十八
夏になった。
平年並みの気温とはいえ、コンクリートで覆われた東京の夏は、やはり暑い。マユミはトランクのオフィスに向かって歩きながら、今年の夏は平年並みに暑いらしいねと、おかしな文句を和彦が無理やり捻り出したのを思い出す。
オフィスにつくと、受付に馬絹がいる。
「おはようございます。どうなされたんですか?」
「おはよう寺田さん。伊藤さんは、まだ出社されてない?」
「もう来ると思いますから、こちらでお待ちください」と言って応接室へ通そうとすると、エレベーターから伊藤と谷口の二人という珍しい組み合わせが出てきた。
「下であんまり会いたくない人に会っちゃってね」
「私は伊藤さんにいつでも会いたいんですよ」
谷口は心にもないことを表情一つ変えずに言う。
伊藤は馬絹と谷口を応接室に招きいれて「で、何ですかアポなしで突然」と言った。
「急ぎの話なんですよ」と馬絹が言った。
「相模連合というチンピラ集団がありまして、そこの幹部格の鈴木バキアムという男が……」
「なんだって?」
「バキアム。漢字で書くと爆輝亜夢」
給湯室で立ち聞きしていたマユミは青ざめた。
「まあいいや、続けてください」
「こいつには、別のチンピラ集団のメンバーに対する集団暴行に加わっていた疑いがあった。そいつが神奈川県警に出頭してきて暴行を自白したので、身柄を確保しました」
「うん」
伊藤はマユミの入れた茶をすする。トランクは年配が多いので、夏でも暑い茶である。冷たいものは用意していない。
「なんで爆輝亜夢が素直に出頭してきたかというと、こいつは、去年おきた吹田会の大規模な麻薬取引について、重要な情報を握っているらしく、それをネタに吹田会に強請りをかけて、逆に命を狙われたからだと言うんですね」
「だから身の安全のために警察の庇護を求めたわけか」
「そうなんです。こいつを事情聴取のために神奈川県警から本庁に移送したいんですが、道中、吹田会による襲撃が予想されます」
「警察の車を襲うかねえ?」
「どうですかね、まあ、念には念を入れたいだけなので、もしかしたら、お嬢ちゃんたちの出番はなくて済むかもしれません」
マユミは体中の血液が足元から全部流れ出てしまったかのような感覚に襲われた。鈴木爆輝亜夢なんていう名前の男が二人も三人もいるものではない。間違いなく、あの男___大学で一緒だった男に違いない。
高校を出たマユミは大学に入った。正直なところ、入学試験もない、大学とは名ばかりのような所であった。入学したマユミはあるサークルに勧誘された。そこに二学年先輩の鈴木爆輝亜夢がいた。モデルかタレントかというような顔の良い男で、マユミにとっては、遠くから見ているだけでも十分な存在だった。
その爆輝亜夢が、地味でぱっとしないマユミに声をかけ、いろいろ優しくしてくれるようになった。今までそんな経験のなかったマユミは舞い上がってしまった。
しかし、しばらくすると鈴木は別の一年生と付き合いだした。マユミは自分の何がいけなかったのだろうと悩んだが、次の春に爆輝亜夢が、やはり垢抜けない新入生に手を出したのを見て、この男はそういう世間知らずの新入生専門の男なのだと理解した。
あれは自分にとっては軽い事故のようなものだったとマユミは思っている。消化済みの過去だと思っている。しかし今となって爆輝亜夢の名を聞くと動揺を抑えられない。
「どうしたの?」
和彦に声をかけられ、マユミは現実に引き戻された。「なんでもない」とマユミは言った。
夕方、いつものメンバーを乗せたトランクの偽装トラックは、神奈川県警についた。
伊藤、谷口が警察に呼ばれ、移送について打ち合わせをした。その結果、吹田組は地元大阪ではロケット砲をぶっ放すような凶暴な武闘派であるがゆえ、いざ襲撃があった際には周りに被害が拡大しないよう、深夜に、空き地や倉庫が並ぶ埋立地のルートで移送することになった。
「湾岸の空き地を通るなんて、吹田組に遠慮なく襲ってくださいって言ってるようなものだ」と伊藤が言ったが、馬絹も、
「本当に襲撃があったとして、それが街中で行われてしまったら、大惨事になります。我々としても難しい選択なのです」と言った。
午前零時になり、手錠をかけられた鈴木爆輝亜夢が、警察の護送車に乗せられた。窓に鉄格子のはまったバスである。
そこで爆輝亜夢は、警察の特殊部隊の服を着て、目出し帽を被った二人の子供みたいな隊員が、後ろのシートに座っているのを見た。
「おいおい、こんな子供みたいなやつらが俺をちゃんと守ってくれるわけ?」と爆輝亜夢は付き添いの警官に言った。
「いいから座れ」
「けっ」
爆輝亜夢は四人の警官に前後左右挟まれてシートに押し込められた。
護送車が発車し、その前後を警察の車両が走り、さらにその後ろ二百メートルくらいの間を空けて、トランクの偽装トラックが続いた。ドールの目から転送された映像をモニターで見ていたマユミは、爆輝亜夢を見て、やはりあの男だと思った。
昔からチャラチャラした男で、当時から大学生でありながら何か危険な仕事に携わっているという噂があったような人間だったので、今の爆輝亜夢のこの境遇は全く不思議なことではない。絶対に顔を合わせたくなかったが、自分はこのトラックの中にいる以上、自分が相手を見ることができても、相手からは見るのは不可能だ。大丈夫だとマユミは自分に言い聞かせた。
しばらく進むと、護送の一段は街を抜け、空き地の目立つ海岸沿いの道に入った。この辺りは新しい埋立地で、開発が進んでいない。
「来るなら、ここからだ」と馬絹は緊張した面持ちで言った。伊藤は最初に話を持ちかけられたときに、襲撃の可能性については不明で、ドールの出番はないかもしれないというようなことを馬絹が言っていたのに、先ほどの打ち合わせのとき、そして今の馬絹の様子など、だんだん、襲撃は必ず起こるような話になっていることに気がついた。畜生、はめられたのかと思ったとき、わき道から急に曲がってきた黒塗りの二台のセダンが、護送車とその前を走る警察車両の間に割って入った。
「きたぞ!」と森が言った。
二台の車が道をふさぐように斜めに止まり、護送車も止まらざるを得なくなった。車から拳銃や自動小銃を持った男達が降りてきた。
「今日こそは無事じゃ済まなそうだなあ」と丸子が泣きそうな顔で言った。
「そんな心配している場合か!」と森が緊張した面持ちで言った。




