も寝ますから。人生最後かもしれない夜を自分なりに全うしてお過ごしください! 自分は死人の動向も分かりやすいここで寝ます! それじゃ、良い夜を! おやすみなさい!」
片手をびしりと立て、エンドウは地面に寝転がった。
「エンドウ殿!? すぐに寝所をご用意いたしますのでどうぞそちらを!」
禿げた羽はしまって、大きくする力もないストールで包みきれない身体を曲げて本当に眠りについたエンドウに、リンドウ達はぽかんと取り残された。
「ど、どう致します?」
恐る恐る訪ねてきたウズミに、リンドウも困った顔で答えた。ただ疲れているだけなら部屋まで連れるべきなのだろうが、死人の見張りも兼ねていると言われると下手に場所を移すこともできない。
「ひとまず、寝具だけでも用意を」
「はっ!」
何人かが走り出していく様を見て、いったい何枚持ってくるのやらと思ったが止めるつもりもない。どうせ彼が死ねば必要のなくなる物だ。今現在、彼の死は砦全て、引いては国の、世界の終わりすら意味していた。
疲労濃い顔で、深く眠りにつくエンドウの顔の汚れを拭ってやる。
「不思議な、御方だ……」
天界人とは、人間とは違う存在だと思っていた。人間とは根本からして異なる存在だと。神々しく、自分達とは感性も考え方も全てが異なるのだと。現にこの世界の天界人はそうだ。人間がどれだけ懇願しようが決して姿を現さず、最早後がない状況になって初めて声だけを降らせた。
しかし、エンドウは一風変わった人間、としか思えなかった。異界の天界人とはそういうものなのか、それとも人間だったというエンドウが変わっているのか。
眠る姿を、無礼と知りつつまじまじと眺める。年の頃は十代半ばだろう。異国の顔だちをしている。
そこまで考えて、リンドウは苦笑した。異国も何も、彼は異世界の人である。見た目通りの年齢とも限らない。
リンドウは自分のマントを地面に敷き、その上にエンドウの身体を乗せた。抱き上げても目を覚まさない様子に、罪悪感が募っていく。何て勝手なのだろう。死人が増えている間は、何もしてくれない天に憤った。神託を受けた時は、その救世主が夢のように全て解決してくれるのだと縋った。エンドウが目に見えて消耗していく間は、死にたくなるほど申し訳なかった。
今でも、その罪悪感は募るばかりだ。
死を覚悟してから、現在まで続いている時間は夢にも思える。エンドウを召喚してからずっと死に物狂いで戦っていたからか、どうしてだか現実味がない。
リンドウはぼんやりと夜空を見上げた。王族が城に閉じこもっていては、最終防衛線を守る砦の騎士達に申し訳がないと、家族の心配を振り切ってここにきて早半年。
沈痛な面持ちで見送る国王である父、王妃である母、二人の兄、一人の弟。泣く乳母や侍女達に、恐ろしい形相で歯を食い縛っている大臣達。出陣するときは厩番まで口惜しいと泣いてくれた。自分も行くと言ってくれた。
リンドウはこの国を愛している。この国を、家族を、人間の愚かしさごと愛していた。
それらを失うなど許せるはずもない。行軍が死への旅路だとしても構わなかった。誇らしささえ感じた。
今は遠い彼の地へ、この不浄を持ち込ませないためなら何でもできると思い、そうしてきたのに。
今になって痛み、許しを請おうとする己の何と矮小な事か。
「う……ん……ひとも、じ…………」
寝言を言って寝返りを打ったエンドウに苦笑して、襟元を緩ませてやる。このままでは寝苦しいだろう。
襟元を外していると、その下の留め具が壊れていることに気が付いた。恐らく戦闘中に掴まれたのだろう。いっそ上着を脱がせた方がいいかと、己の肩に顎を乗せて支えながら抱き起し、腕を引き抜かせていたリンドウは、ぴたりと動きを止めた。
そして、その身体を物凄い速さで引き剥がした。
流石にうっすらと目を覚ましたエンドウが見たのは、燃えるような夕焼け、ではなく、暗闇でも分かるほど真っ赤になったリンドウだった。
「も、も、申し訳ありませんでした! 寝苦しいかと! 本当に、他意は、他意はなくですね!」
エンドウは、ぼーっとした緩慢な造作で、半分脱げたままの上着とリンドウの顔を交互に見た。
「エ、エンドウ殿は、じょ、女性、だったのですか?」
ああ、と、合点がいったエンドウはいそいそと眠る体勢に戻った。
「なんか……そんな感じですね……うん…………」
「そんな感じって、どんなっ!」
何かを言うべきなのに何も思い浮かばず、おろおろと両手を彷徨わせるリンドウを見もせず、エンドウはぼやけた声を出した。
「まあ……人間だったのは、男女関係ないくらいまでだったので…………気に、しなくて……いい…………で……」
「男女関係ないって、子ども……………………寝てる」
寝苦しさが軽減されたからだろうか。心なしかさっきより平和な寝顔を浮かべているように見える。
「リンドウ様、掛け布をお持ち致しました…………リンドウ様!?」
用意された掛け布を届けに来たウズミは、親の敵と言わんばかりの形相で掛け布を奪い取った挙句、エンドウが埋まるように積み上げてしまったリンドウに驚愕した。
だが、年若い主が耳まで赤くしていることに言及していいものかどうかに気を取られ、結局エンドウが掛け布の山から救出されることはなかった。
夜明けも間近、空が薄紫色に染まり始めた頃、エンドウは目を覚ました。
羽も出して思いっきり伸びをする。振り返って羽の確認をすると、一応一通り生え揃って安心した。禿げた羽は、どうしたって毟られて血抜きされていた鶏を思い出す。自分の羽ながら可哀相になる。
首を捻って確認していると、一部は剥げたままだった。切ない。
「エンドウ殿、お加減は如何です…………か」
「ああ、リンドウ殿。だいぶ回復……どうしたんですかね?」
「いえ、どうぞお気になさらず。ですが、出来ましたら衣服を正して頂けると大変助かります」
きっぱりと言われてそれ以上言及できなかったけれど、物凄く顔が赤いのは何故なのか。
とりあえず寝乱れた服の留め具を止めて、ベルトも締める。
「死人は?」
「一晩中門をこじ開けようとしていたようですが、エンドウ殿のストールのおかげで邪魔をされず補強出来ていたので、何とか」
「それはよかった。しかし、寝なくていいのはずるいですよね」
「全くです」
手渡されたのは、温かいスープとしっかりと焼きあげられたパンだった。パンを浸して食べると物凄く美味しい。
「お口に合いますか?」
「大変美味しいですね」
目に見えてほっとした顔をされた。リンドウは王族だそうだが、こんなに表情が出て大丈夫なのかと心配になる。まあきっと、余計なお世話だろうが。
「良かった。エンドウ殿が普段何を食されているのか見当もつきませんでしたので、食事当番も一晩中悩んでいました。結局いつもと同じ物になったようですが」
「いやいやいや、寝てくださいよ。何、最後になるかもしれない夜を食事メニュー悩んで終わらせてるんですかね」
「私達が守りたいのはこうした日々ですので、最後まで手放さずにいきたいじゃないですか」
当たり前みたいに返されると、それもそうかと納得してしまった。
二人で樽の上に座って朝食をとる。王族なのにいいのかと問えば、今日ばかりはウズミもうるさく言いませんよと苦笑された。確かに、少し離れた場所でウズミも同じように朝食を取っている。
朝らしく、涼しい風が草と土の臭いを運んで流れていく中で取る食事は、無性に美味しくて困る。スイレンにも食べさせてやりたいけれど、悲しいことに神の宮に戻っている今のほうが美味しいもの食べてるんだろうなと思うとちょっと羨ましい。
「エンドウ殿は、人間だったのですか?」
「そうですね。天界人の感覚で言えば最近ですが、人間の感覚で言えば随分昔ですよ」
「昔というと?」
「四百年くらい前ですかね」
「よっ……!」
言葉を失くしたリンドウは、そういえば幾つなんだろう。気になったので聞いてみた。今聞いとかないと、次はない可能性がある。
「リンドウ殿は?」
「私は十五です」
「じゅっ……!」
エンドウは思わず咽た。物凄くお若くいらっしゃった。
「そういえば、エンドウ殿の弟子様はお幾つなのですか?」
「スイレンですか? スイレンは五ヶ月ですね」
「ごっ……!?」
今度はリンドウが咽た。
「そ、それは、私達人間とは時の流れが違うという……?」
「いやいやいや、スイレンは存在して半年未満の赤子ですね。……あれ? あ、まずい」
すっかり忘れていたことを思い出して、さぁっと背筋が冷える。やってしまった。
「だ、大丈夫ですか!? お加減が!? 医師を、誰か、医師を!」
冷えた背筋と同じくらいの勢いで青褪めたリンドウを慌てて制する。
「違う! 違いますって! ちょっとスイレンの生誕半年祝いを忘れてただけです! 今日なんですよ――! うあ――……やっちゃった」
弁明するなら、プレゼントはちゃんと用意してある。覚えてはいた。こっちの世界に召喚される瞬間までは。
「駄目だ……こりゃ怒るわ…………」
自分の初めての生誕記念日を目前にして、神様にゴマ擦っといてと追い出されたら激怒もしよう。これは殴られても仕方ないかもしれない。何故なら、本当ならば宮で神聖かつ盛大に行われる予定だった生誕記念日を『僕は師匠と二人がいいんです!』と押し切った弟子だ。
がっくりと項垂れたエンドウを、リンドウが必死に慰めようとするが、慰める言葉が浮かばないのか、結局おろおろと両手を彷徨わせるだけだった。
「お、お弟子様と本当に仲がよろしいのですね!」
「スイレンは、本来なら創世記くらいからいる古参の天使と師弟になって、蝶よ花よの穢れ知らずに、すくすく二、三千年くらい神の宮で大切に愛でられているはずなんですが、何を間違ったか自分の弟子なんですよねぇ……。次代神候補って言われているんですけど、家賃と雨漏りの心配ばかりさせて……いいのかな、あれ」
何で自分を選んだのか何遍聞いても『師匠じゃなきゃ嫌です!』と、ぷくぅと頬を膨らませるだけだ。本当にあの弟子は……。
エンドウはふっと笑った。
「人の話を聞かないっ……! っていうか答えになってない!」
だんっと両拳を壁に打ち付けて項垂れていると、おろおろとした声が宥めようとしてくれる。
「ま、まあ落ち着いてください。そ、そうだ! あの、エンドウ殿はどうして天界人になられたのですか? 人間だった頃はどのような」
その問いにエンドウは顔を上げた。
「なったというか、なっていたというか……」
そして、しばしの無言が訪れる。
聞いてはいけないことを聞いてしまったのかと、リンドウはごくりとつばを飲み込んだ。それに気づいたエンドウは、ひらひらと片手を振って否定する。
「ああ、いやいや別に、極秘事項とか禁則事項じゃないんでいいんですけど……そうですねぇ。えーと、集落の近くに川があって、下るとまた集落があって、更に下ると海になりましたね。あ、そこには漁村がありましたよ!」
「…………問うてはならない事柄だったのならば、そう言って頂いた方が傷つきません」
「え!? 傷つけた!? なんで!?」
どんどん項垂れていくリンドウに、エンドウはぎょっとした。慌てて弁明しようとおろおろ両手を彷徨わせる。さっきと立場が逆転した。
「いや、別に喋ったら減給とかじゃないですよ!? 自分、正直それしか知らないだけで、どんどん聞いてもらって大丈夫ですからね!? 自分、雨がやまないからと生贄にされて川に放り込まれて、下流の集落に拾われて、半年後そこでも雨がやまないからと生贄で流されて、漁村に拾われて、今度は雨が降らないからと海に流されたわけで、それしか知らないだけです! 天界人になるまで文字も読めない書けない、自分の事を死にぞこないと名乗るような残念……じゃなかった、子どもでしてね!? 言うならば、神様から二回も返品されたわけでしてね!? 三回目は受け取って頂いたわけですが、本当に詳しく話せるほど知ってることがないだけで、リンドウ殿がしょんぼりされる理由なんてありませ」
「申し訳ありません!」
ん――!
一文字の悲劇に嘆いていると、真っ青な顔で謝られた。今にも泣きだしそうな顔をしたリンドウに、何かまずいことを言ったかと思い返すも心当たりがない。
「私は、何と話しづらいことを聞いてしまったのかっ……!」
「え? 神がよそ見している間に三回生贄にされたどこに話しづらい要素が! 後で聞いたんですが、神はちょっと太ったことを気にされて、ストレッチ中だったそうです。人間時間の、おそらく五年程度なんて、神からしたら瞬き程の時間ですし、汗かいてたら気づきませんよね! いやぁ、運命ってしょっぱいですね!」
汗だけに!
知り合いの間で定番のネタを披露したら泣かれてしまった。
子どもを泣かせてしまった罪悪感が凄い。どうしようと焦っていたら、見張りの兵士が金切声をあげた。
「死人の数が!」
それだけで事態を察し、羽ばたいて急上昇する。ちょっと風切羽が足りない所為でよろめいたが気にする余裕はない。
「わお」
明るくなり、日が広がる視界中を照らし始めてようやく、死人の増員が半端じゃない。地上を埋め尽くす死人が静まり返っていることで分かる。これは駄目だ。諦めるなとか頑張れば何とか、なんて気休めにもならない。気合を入れるための怒声すらないのだ。勝利を確信しているからこそ、士気を上げるための声は必要ないのだろう。
エンドウはぽりぽりと頬を掻いて、地上にいるリンドウに視線を向けた。まだ幼さを残した顔は強張った後、どこか達観した笑みを浮かべた。それは諦めだろう。そして、やるべきことはやりきった人間の顔でもあった。
十五歳。短いと大半の人間は言うだろう。エンドウも、最近ではそう思うようになった。
四歳だか五歳だか六歳だかで、たぶんそのどこか辺りで死んだ自分に同情されるのも複雑だろうが、可哀相だなとも思う。
彼だけじゃない。彼に付き従う面々も、精悍な顔で風を受けている。ああ、なんて哀れだ。哀れで、美しい。そして、少し、羨ましい。
人との縁をついぞ持つことはなかった自分には、なんて眩しいのだろう。
既に人としての生を終えた自分だからこそ、今現在、まだ人である彼らを守ってやれればどれだけよかっただろう。そうできたのなら、終わりを迎えることのなかった理由を見つけられたのに。
二度の返品を得て、三度目でようやく神の元に献上が叶った。しかし、そこにあったのは終わりではなく、されど始まりでもなく。自分の延長の先に、終われなかった理由があるのだと思っていた。
「リンドウ殿」
「はい」
静かな笑顔が返る。
「生を全う、お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
応える声も静かだ。
「きっと私は、あなたに謝罪すべきです。ですが私は、あなたに礼を申し上げたいのです。最後に、あなたにお会いできてよかった」
「そうですか。それはよかっ」
最後の一言を言う前に、目を貫くほど眩い光が天から溢れだした。
「まぶし」
「師匠――!」
穏やかな笑顔で終焉を受け入れた最後の挨拶は、天から降り注ぐ鋭い光と、満面の笑顔の弟子に遮られる。ついでに、眩しいの最後の一文字すら遮られた。悲しい。
ざっくりと魂を切り離したエンドウは、拭う前に口に流れてきた汗に眉を顰めた。
「あ――……しょっぱい……」
この世界の天使達を引き連れたスイレンの援軍が来て尚、何故かエンドウは仕事続行中である。
天使達は、やり慣れていないので魂に傷をつけるかもしれない、そんな無様な失態を敬愛する神に見られたら自害する。後、穢れた魂に触るの嫌、ばっちいと歌うように揺れているだけだ。リンドウ達が地面に叩きつけた死人の魂をスイレンが切り離そうとするのさえ止めていた。この世界はまだ生まれて日が浅い。とうの昔に創世記を終えたエンドウ達の世界の神の神子であるスイレンは、この世界の天使よりもよほど格が高い。
天使達は歌うようにスイレンの周りを飛ぶ。
神子がそのような事を為さらずとも、お手が汚れます、神子よ。そのような穢れに近づいてはなりません。
そのような些事、あの者を使えばよいのです。
流石創世記の天使達。
エンドウはまた一人の魂を切り離しながら嘆息した。
天界人などおらず、天に存在する唯一にして絶対の神の使徒。天と地に絶対の格差を齎し、またそれによって世界を確立せんとする。
それは別にいい。それぞれの世界の在り方だ。地上に生きる人間がそれに不満を抱き反旗を翻し、結果天が堕ちた世界だってあるが、エンドウが口を出すべき問題ではない。
だからそれはいいのだが。
恐らく聞こえていたのだろう。リンドウの何か言いたげな視線を背に受けながら、ぶちりとちょっと雑に魂を引きちぎる。そして、ぶるぶると全身を震わせている弟子を宥めようと口を開く。
「スイレン、落ち着」
「わが師を侮辱するならば、このスイレンを敵とすると思えっ!」
「このくそ忙しい時に内輪揉めするな! 後、お前らは最後の言葉に恨みでもあるのか、このやろう――!」
封印をぶち破らんばかりに激昂した弟子を止めにエンドウは飛び出していく。
異界の天使よ。働かないなら働かないでもういいから、せめて邪魔だけはしないでくれませんかね。雲海を眺めつつお茶でも啜っててください。お願いだから!
エンドウは手早くおんぶ紐に変えたストールでスイレンを背に縛り付け、やけくそに大鎌を振るう。重くて一撃しか使えなかったが。
無言で目の前の死人を蹴り倒したリンドウの目は、絶対に呆れていた。彼が蹴り倒した死人から魂を剥ぎ取っている間に、次の死人が蹴り倒される。その死人の魂の切り離しにかかっていると、目の前で腕を振りかぶった死人が消えた。
「ど、どうも」
どうやらリンドウがその首を切り飛ばしたらしい。
「我々があなたを守ります。どうか、あなたはあなたの仕事に集中を!」
気がつけば周り中人間が溢れていた。ずっと一人で死人を追っていたし、スイレンが弟子になってようやく二人組に慣れてきたところだったエンドウには、ちょっと気恥ずかしい。けれど、何だか悪い気はしない。
「あ、まずい。ちょっと楽しいかも」
「僕が……僕が師匠を守ろうとしてたのに…………」
背中から、いつの間にか連弩を構えたスイレンの恨みがましい声が聞こえたが、とりあえず作業に没頭する。おんぶされたまま、天使達に激昂するスイレンの声に、天使達も渋々と言った動きで戦線に加わった。
最後の死人から魂を切り離したエンドウは、地面に剣を突き刺し、どっかりと腰を落とした。羽は土埃と血で汚れて、最初に見た時と比べると位置が低い。高さを保つ気力もないのだ。
荒い息を吐いて剣を支えに息を整える。羽が重い。羽を背負って久しいはずなのに、今は疎ましく感じるほどだ。ただのストールに戻った黒い布を首に巻き直し、再度深く大きな息を吐いた。
ぶすっとしたスイレンも同じように武器からストールへと形を戻す。ちなみに、この黒い物体は色も形も好きにできるので、自分が扱いやすい形にすればいいのに、スイレンは師と同じ色と形を好んで使っている。
いっそこのまま眠ってしまいたいと項垂れた視界に、白と金の靴が入った。ほんの僅かの汚れも傷もない、美しい靴だ。
視線を上げると、靴と同じくらい美しい服と髪と顔が見える。ただし、その瞳だけが汚らわしいものを見るかのようだ。
「此度の公務、ご苦労であった」
「偉そうな態度ご苦労さんですね」
疲れているので喧嘩など買いたくないが、ここでエンドウが買っておかないとスイレンが言い値で買ってしまうだろう。現に、幼子の額に似つかわしくない青筋が。
細い眉がぴくりと動いたのを確認して立ち上がる。
「労うならちゃんと労ってください。ただし、人間には謝罪してくださいよ。これは貴方方の不手際です。神託を下すのも遅い。魂の循環は天界の務めでしょう。人間に天界の尻拭いをさせておいて、ふんぞり返るだけでは天の威光を守れませんよ」
見る見る間に、目の前の天使の顔に憤怒が現れていく。美の象徴のような顔が、こうも一瞬で様変わりしていくのもある意味芸術だ。美人は怒っても美人だけれど、迫力も凄い。
そして、天使は雷のような怒声を上げる。
「誰に向かって口を利いている、人間が!」
「人間じゃなくなって四百年は過ぎてま」
「貴様こそ、僕の前でわが師に無礼な口を叩いて、生きて帰れると思っているのか無能者がっ!」
「一文字――!」
最後の一文字の無念をどう晴らせばいい。エンドウは夢破れた戦士のように地面に頽れた。
みんな忙しそうだ。
エンドウは樽の上に腰掛けて、借りたペンと紙で報告書を書いている。隣では指示を出しつつ、同じように報告書を書いているリンドウがいた。何故執務室に行かないかというと、ここが便利なのだ。何せ、リンドウは次から次へと指示を仰ぎにくる部下達の相手をせねばならず、リンドウはその者達への指示の為エンドウに聞かなければならないことが多いからだ。
もうこのまま眠ってしまいたいと思っていたエンドウは、エル管理官に連絡を入れた際に報告書の締め切りは今日中にとウインク付きで言い渡されている。髭を毟り取ってやると決意しつつ、逆らえないのが悲しい天畜である。お給料減らされたら来月ピンチである。既に今月もピンチだが。
なので、エンドウは特に文句なくリンドウに付き合って隣にいる。腕の中で眠るスイレンを抱えて書きづらいけれど、おんぶはプライドが傷ついたらしい。
国に攻め入ろうとしていた死人の集団は殲滅したものの、この騒動に関わらず様子見をしている死人はまだ沢山いるだろう。人間に交じって生活しているそれらも、いずれ狩る必要がある。
この世界の天使は、これから頑張って働いてほしいものだ。
そんなことをぼんやり考えながら、せっせと動き回っている人々を見つめる。そろそろ日が落ち始めた砦内には、若手が忙しくなく灯りをつけていく。一つ、一つ闇が落ちる度に、一つ、一つオレンジ色の火が闇を照らす。
木が燃える懐かしい匂いだ。エンドウのいる世界では、天界では火を使われず各々の力で灯す。地上では電気が普及しているので、最早嗅ぐことも少なくなった。
ずり下がっていくスイレンをよいしょと抱き直して、ちらりとリンドウの様子を窺う。さっきまで難しい顔をしていたけれど、今はすらすら筆を進めている。今ならいいだろう。
「リンドウ殿、ちょっといいですか?」
「はい?」
リンドウはそれまで見ていた書類を置き、身体ごとエンドウと向き合う。真面目だ。対するエンドウは、がりがり頭を掻いて報告書を見つめていた。
「あのですね、一応、人間達への賠償という形を取るように要望出しときたいんですけど、何かありますかね? 今の所、これから百年くらいの豊穣と、大災害無しくらいは入れとくつもりなんですけど、人間代表の望みも入れときたいんですよね。ここで人間の立場を上げとかないと、ちょっとここの天界ふんぞり返りすぎなんで、元人間としては思うところありますし。何かあったら遠慮なく言ってください」
「それは……今でないといけませんか?」
「いえいえ、天への貸しという形にして、あなたが死ぬまでに決めたらいいようにしときますんで、時間はたっぷりです」
あっさり言うには規模が違う提案に、リンドウはどう返せばいいのか分からず、はあ、と曖昧な返事しか返せなかった。
「じゃあ、そういうわけで、後のことは後任が来ますんで。どうやらこっちの世界からちょっと手が入るそうで、これからはここまで人間任せにされることはないと思うんで、安心してください」
「はい」
持ち帰る書類を纏め、大あくびをしたエンドウの見送りには、忙しいだろうに砦中の人間が集まった。天使達もスイレンとの別れを惜しんでいるが、羽を大きく広げて威嚇している子どもに近寄れないでいる。書類の確認を取ろうとしたエンドウを無視した上に、引きとめようと伸ばされた手を汚らわしいと弾いたのが止めだった。
広げられた羽に視界を遮られつつ、身体を斜めにしたエンドウはリンドウと握手をする。
「本当に、何とお礼を言えばよいのか……」
「ああ、まあ、こちらこそ、なんか珍しい経験をさせてもらえて光栄です。後、人間の仲間に入れてもらえて、楽しかったです」
人間として生きている間は、終ぞ叶わなかった事が四百年も経った後、まさか異界で叶うとは思わなかったとエンドウは苦笑した。
「あなたと会えて、よかった。エンドウ殿、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。もうお会いすることはないのが残念ですが、生きた人間は天界人に関わるべきではないので、これが本来の形ですしね」
握ったままだった手を引こうとしたが、指先が絡まってお互いに苦笑する。もう少し話していたかったと思うのは、エンドウの人間に対する未練なのか。リンドウの天界人に対する憧憬なのか。
それでも、二人の指は離れた。
「それじゃ、どうかお元気」
「最後の最後までわが師を侮辱するか! その羽引き千切ってくれる!」
名残惜しくも、この一瞬の邂逅に感謝すべきだと笑顔を浮かべたエンドウの言葉は、やっぱり一悶着あったらしい弟子の怒声に掻き消された。
「最後の最後まで自分の一言遮るんだね、お前は!」
「だってあいつが! 師匠の羽は鼠より薄汚いって! お風呂代ケチらない時はそんなに汚くないのに!」
「つまり、ケチってる時は鼠より汚いんだね! ごめんね貧乏で!」
「僕はどんな師匠でも大好きです!」
「そいつはどうも! あ、リンドウ殿、さようなら!」
突然ふられたリンドウは、慌てて返事を返す。
「あ、はい!」
さっきまで別れを惜しんでいたエンドウは、暴れる弟子を抱きかかえたままあたふたと世界に帰還した。
万感の思いを最後の言葉に籠めようとしたリンドウは、自分が言えた言葉が「あ、はい」だけだったことに呆然として、しばらく二人が消えた場所を眺めていたが、すぐに噴き出して笑い始める。ウズミも、他の兵士達もそれにつられて笑う。
天使達はいつの間にか姿を消していたが、砦にはしばらく、笑い声と鼻をすする音が止むことはなかった。
朝一番で欠伸をしたエンドウは、スイレンが入れてくれたお茶を啜って一息つく。
「おはようございます、師匠! 僕、今日で生誕一年です!」
「そうですね、おめでとう。プレゼントはベッドでいい? 今から買いに行くよ」
今日この日の為に、コツコツコツコツ、稼いで貯めておいたのだ。半年前の騒動で出た特別手当は、何故かあの後相次いで壊れた日用品の買い替えに消えたのである。悲しい。せめて相談して壊れてほしかった。どうしてみんな同じ時期に壊れるのか。それはね、同じ時期に買ったからです。
背伸びをして着替え始めたエンドウの背中に飛びついたスイレンは、嬉しそうに笑った。
「嫌です!」
「即答! お前、最近毎晩自分をベッドから蹴り落としてるって知ってる!?」
「それとこれとは話が別です!」
「同じです!」
「違います!」
こうもきっぱり断言されると、間違っているのは自分だろうかという気になってくる。
どうしたものかと思案していると、壁にかかっているコート越しに何かが点滅している。壁に埋め込まれている通信石だ。
「あれ? 珍しい」
応対しようとしたスイレンを、自分の方が近いからとエンドウが請け負う。指で石をとんっと叩くと、楕円系の光が宙に浮かぶ。
「はいはい、なんですかね」
『遅いわ! バカモンが!』
「最短距離っす」
『わしは寂しいと死んじゃう系爺なんじゃぞ!?』
「ドン引きです」
画面から乗り出してきそうな迫力を醸し出すのは、老齢に差し掛かった男だ。白く長い髪と同じような髭。引っ張りたい、三つ編みしたいと思うのはエンドウだけではないはずだ。やらないけど。
だって、相手は上司なのだ。
やりはしないけれど、敬い方を知っているほど上品な育ちではない。がりがりと頭を掻きながら、エンドウは一つ大きな欠伸をした。
「昨日の狩りの報告書は明日出しに行きますって」
『駄目じゃ駄目じゃ駄目じゃ』
三回言われた。
「今日はスイレンの誕生日プレゼント買いにですね」
『おや? ここにあるのはボーナスの』
これ見よがしにひらひらと揺らめく封筒。なんだそれ。金か? 金なのか? 出来高制の悪魔課だけれど、ボーナスだって出るよ! ブラックじゃないもん! という上層部の方針で、年二回の待望のボーナス。それは悪魔課職員全員が貰う権利を有している。それを盾に職員を脅すなんて、今すぐ監察に怒鳴り込んでやる。
勢い込んだエンドウの身体は前のめりになり、ぴたりと止まる。口から滑り出たのは、ああ悲しきかな公務員。上司にやれと言われたら、イエスしかないのがああ悲しきかな社会人。
「ただちに向かいます」
大人になるってつらい。社会人として慣れてきた日々でも、こういうしょっぱさを感じる機会は日に日に増していくばかりである。
「今日一日僕と遊んでくれるって言ったのに、師匠の嘘つき――!」
ぽかすか腰を殴ってくるスイレンに泣かれた。大人ってつらい。
天使課に比べれば質素で事務的な、一介の悪魔課職員の事務所と言われても不思議ではないここが、悪魔課の本部だ。そろそろ建て直し希望な建物に入り、通されるまま第二会議室に足を踏み入れ――……ようとして、扉を閉めた。中から、「一人にしないで! わし寂しい!」と、全然嬉しくない甘えた声が聞こえてくる。信じたくないが、あれがエンドウの上司だ。
上司の言には逆らえない。エンドウは渋々扉を開けた。
「エル管理官、これなんですかね」
「見て分かるじゃろう。浮いておるんじゃよ」
「ですよねー」
ぷかぷかり、爺たゆたう、会議室。
視界の右から左に向けて、白髭を靡かせて流れていく爺さんを見ていても、ちっとも嬉しくない。
「誰が得するんですか、たゆたう爺とか!」
「今時は爺萌とかいうジャンルもあるそうじゃぞ!」
「それは、自分にも爺萌属性つけろとかいう残虐非道極まりないパワハラですかね」
幾ら天界といえども宇宙ではないのだ。重力はちゃんと仕事をしている、はずなのに、会議室の中は散々な有り様だ。椅子も机もホワイトボードも爺も、皆一様に宙を泳いでいる。勿論、足を踏み入れてしまったエンドウ自身もだ。
ふわふわ揺れる真っ白い爺の髪と髭を見ていて何が楽しいのだろう。そしていい加減これはどういう事だ。
「よっと」
壁に手をつき、くるりと身体を反転させてバランスを取る。天井に座り込むようにバランスを取り、部屋全体を見回した。部屋中の重力がニートになったらしく、重力が仕事しなくなった部屋は続き部屋で、まだ奥がある。
奥の扉がゆっくり開いていく。そこにいる人物を見て、エンドウの目が大きく見開かれる。
「…………ねえ、爺さん」
「管理官と呼ばんか管理官と」
「爺管理官」
「まるで爺を管理しとるみたいになっとる! 大変遺憾じゃ!」
たゆたって流れていく爺を見ても何の得にもならないが、エンドウは視線を上司に戻す。
「……爺さん」
「管理官と呼ばんと返事してあげんもん!」
「管理官爺」
「それじゃまるでわしが爺みたいじゃ! あ! わし爺じゃった!」
「爺だよ!」
思わず上司の胸倉を掴んでしまったエンドウの手を、ふわりと飛んできた彼が取る。
「お久しぶりです、エンドウ殿!」
懐かしい紫色の髪に、柔らかい笑顔。少しだけ記憶から遠ざかった声。エンドウは思わず咽た。
「ほ、本当にリンドウ殿ですか!? 何やってんですか!?」
「老衰したので、最期に貴方に会いたいと神に願い出たら魂を引き剥がされてこちらの世界に放り出されたところを、こちらの神に拾って頂きました」
「あっちの神様ほんと怠慢!」
こっちの世界に丸投げだ!
赤色の羽を揺らすリンドウは、恐らくまだ力を加減できないのだろう。部屋中の重力を奪い取った少年は、エンドウの身体をくるりと回して自分の前に向けた。
「ちょ、これ、いいんですかね!?」
「はい。私はリンドウとしてすべきことをし終えて、人間として生も終えましたし。特に問題はありません」
生まれ育った世界からはじき出されたというのに、彼は神を恨みもしないらしい。懐かしい笑顔で、にこりと笑った。
あの時より長くなった朝焼けのような紫色の髪が、ふわりとエンドウの鼻をくすぐっていく。
「ふ、ふ、ふえくっしょおおおぉぉぉぉぃ…………」
おおぉぃ、おおぉぃ、おおぉぃ………………。
別段広くもない部屋の隅々まで、エンドウの盛大なくしゃみは響き渡った。