二十九
「そんなわけで、谷口さんが意外に熱い人だったんで、驚きましたよ」
「同じチームの女性として、谷口ちゃんは寺田さんを気にかけてたのかもな。寺田さんは谷口さんが苦手だったみたいだけど」
ベッドに横になっている伊藤が言った。他の病室からバイタルサインの警告や、点滴が終了したのを知らせる電子音が聞こえてくる。
マユミの誘拐事件が解決してから三日が経っていた。
「中村くん」
「なんですか」
伊藤は質問を口にするのを躊躇していたが、しばらくして言った。
「犯人のうち三人を殺したと聞いた」
「……はい」
伊藤は苦渋の色を顔に浮かべた。
「寺田さんもそうだが、中村くんを、こんなことに巻き込んでしまって申し訳ないと思っている。我々は中村くんにばかり手を汚させ、そして心に傷を負わせ続けているんだ。本当に……こんなことは、もう終りにしたい」
「仕方ないですよ。これは中村家の宿命だと俺は思っているんです」
「なに?」
今度は和彦が言うのを躊躇したように黙った。
「宿命だって?」
「ええ……俺の父は、表向きは経産省の役人でしたが、実は内調の諜報員だったんです」
「なんだって?」
「祖父もそうです。代々中村家は破壊工作や拉致、暗殺といった国の汚れ仕事をしてきたんですよ。だから、俺がこういう仕事をするようになったのも、宿命だったんでしょう」
「そんな……それは本当なのか?」
和彦は遠くを見るような目をした。
そして、
「嘘です」と言って笑い出した。
「ははは。そんな、マンガじゃあるまいし」
「担ぎやがったな」
伊藤も笑った。傷口に響かないように気をつけながら……。
中村家が代々諜報員だったのは嘘だが、国のために働いているという自負を持った官僚だったのは確かだった。その自負は家風のように中村家に引き継がれていた。もっとも、働きに対する正当な対価も欲したので、祖父などは「渡り」を繰り返して金を溜め込んだのだが。
和彦がこの職務にひたむきになってしまう面があるのは、和彦自身も気づかぬうちに、この家風が身に染みついていたからに他ならなかった。もっとも和彦には先天的に祖父のような欲が欠けていたのだが。
「確かに、何人か死なせちゃって、もう俺はニートだったときの俺とは別の人間になっちゃったかもしれないです。でも不思議とこの仕事は嫌じゃないんです。だからこれからも続けますよ」
「だが、僕は君を守るといいながら、ちっとも守れていないのが情けないんだ」
「保護されなきゃいけないような年齢じゃないですよ俺は。大丈夫、大丈夫。伊藤さんも安心して引退してもいいですよ」
また根拠のない自信を……を思いながら伊藤も笑った。
「引退……。ちょっと待て。寺田さんから聞いたが、君は僕の年齢を六十過ぎだと思ってたらしいな」
「え?」
山田孝太郎は依然逃走中だった。
馬絹は小笠原議員から山田へと流れる情報ルートを捜査していた。事件中、秘書の一人が何度か怪しい行動を取っていたことが判明した。
「さて、こいつをどう網にかけてやろう」
馬絹はこの秘書の写真を見ながら呟いた。
伊藤の説得にもかかわらず、マユミはトランクを辞めなかった。
「もう就職活動は嫌ですし、トランクにいて一緒に行動していた方がかえって安全なのかなと思うし……なにより中村くんのデタラメな企画案を文書にまとめられるのは私だけですから」
それが口実なのは伊藤の目から見ても明らかだった。
「また危険な目に合うかもしれないんだよ?」
「そうしたら……また中村くんに助けに来させます!」
それから一ヶ月の後、地下の訓練施設の休憩室では、ささやかなお祝いが行われていた。山田の誘拐事件の影響により、職員の安全を守るため今までのトランクのオフィスは窓口だけを残し、別のビルに移って住所を非公開にした。和彦らドールに関わる者たちはそちらには行かず、この地下訓練施設に席を作って常駐することにした。その引越し祝いなのである。
「引越して、あのあんみつ屋と疎遠になるのは惜しいなあ」と和彦が言った。
「あんみつ屋? なにそれ?」
「酷いんですよ丸子さん。ずっと前、中村くんがお茶でもって飲もうって言うからついていったら、普通喫茶店に行くと思うじゃないですか。そうしたら……」
マユミがかつての話をした。
「へえー。俺も行ってみたいものだ」
「森くんには、あんみつとか似合わないねえ」
「伊藤さん、それは偏見です。森三尉は暇さえあれば、甘いお菓子を食べてますよ」と谷口が言ったので、森は顔を赤くしながら、がははと照れ笑いをした。
つられて笑いながら、マユミは自分がトランクにきてから一年になろうとしていることを思った。事務員として入社した一年前には、自分の身にこんなことが起ころうとは夢にも思わなかった。それらは主に和彦によって引き起こされたことに違いなかった。伊藤からの提案を受けて和彦という強風から離れるという選択もできたが、マユミはそれを選ばなかった。それにより、この先の未来にも、この一年の間にあったような様々なことが起こることは間違いないのだろうが、もはやマユミは強風を必要とする風車のようになっていた。
「そうだ、じゃあ皆で、あの甘味処に行きましょうよ」と和彦が提案した。
「え? 全員分、中村くんの奢りで?」とマユミが屈託なく言った。
一同、大笑いした。
一旦おわりです。
でも続きます。




