三
夕方、マユミは恵比寿駅に降り立った。恵比寿パレスタワーというのが伊藤から聞いた和彦の住むマンションだった。マユミは初めて来たのだが、そのマンションを探す必要はなかった。駅に直結していたのである。
商業施設と一体になっているこの高層マンションを見て、マユミはそこが有名な高級マンションで、自分も名前くらいは知っていたことを思い出した。とりあえず食材を買おうと思い、パレスタワーの下層階を歩くと、テレビでよく芸能人御用達として紹介されるスーパーがあった。マユミはそこで食べ物を買い揃えると、住人用エントランスに行ってインターホンを押した。二度目に鼻声の和彦が応えた。マユミが見舞いにきたことを告げると、
「え? 本当に? ちょっと待って、今あける」とインターホンの向こうの和彦が慌てた様子で言った。
塵一つ落ちていない掃除の行き届いたマンションの共用廊下をマユミは物珍しげに見ながら歩き、エレベーターに乗って、和彦の部屋の玄関に来た。
呼び鈴を鳴らすと、どこかのサッカークラブのジャージを着、ボサボサの髪をしてマスクをつけた和彦が玄関を開けた。
「伊藤さんに様子を見てこいって言われて。何で電話にでないの?」
「え? 電話したの? ああ、電池が切れてるのかもしれない」
「しょうがないなあ。入ってもいい?」
「うん、あがって」
マユミは玄関で靴を脱ぐと、和彦に従って廊下を歩いた。壁にかけられた絵や、置かれた小物、生活雑貨。和彦の家にあるもの全てが独り暮らしの男のものには見えなかった。まるで父親も母親も一緒に住んでいるようだとマユミは思ったが、父親は三年前、母親はもっと前に亡くなっていると聞いている。
広いリビングに通されると、部屋はとても片付いていた。ここにも和彦の親が健在であるかのような、息遣いのようなものを感じる。いや、健在のように、では正確ではない。健在だったころから時間が止まったように……まるで廃墟のようにマユミには見えた。
和彦はソファの方へ行ったが、ソファに座らず、そのすぐ下の床に座った。ソファにはブランケットが掛かっていたのだが、その上から座ってブランケットをぐちゃぐちゃにするのを和彦が嫌がったようにマユミには思えた。
「ごはん作ってあげるから横になってたら?」
「大丈夫。いや、ほんと、ありがとね」
マユミは食材の入ったビニール袋を提げてキッチンに入ったが、ここもきれいで、あまり使っている形跡を感じなかった。マユミは使うのに不安になり「キッチン使ってもいいの?」と聞いた。
「いいよ」と和彦は言った。
とはいえ、マユミは調理に手のかかるものを買ってきたわけではなかった。鍋に移して火で温めれば済むものや、できあいの惣菜を買ってきていたので、このモデルルームのようなキッチンを汚くしなくてすみそうだとマユミは安堵した。
和彦とマユミは食卓についた。
「なにこれ?」と和彦は目の前の料理を見て言った。
「サムゲタンだよ。韓国の料理。あたしも食べたことないんだけど、栄養があるってテレビでみたから買ってみた」
「へえ」
おかゆ程度で良かったのだがと思ったが、和彦は素直にサムゲタンの中の鶏肉をスプーンで崩して食べた。
鼻が詰まっているので、味はよく分からなかったが、
「うん、うまい」と言った。
「ニンニクが入ってるから体が温まると思うよ」
「ありがとう。ナイスな選択」
マユミは買ってきた惣菜を食べている。和彦はそれを見ながら、
「そっちの方が美味そうだねえ」と言った。
「何言ってるの。下で売ってるやつだから、中村くん、しょっちゅう食べてるんじゃないの? すごく高くてびっくりしちゃったよ」
マユミの物言いはかつてのように卑屈ではない。
「そんなの食ってないよ。僕ぁ、いつも玄米と味噌と少しの野菜しか食べてないよ」
「あんたは石川啄木か」
「違うよ、宮沢賢治の雨ニモマケズだよ」
「ははは、素で間違えちゃった」
それを聞いて和彦も笑った。マユミと話して笑ったことで、萎えた気と体にエネルギーのようなものが戻ってきたような気がした。
「そうだ、いろいろ買い物して、お金つかっちゃったでしょ。返すよ」
「本当?」
「そこに俺の財布があるから、かかった分だけ取っていって」
「じゃあ、遠慮なく」
マユミはリビングのコーヒーテーブルの上に置かれた和彦のナイロンの財布を開けた。マジックテープのビリビリという音がした。
「ちょっと、三百円も入ってないじゃん」
「え? 本当? じゃあ明日、銀行で下ろして返すよ」
「いい大人が三百円しか持ってないって、どういうこと?」
マユミの呆れ顔を見て和彦は笑った。この人は四六時中、こういう顔をすると和彦は思った。
しょうがないなあと言いつつ、マユミはふと財布の傍らにあった雑誌が気になり、手にとって開いた。なぜなら、それは三十年近く前の古い雑誌だったからである。2012年の二十三歳以下のサッカー女子日本代表についての特集号だった。
ぱらぱらとページをめくって見ているうち、マユミはあることに気がついた。
「中村くん」
「うん」
「ドールの名前のネタ元って、この代表選手たちだったの?」
「そうだよ」
和彦はドールの名前を、昔のサッカー女子選手の名前から拝借していたのだった。
「なんだ、そうだったんだ。へえー」
マユミはそう言いながら雑誌のページをめくった。マユミは何か小さな秘密を覗いたような気がした。
「父さんが若い頃、この代表チームのことがすごく好きで、ずっとその雑誌を宝物みたいに大事にとっておいていたんだよ」
「そうだったんだ」
父親の話が出たところで、マユミは先ほどから気になっていたことを聞こうと思った。
「嫌なことを聞くかもしれないんだけど」
「うん?」
「中村くん、一人でここに住んでるんだよね? でもおうちの中の様子が、まるでお母さんやお父さんがいるみたいに見えるの」
「それは、母さんが死んでも、母さんの揃えたものを父さんが一切捨てずに、そもままにしておいたからかな」
「…………」
「それで俺も父さんが死んだあと、父さんのものをそのままにしてるんだよ。なんか、片付けるのも面倒だしさあ」
面倒と言っているが、生前のままにしておくことによって両親を身近に感じていたいのではないかとマユミは思った。和彦自身の部屋では物を出し入れしているかもしれないが、台所や両親の部屋などは、死後全く手をつけていないのかもしれない。
そう考えると、マユミが手にしている2012年の雑誌も、もしかしたら和彦の父が読んでそこに置いたまま、何年もそのままテーブルの上に置いてあったのではないかと思った。
「今日はありがとう」
和彦が玄関まで見送った。
「明日は来れそう?」
「うん、多分行く」
「携帯、充電しておいてよ? じゃあね」
マユミは念をおした。
エレベーターの前まで行って振り返ると、まだ和彦が玄関のドアから顔を出してマユミの方を見ていた。
「風邪がひどくなるよ!」
マユミがそう言ったので、和彦の頭が引っ込んだ。




