はるまち
小説を書き始めて間もないころに執筆したものです。
申し訳ないくらい「句読点」がくどいです。ご容赦ください。
教室に戻ると、彼女は、ほんのすこし、前のめりになって、空を見上げていた。
ひどく熱心に、そして、不安げに、何度も何度も、瞬きする。ちょうど目蓋にかかる長さの前髪が、瞬きのたびに揺れていた。
彼女を夢中にさせているものは、夕闇に紛れて、細々とその姿を垣間見せている。
「――あ。雪だ」
十二月の空は、ぶ厚い雲に覆われ、その合間からすべり落ちるように、雪が降っていた。
「さ、桜井くん。補習、終わったの」
今井さんは弾かれたように顔を上げた。
「戻って来ていたなら、見ていないで、声、かけてくれれば良かったのに」
今井さんの声とともに、教室内には白い息が広がっていく。暖房の切れた放課後の教室は、冷えきっている。
「ごめん」
だってさ、あんなに真剣な顔、まだ見たことなかったから。おれが近付いていることにも気付かないくらい。
「ずいぶん熱心だったから、邪魔したらいけないと思って。……雪、積もるかな」
「ん……どうかなぁ。初雪だから、たぶん、少し舞っているだけだと思うよ。はい、鞄。進路指導室での補習、お疲れサマでした」
預かってもらっていた荷物を受け取りながら、帰ろうか、と彼女を促す。
「前も云ったけど、こんな時間まで待っていなくてもいいのに」
気を遣ったつもりだったが、となりを歩く今井さんは、なぜか不機嫌そうな顔になった。
「彼女なんだから、一緒に帰るのは当たり前でしょう。きょうの補習はどうだったとか、この町に転校してきてもうすぐ一ヶ月になるけど、もう慣れた、とか、いろいろ」
今井さんはお喋りだ。そして、ころころと表情が変わる。だから、飽きないし、可愛いと思う。
寝具メーカーに勤める平社員の父が、いきなり副支店長に抜擢されたとかで、この羽留町への引っ越しが決まった一月前は、こんなに可愛い彼女ができるなんて想像もしていなかった。それも。
「きょう、担任の先生にも、町には慣れたか訊かれたよ。だから転校して一週間後に、彼女ができたって伝えておいた」
今井さんはおれの厭味に苦笑いしつつ、「だって、一目惚れしたんだもの」と、きっぱりと言い切った。
告白されたときもそうだった。
転入した翌週の放課後、補習から戻ったところを、同じ台詞で彼女に告白されたのだ。
一方のおれは、人生初めての告白に浮かれて、「ええと、じゃあ、よろしく」なんて間抜けな返事をしてしまった。
「授業、進むのが早くて大変でしょう」
進学熱が高いとの理由で、高校の授業は、三学期に習う部分も含めてすべて二学期までに終わらせるという。当初はあまりの授業の開きに愕然とした。
「連日の補習のお陰で、だいぶ教科書も進んだよ。それにみんな、わからなかったら訊けよって声をかけてくれるし。まぁ、本音を言うと、少しだけ、お節介だと思うけど」
「転入生には慣れているからね」
「父さんも母さんも、この町に来て良かったって、毎日そればっかりだよ。町の人はみんな優しいし、高価な羽毛蒲団も飛ぶように売れて、給料も上がったし……ってこれは母さんの言葉だけど。以前は安月給だって喧嘩ばかりしていたのに」
「――桜井くんは、どう?」
長い睫毛を瞬かせて、今井さんがおれを見上げる。こんな子がおれの彼女だなんて、未だに信じられない。
誰かに自慢したくて仕方なくて、かつての級友たちに彼女ができたことをメールしたが、誰からも返信はなかった。
その程度の付き合いだったのかと、少し淋しくもあったけれど、「きっと驚いて言葉が出ないんだね」と微笑んでくれた今井さんの存在と、いまの同級生の心遣いが、それを埋めてくれて、いまは少しも淋しくない。
「おれも、良かったと思ってるよ」
「嬉しい」
彼女につられて、おれも、笑った。
靴を履き替え、昇降口から外へ出ると、既に雪はやんでいた。
羽留町は広大な山々に囲まれた過疎地だ。目立って高いビルもない、典型的な田舎町。広大な山々の稜線を辿る中で、ひときわ高い山に、冠雪が見てとれた。
「残念。積もらなかったか」
「桜井くん、雪好きなの?」
「スノボが好きだから、新雪が積もれば嬉しいよ。もし良かったら、今度、一緒に――」
云いかけて、やめた。
今井さん、笑っていない。こっちを見てもいない。マフラーやダウンジャケットで覆っても小柄だと分かる小さな体を、さらに小さくしてうつむいている。
「ええと、まぁ、雪なんて降らないほうがいいよな。おれ、寒いの苦手だし」
横目でちらりと、今井さんを盗み見る。
今井さんの瞳はこちらを見ていなかったが、かわりに、小さな指先が、おれの右手を捉えた。互いに手袋の上からではあるが、やわらかく、あたたかいのはわかる。
「うん、わたしも、苦手なんだ。一緒だね」
ぎゅっと強くなる彼女の指先。それに応えようと、自らの指先に力を入れたとき、前方から、息を切らせて駆けてくる人影が見えた。
同級生だった。おれの前の席に座る背の高い男で、丘野という。面倒見が良く、クラスのなかでは一番仲がいい。
こちらの姿に気付き、丘野はゆっくりと立ち止まった。
「よう、桜井と遥。いま、帰りか?」
丘野は寒さなどものともしない薄着で、傍らには、大型の白い犬を連れている。
「うん。そうなの。瞬くんは日課のランニング? そんな薄着で大丈夫なの?」
過疎の地だけあり、同級生は全員幼なじみで、ふたりは当然のように名前で呼び合う。
「走れば体温が上がるから、これくらいでちょうどいいんだよ」
「いつも思うけど、寒がりなわたしから見たら、瞬くんって、阿呆みたい」
気の置けない幼なじみらしい会話だった。間に入れないおれはひとり、尻尾を振っている犬の頭を撫でてやる。真っ白な毛並みは艶やかで、首輪には、迷子札がきちんと付けられている。大事にされているのだろう。
「あ、悪い。邪魔したな。おれ行くわ。きょうはこいつを施設に預けに行くんだった」
「施設に預ける?」
思わず聞き返してしまった。こんなに元気そうなのに、病気か何かだろうか。
「さっき初雪が降っただろう。あれ、合図みたいなもんだからさ、早めに預けておくことにしたんだ」
「そっか。瞬くんの家はいつも早いもんね」
「そういうこと」
今井さんは腰をかがめ、尻尾を振る犬の頭を撫でた。
「シロ、春になったら、また一緒に遊ぼうね」
今井さんが犬とじゃれあっている間、丘野がおれの方を見た。
「桜井は初めてだから、不安もあるだろう。でも、保存会の人たちがちゃんとフォローしてくれるから、安心しろよ」
「なんの、フォロー?」
「聞いてるだろ。この町の風習のこと」
ここに越してくる前、羽留町に伝わる風習について説明されたことを思い出した。
だが、正直よく憶えていない。さして興味もなかったので、携帯をいじっていて、役場の人の話を聞いていなかった。用意された書面に署名しろと云うので、説明文もろくに読まずに自署した。
「じゃあな」
丘野は犬を連れて再び走り出す。向かう先には、山の麓に佇む大きな白い建物が見える。
「あの白い建物、動物病院か何か?」
「え、ううん。国立の研究施設だよ。あそこでペットを預かってくれるの。他にもいろいろと。町に入る前に寄らなかった?」
「あぁ、この腕時計を渡された」
手首に巻いた、大振りな腕時計を差し出す。
一見、普通のデジタル時計だが、青く光る文字盤をよく見れば、心拍数や血圧などが計測できるようになっているのがわかる。
彼女の左手首にも、同じ腕時計が巻かれている。ひとまわり小さいが、つくりは同じだ。
同級生全員が、同じ腕時計をつけていることには、もうとっくに気付いていた。先生や町の住民もそうだ。
「この時計ってさ、何なの? 夜になると、なんか、電波みたいな、ピピピっておとを」
「――なにも、聞いてないの?」
文字盤から顔を上げると、青ざめている今井さんと目が合った。頬がこんなにも白いのは、寒さのせいじゃないだろう。
「聞いてないって、なにを」
「だから、あの建物が何かとか、この町の風習とか、保存会のこととか」
「えーと、『ちょっと変わった風習』のことだろう。一応説明は受けたけど。でも、部外者のおれには、あんまり関係ない、し」
云えば云うほど、彼女の表情は強張っていく。凍りついていく。
どうしてだろう。わからない。
わからないけれど、思う。
こんな今井さんを見ていたくないな。いつもの、ころころとよく変わる今井さんの顔を見たいな。
「……じゃあ、わたしから説明するけど」
凍りついた今井さんの唇が、ぎこちなく動く。白い息だけが、なめらかに吐き出される。
「あ、いいよいいよ。べつに、気にしてないし。今井さんが、そんな顔しなくても」
そんな顔、して欲しくない。
おれたちの間に割って入るようにして、五時を告げる町内放送が響き渡った。
山や建物に反響して、ひどい不協和音だが、おれにとっては救いの音色だった。
「じゃあ、おれ、帰る。送っていけなくてごめん。授業の復習しておきたいんだ」
脱兎のごとく、とはまさにこのことだろう。 おれは今井さんに背を向けて走り出していた。
結局、風習のことは聞きそびれた。
羽留町の風習が何なのか、いやでも知ることになったのは、二学期の終業式の日だった。
式を終えて教室に戻ってきたおれたちは、今年最後のホームルームで、成績表を渡される順番を待っていた。
「次は、丘野だな。丘野 瞬」
前の席に座る丘野は、机に突っ伏して居眠りの体勢をとっている。先生の声が聞こえなかったのか、ぴくりとも動かない。
「丘野。おまえ、呼ばれてるぞ」
シャープペンを突き出して、背中をつついてやる。だが反応はない。
「丘野? 具合でも悪いのか?」
不思議に思い、身を乗り出して、右肩を揺すってみた。
椅子が揺れた。
「――ッッ」
声が出なかった。丘野の体は、まるで人形のように、床に横倒しになった。
何が起きたのか、わからなかった。
なにがなんだかわからないまま、机や椅子を押しのけて丘野に駆け寄り、顔を見た。
ぞっとした。死んでいるように見えた。
顔に血の気がない。唇は真っ青だ。手首をとってみたが、脈拍は感じとれなかった。
気付くと、先生や周りの生徒達が集まってきていた。
「せ、せんせ、おかのが、急に、」
舌がもつれて声が出てこない。
先生は、わかってる、とでもいうようにひとつ頷いて、丘野の顔ではなく、丘野の腕時計を覗きこんだ。青いはずの文字盤が、拍動するように、赤く点滅している。
「――あぁ、大丈夫。いつものことだ」
先生は、笑った。
笑ったのだ。この青白い顔も、呼吸の有無も確認せずに。腕時計を見ただけで。
「いつも? いつもこんなふうに、死人みたいな顔して、倒れるんですか?」
急に腹が立った。先日、あの寒いなかランニングをこなしていた健康的な丘野の変貌ぶりを見て、なにが、大丈夫だって云うんだ。
「桜井、落ち着きなさい。丘野は『冬眠期』に入ったんだ。体温は三十度ほどまで下がり、呼吸回数も脈拍数も減り、通常時とは全く異なる体質に変わる。国の研究機関が開発した腕時計の文字盤が赤く変わったのは、冬眠期に入る際の合図なんだ」
冬眠期? なんだよ、それ。なんだよ。
「そうそう。丘野の家はいつもみんな早いんだよ。うちの家族はいつもクリスマス過ぎ」
同級生のひとりが笑う。
「私の家はみんな冬眠期に入るタイミングがばらばらなの。大体いつも私が最後でね」
「俺はいつも真っ先に入るぜ」
みんな笑っている。冬眠期に入ると文字盤が赤くなるという腕時計を嵌めて、笑ってる。
「桜井。町へ来る前に説明を受けただろう。この町に根付く『冬眠』の風習を。外部から来た人間にも同様の事象が起きるのか、国はその臨床実験のために、きみとご両親を転入させた。被験者となる同意書と、この町のことを他言しない旨の誓約書を書いたはずだ」
おかしいとは思っていた。何故こんな中途半端な時期に、父の転勤が決まったのかと。
でも、まさか、実験のためだったなんて。
「おれは……なにも」
ようやく呟いた言葉に、先生はため息をついた。顔を上げ、とある方向へ視線を向ける。
「今回の転入生を担当する『相談員』は誰だったか……あぁ、今井だな。きみは彼に補足説明をしてあげなかったのか?」
彼女がいた。目蓋を伏せて、うつむいて、いまにも泣きだしそうな顔をしている。
「……はい。申し訳ありません」
その後、丘野は先生たちの手によって、保健室へと運ばれていった。何事もなかったかのようにホームルームは続けられ、午前中には散会となった。
その日の補習は長引いた。教えてもらうことより、訊きたいことのほうが多かったからだ。本当に人が冬眠なんてするのか、に始まり、恒温動物である人間が冬眠する理由、この町にだけその風習がある理由など、それはもうたくさん。
先生はひとつひとつ丁寧に説明してくれたが、おれはどうしても納得できなかった。
「いいか、桜井。おまえが訊きたいことと同じことを、国や政治家だって知りたいんだ。だから山の麓に白い研究施設を建て、腕時計から送られてくる心拍数などのデータをもとに冬眠について調査しているんだよ」
腑に落ちないおれの心を察したのか、先生は何度目かになるため息をついた。
「丘野を見ただろう。触って確かめただろう。あんな状態なのに、春になって冬眠から目覚めると、けろっとした顔でまたランニングをするんだよ。あいつは。それが冬眠であり、この地に古くから根付く伝統なんだ。ずっとずっと昔から、町の人たちはそういう生活をしてきたんだ。……きょうの補習はもう終わりにしよう。春になって授業が始まってもたつかないよう、ちゃんと予習復習しておけよ」
そう云って立ち上がった先生に、おれは最後の質問をした。
「相談員って、なんですか?」と。
補習を終えて教室に戻ると、彼女は、いつものように、待っていた。身震いするような寒い室内で、制服姿のまま、じっと窓の外に目を凝らしている。時折、許しでも乞うように、手のひらを合わせ、白い息を吐きかけている。
また、雪が降っていた。
おれは無言のまま彼女に近付き、その傍らにあった自分の鞄を手に取った。驚いたように今井さんがこちらを見る。
「あ、おかえり。……遅かったね、補習」
「先生にいろいろ質問していたんだよ。他には『誰も』教えてくれないから」
誰も、の部分だけわざと強調した。
「ごめんなさい」
ちらりと今井さんを見ると、彼女は、血の気のない青白い顔を伏せた。
「聞いたよ。相談員って、監視役でもあるんだって? 転入して一ヶ月くらいは、対象者が外部に連絡しようとしたり、町の外に出掛けたりしようとするのを監視し、やんわりと止めたり、上に報告したりするんだって?」
先生は、教えてくれた。
人間が冬眠する。それは世界中でも類をみない稀少な事象だ。だから、外部に情報を漏洩させないよう誓約書を書かせるだけでなく、外との接触は厳しく制限される。そのかわり、町の人間は持ち回りで外部からの人間の面倒をみる。それが『相談員』であり、今回おれを担当しているのは、今井さんなのだと。
「変だと思ってたんだ。みんな、親切すぎるし、ネットもメールも、つながらないし」
町に転入してからつながらなくなった外部とのメール。ひとりの淋しさを埋めるように親しく接触してきた同級生たち。そして、転入して間もなく、一目惚れだと告白してきた『相談員』の彼女。
すべてが、不自然だったのだ。
「ごめんなさ……」
「だからさッ」
おれは手にした鞄を机に叩きつけた。
苛々した。
「そうやって平謝りするのがわかっていながら、なんでおれを待ってたんだよ。こんな寒い教室で、わざわざ、これ見よがしに」
自分が傷ついた分だけ、誰かを傷つけたい。いまはそんな気分だった。
「あの、ほんとうに、ごめ――」
「もういいよ」
ため息交じりに、ほんとうに投げやりに、そんな言葉を放り出していた。
「別れよう。っていうより、そもそも最初から、おれも、あんたも、付き合う気もなかったんだからさ。お陰様で、町には慣れたよ。監視はもういらない。……文句ないよな」
今井さんは、まだ何か云いたいことがあるかのように、青白い唇を開いた。でもおれは続きを待つことなく、担ぎ上げた鞄とともに教室を走り去った。
振り返るのはやめた。今井さんがどんな顔をしているのか、知りたくもなかった。
「母さんッ、なんなんだよ冬眠って。なんでこんなところに越してきたんだよ」
おれは玄関扉を開けた勢いのまま、居間のこたつでくつろぐ母のもとににじり寄った。きょうの経緯を、懸命に伝える。
すると母は、きょとんと目を丸くしたかと思うと、「人間が冬眠するわけないじゃない」と、笑い出した。
「どうせ、何かの病気を持っている一部の人たちだけのことでしょう? それを冬眠って呼んでいるだけよ」
だったら今井さんは、なんであんな顔をしたんだ。あんなに謝ったんだ。
「確かに、風変わりな風習があるって話を聞いたけど、それと引き換えにお父さんが出世して、お給料が倍になるなら、文句なんてないわよ。そうでしょう?」
母にとって守りたいのは、『冬眠』という不確かな文化ではなく、この家族であり、家庭なのだ。
「いずれにしろ、うちには関係ないわよ」
母はそう締めくくって、こたつにごろりと横になった。
それからの日々は、年の瀬の忙しさに紛れていった。今井さんとはあれ以来、連絡をとっていない。彼女からも連絡はなかった。
自室の窓からは、羽留町の夜景が見渡せる。日を追うごとに、民家の灯りは少なくなっていった。
先生によると、子どもや老人、持病のある人は、冬眠が始まるこの季節になると、国が用意した仮の町へ一時的に移住するのだという。残された住民たちは、雪解けの季節まで深い眠りに落ちる。それがこの町の風習であり、伝統なのだという。『保存会』と呼ばれる国の研究員たちは、白い建物のなかで住民たちの眠りを見守り、その生態を観察する。
莫迦らしい。
人間が冬眠なんてするもんか。
そう思うのに、民家の灯りが減っていくのを目の当たりにすると、不安になる。
怖くなる。いつか自分にも、両親にも、その日が来るのではないかと。
そうして何日か経った大晦日の朝だった。いつもなら七時過ぎに起きて朝食の仕度をはじめるはずの母が起きてこなかった。
「父さん、母さん、そろそろ起きたほうが」
両親の寝室を覗いたおれは、カーテンが閉めきられた薄暗い室内で点滅する光を見た。
腕時計の赤い光が、ちかちかと、ふたつ。
まさか。おれは慌ててふたりの寝床に駆け寄り、蒲団を剥ぎ取った。
丘野と同じだった。血の気のない肌に、青白い唇。パジャマ姿のまま、いつもの間抜けな顔で眠るふたりの姿が、これほど怖いと思ったことはない。
ふたりは、冬眠したのだ。
こんなのって、嘘だろう。
おれはダウンジャケットだけを羽織り、外に飛び出した。腕時計の青い文字盤は、九時を示していた。
そろそろ表に人影が出てもおかしくない時分だ。それなのに、太陽に照らし出された羽留町には、人の気配がなかった。どこか遠くで犬が鳴いていて、雀が忙しなく囀っている。けれど、人間がひとりもいない。
人間を探した。手当たりしだいインターフォンを押してまわって、役所にも行って、公衆トイレもくまなく探した。人間を探した。
それでも結局、誰にも会えないまま、誰とも会話しないまま、陽が落ちた。
疲れ果てて、家に戻ったおれは、もう一度両親の寝室に入った。
赤い光は点滅をやめ、かわりに赤い文字盤に切り替わり、時を刻むのをやめていた。
おれは目覚めない両親の傍らに膝を折って座り込んだ。自分の腕時計はまだ青い文字盤のまま、夜の七時半を表示していた。両親のそれと同じように、赤くはならない。
「……父さん、紅白が始まったよ。なんとかって歌手、見るって云っていたじゃないか。なぁ、母さん、そろそろ年越し蕎麦を作ってよ。風呂はおれが入れておくからさ」
なぁ、応えてくれよ。寒いよ。淋しいよ。
誰か、応えてくれ。誰でもいい。
自室に戻り、すがるように、窓硝子に顔をこすりつけた。目を細め、わずかな光を探した。民家の灯りがついていれば、そこには、間違いなく人がいるからだ。
「――あ」
遠く、遠くにひとつ、灯りを見付けた。
誰かがいる。
そう思ったら、もう部屋を飛び出して全速力で駆け出していた。
たどりついたのは、小さな酒屋だった。古めかしい硝子戸の向こうから、あたたかな灯りがこぼれている。
「……桜井くん?」
こぢんまりとした陳列棚の奥で、石油ストーブに当たっていたのは、今井さんだった。
驚いたように駆け寄ってくると、からからと硝子戸を開けてくれた。店内のあたたかな空気がふわりとおれを包みこんだ。
今井さんはおれの顔を見て何か悟ったように頷き、手をとった。
「どうぞ、中に入って暖まっていって」
彼女に導かれるまま、おれは石油ストーブの前まで連れて行かれた。用意されたパイプ椅子に座らされる。
ちょっと待ってて、と今井さんは店の奥に入り、ココアの入ったマグカップをふたつ持って現れた。そのひとつを、おれに差し出す。
「はい、あたたまるよ」
おれは、かじかんだ手でマグカップを受け取った。一口、呑んでみる。甘い。あたたかい。
「……おれの親、冬眠したみたいなんだ」
「うん」
「今朝おれが起きたら、いきなり」
「うん」
今井さんは、ただ静かに、おれの話を聞いていてくれた。先ほどまでの不安や恐怖が、少しずつ、解けていくのがわかった。
「おれも、いずれ、眠るのかな。……今井さんは、まだ、眠らないの」
「わたしは」
云いかけた今井さんは、一度、口を閉じた。
「わたしは――どうしてか、眠らないんだ。『非順応者』って呼ぶんだって。遺伝なのか、体質なのかわからないんだけど、いままで一度も冬眠したことがないの」
「冬眠しないのに、それなのに今井さんはこの町に留まっているの? 仮の町に行くんじゃないのか」
「だって、お客さんが来るもの」
今井さんは飲みかけのマグカップを傍らの机に置いた。机の上には、まだ大晦日だというのに、年賀状の束が置いてある。食べかけの蜜柑や、袋入りの煎餅も一緒に並んでいた。
「冬眠に入る時期は、家族でも人それぞれ違うんだって。冬眠しても、途中で目覚めてしまう人もいる。そういうときに、こうして灯りをつけて、大丈夫、ここにいるよって安心させるのが、わたしの仕事」
客がひとりも来ない日だってあるはずなのに、今井さんは毎日こうして店を開けて、春を待っているんだ。
きっと、心細いだろう。淋しいだろう。だから、雪が降ったとき、あんな顔をしたんだ。
「なんで、そうまでして、今井さんはこの町に留まるんだ? ひとりぼっちで、春を待つしかないのに」
「ひとりじゃないよ」
今井さんはにこりと微笑んで、天井を見上げた。おそらく二階では、彼女の両親が、眠っているのだろう。
「確かに、淋しいと思うことはあるよ。でも、大晦日まではなんとか一緒に過ごそうと、コーヒーやなんかのカフェインを無理に飲んで頑張ってくれる両親や、わたしが淋しくないよう年賀状を書いておいてくれる同級生、自家製の漬け物や、野菜や果物を持ち寄ってくれる近所の人たち。そして、冬眠の途中で目が覚めてしまった人たちとお喋りする短い時間。全部、好きなの。この町が好きなの。離れたくない。仮の町へも、他のどこへも、行きたくないの」
強い瞳だった。優しい声だった。
今井さんが、どれほどの覚悟でこの町に留まり、どれだけの勇気を与えられているのか、なんとなくだけれど、わかるような気がした。
「――桜井くん。冬眠のこと、ちゃんと説明していなくて、ごめんね」
今井さんが謝る必要はない。ちゃんと説明を聞かなかったのは自分だ。
「こっちこそ、ごめん」と、謝ったつもりだったが、うまく言葉が出てこなかった。ココアで体があたたまり、眠くなってきた。
あとね、と今井さんは口ごもる。
「『相談役』、今回は瞬くんが担当だったの。それをわたしが無理に引き受けたの」
どうして、とぼんやり返すのがやっとだった。なんでだろう、ひどく、眠い。
「転校初日の自分の顔って、覚えてる? 知らない土地で、緊張して、笑顔もぎこちなく引きつって、まるで凍っているみたいに見えるの。特に桜井くんは、がちがちに凍ってた」
「そう、だったっけ」
「うん。だけどね、瞬くんが話しかけて、桜井くんがぎこちなくそれに答えて、そうして、ひとつふたつと交わす言葉が増えて、会話になって、少しずつ、あなたの顔が、ほぐれていくのを見たの。雪解けみたいだと思った。気付いたら、目をそらせなくなっていた。次はどんな顔をするんだろう。どんな笑顔を見せるんだろう。そんなふうにね、どうしようもなく、気になったの。だから、一目惚れは、本当のこと」
言葉の最後のほうは、照れ隠しのように、笑い声になった。そして、笑顔になった。
あぁ、あの笑顔だ。
おれが好きな、今井さんの笑顔だ。
おれが今井さんを見ていたように、今井さんも、おれの顔を見ていたんだ。ずっと。
「ごめんね今更、お別れしたのに」
今井さんの声が、遠のいていく。
まずい、まだ、眠りたくない。だっておれはまだ、大事なことを伝えてない。
「おれも、おれも今井さんの笑顔を見てた。これからも、ずっと。そうだったら……いい。だから、め、さめたら、今度こそ、ほんとに」
マグカップが、手の中から落ちて転がっていった。睡魔に耐え切れずに頭を垂れると、腕時計が、赤く、点滅しているのが見えた。
「おれと、付き合ってください」
――そこで、意識が途切れた。
次に目が覚めたら、真っ先に、会いに行こう。そして、もう一度、ちゃんと告白しよう。
春を待つこの町と、きみのことが好きです、と。
おわり。
ここまでご覧頂き、ありがとうございました。
拙く、未熟な物語ですが、少しでも心に残る部分があれば幸いです。
本作は、雑誌コバルトの短編賞に応募し、なんとか最終選考に残ることができました。
誌面の批評をご覧頂いてもわかるとおり、「冬眠」という設定自体が、かなり曖昧というか、テキトウというか、もうお恥ずかしい限りです。
雰囲気だけで突っ走ってしまった感があります。
主人公の言動にも、かなり無理があります。私自身としては「冬眠」という習慣の驚きを強くしたいがために、彼に無関心さを強制してしまったのですが、その「冬眠」の事実さえも、それほど衝撃的に書けていないので、本末転倒でした。
とにかく一番伝えたかったのは、「この町が好きだ」という今井さんの台詞です。それを云わせたいがために、この物語を書きました。
今回の批評を参考に、よりよい物語を形作っていけるよう、これからも努力します。
最後までお付き合いありがとうございました。
芹沢祐でした。