六
昼過ぎ、マユミは羽田にいた。和彦と丸子はドールとともにトラックで陸路で戻っている最中だが、伊藤やマユミは先に空路で戻ってきたのである。マユミはそのまま亜奈瑠のいるホテルへ向かった。
亜奈瑠の部屋の前には警備の刑事がいる。すでに顔なじみであったが、マユミはこれまでと同じように身分証を見せ、刑事に確認を受けた後、呼び鈴を押した。
返事はなかった。
「まだ寝てるなんてことはないよね。トイレじゃないか?」と刑事はいった。
十二三分もそんなようなことをしていて、二人ともさすがにおかしいと思い、ホテルの従業員を呼んで部屋の鍵を開けさせた。
「木村さん!」
部屋に入るなりマユミは亜奈瑠を呼んだ。やはり返事はなかった。
マユミは血の気が引いた。風呂やクローゼットを覗いたが、やはり亜奈瑠はいなかった。
部屋はもぬけの殻だった。
「どうなってるんだ……?」
刑事が呆然とした。
亜奈瑠は明け方に部屋を抜け出していた。亜奈瑠を訪問する者に目を光らせていた警備の刑事だったが、命を狙われているかもしれない亜奈瑠が自分から出て行くとは思わず、油断があった。
「馬絹さんに連絡しなきゃ」とマユミが言い、刑事が慌てて電話をかけた。
馬絹は福井県警で捕らえた白鳥組の男たちを取り調べていた。残念ながらその中に北朝鮮の者はいなかった。取り調べによって、沖で北朝鮮の船から白鳥組の用意した漁船に荷を移し替えるという予定変更があったことが判明した。
電話を受けた馬絹は亜奈瑠を見失った刑事を激しく叱責した。その傍らでマユミはあっと声を上げた。
「亜奈瑠は自分のアパートに帰ったんだ。彼のいるアパートに……」
馬絹はアパートの前に張り込んで金田勝一を見張っている刑事たちに電話をかけた。
「金田が潜伏している部屋の住人である木村という女性が、そちらに戻るかもしれん。何とかして引きとめろ」
それを聞いた刑事は青くなった。
「先ほどアパートに、それらしき女が入っていきました」
「なんだって?」
こちらは逆に、金田が出て行くのを警戒するあまり、訪れる者に対しての警戒が薄かったのである。
「馬鹿! そっちは今、何人いる?」
「四人です」
「予定より早いが今すぐ踏み込んで、男を取り押さえて女を保護しろ! 応援も要請するが、すぐには来れん。でも、なんとかしろ!」
「わ、わかりました」
刑事たちは慌てて亜奈瑠の部屋への階段を駆け上り、鍵の開いていた部屋のドアを開けて突入した。
その十五分ほど前のことである。
金田勝一は取引が行われたであろう時間には起きて待機していたので、昼過ぎではあったがまだ眠っていた。
携帯電話の着信音に勝一は起された。
「金田さん、うちのもんが全員捕まったようだ」
白鳥組の幹部の声である。
「なんですって?」
「港で荷を揚げてる現場を押さえられたらしい。どうなってるんだ?」
「私は何も知らない」
「あんたのところから話が漏れたんじゃないだろうな……だとしたら、ただじゃおかねえ。とりあえずまた電話する」
勝一は何が起きたのか分からず、呆然とした。
そのとき玄関の鍵が開き、亜奈瑠が部屋に入ってきた。
「ただいま」
「お、おかえりナルミ……おばあさんは大丈夫なの?」
亜奈瑠は勝一の隣に座った。
「ごめんなさい。あれは嘘だったの」
「え?」
立て続けに起こった不可解な出来事を、勝一の寝起きの頭は処理しきれなかった。
「勝さんのパソコンを開いてメールを見ちゃったの。で、昨日の夜、北から拳銃が来るって知って……それを警察に話してしまったの」
「馬鹿な。パソコンにはパスワードがかかっているし、メールは暗号だし……警察が解いたのか……」
暗号メールの存在を、勝一はもはや隠さなかった。
「ううん、私が解いたの」
「ナルミが?」
勝一は呆然とした。
「君がパスワードと暗号を?」
「……うん。ごめんね……」
しばらくの間、亜奈瑠の顔を見た後、勝一は急に笑い出した。
「君は……大したやつだ」
愚鈍そうな女を狙って近づいたはずだった。しかし、とんだ見込み違いだった。
「じゃあ、君は僕が……」
「朝鮮の人なのね?」
金田勝一ことキム・スンイルは目を閉じた。白鳥組は逮捕され、銃を押収されてしまったが、売上金は祖国に渡った。そういう意味では十分役目は果した。
「それで……君は何故戻ってきたの? 秘密を知った君を……僕が殺すと思わなかったの?」
にわかに勝一の顔が険しくなった。
「私は……それが正しいことだと思ったから警察に話したけど、私自身は勝さんと離れ離れになるのは嫌なの。勝さんが逮捕されて私の前からいなくなっちゃうなんて嫌なの。だったら……」
「だったら?」
「勝さんに殺してほしい」
「ナルミ……」
勝一はゆっくりと亜奈瑠の首に手をかけた。
「僕は君を騙していたんだよ?」
「いいの。私も勝さんを騙しちゃったのだから」
「……」
亜奈瑠の閉じた目から涙があふれ、頬を伝って落ちた。
勝一は手を離した。
「勝さん?」
亜奈瑠は目を開けて言った。
目の前に、穏やかに笑う勝一の顔があった。
「殺せるわけがないよ。僕は……君のことが本当に好きなんだから」
「え?」
「任務のためにナルミに近づいたけど、いつの頃からか、君のことを好きになっていた。ナルミは他の日本人の女みたいにけばけばしくなくて……素朴な野の花みたいな人で、そして心の美しい人だ」
その瞬間、ドアが音をたてて開き、入ってきた刑事が勝一に殺到した。
「勝さん!」
亜奈瑠が叫んだ。
勝一は抵抗せず、おとなしく刑事に組みひしがれた。
「木村さん、お怪我はありませんか?」
一人の刑事が言った。
「あるわけないじゃないですか!」
亜奈瑠は叫んだ。
マユミが到着したとき、手錠をはめられた勝一が刑事に連れられてアパートの階段を降りてくるところだった。その後ろに亜奈瑠がいるのが見えた。マユミは亜奈瑠の名前を呼んだが、号泣している亜奈瑠には届かなかった。
勝一はパトカーに乗せられた。亜奈瑠はパトカーの窓にへばりついて「勝さん、ずっと……ずっと待ってるから!」と叫んだ。
「馬鹿。僕のことなんか忘れて幸せになりなさい」
勝一は笑顔で言った。
パトカーが発車した。亜奈瑠は傍に来ていたマユミに気づくと、マユミにもたれ掛かって、いつまでも泣いた。
数日後、和彦とマユミは信濃町の甘味屋にいた。ここは隣にある茶道具を扱う店が経営している甘味処で、とにかく茶がうまい。地下訓練場に引越した後、和彦が見つけてきて、それから良く通っている。
「木村さんはその後、大丈夫なの?」
和彦が聞いた。
「大分落ち着いたって」
「よかったね」
話をしながらマユミは、この男の場合、好きになった女にどのように接するのだろうと思った。しかし、その様は全く想像できなかった。
山田に誘拐されたとき、電話から漏れ聞こえた和彦の「寺田さんは僕の大事な人なんだ」という声を聞いたとき、一瞬どきっとしたものだが、そのセリフがあまりに和彦らしくなく、これは自分を救出するための演技だなと、そのときのマユミは思った。
山田の手下が狙撃されたときには、強く抱きしめられたが、あれは自分の視界を塞ぐためだった。しかし、そのときの和彦の腕の強さ、頭に置かれた手の感触……げげっ、私は一体何を考えているんだろう。
「寺田さん、大丈夫? なんだかぼーっとしてるけど」
「え? ぜんぜん大丈夫だけど?」
「そろそろ眠くて頭がぼーっとする季節だからねえ」
春が近づいていた。
「まあ寺田さんはいつもぼーっとしてるけど」
「うるさい」
マユミはこれから暖かくなる陽気が、立ち直りつつある亜奈瑠の心にプラスに作用してくれることを祈った。




