十六
それから数日後、マユミは都内のワンルームマンションに引っ越した。
「これ、引越し蕎麦」
和彦はオフィスの近くの有名な蕎麦屋から買ってきた贈答用の蕎麦をマユミに手渡した。
いつもの甘味処である。
「ありがとう。でも多すぎ。十人前はあるんじゃないの? 毎晩夕食がおそばになっちゃうよ」
マユミは十人前の蕎麦が、和彦なりの祝いの気持ちの表れであることはわかった。
あんみつを食べながら和彦が言う。
「引っ越すってお父さんお母さんに話して、止められたりしなかったの?」
「いや全然」
マユミが一人暮らしをすると聞いて、マユミの両親は喜んだ。
夜、マユミが家にいないということが、比較的若いマユミの両親には都合が良かったのであるが、こんなに大きな娘を持つ親が、まだそういうことを続けていようとはマユミには思いも寄らない。
「まあ一人暮らしについては、俺は寺田さんより先輩だから、何でも聞いてよ」
和彦は胸を張って言った。
「え、中村くんって一人暮らしだったの?」とマユミは驚いた。
「知らなかったの? 両親二人とも、もういないんだよ」
「え……」
てっきり両親の篤い庇護の下、ぬくぬくと生きているのかと思っていた。
こんなに若くして両親と死別という不幸をこの男が背負っていようとは、普段のふざけた態度から、マユミには全く窺い知れなかった。
和彦がトランクに入る前はニートだったと常々聞かされている。それはもしかしたら、和彦がただの無気力や、やりたいことが見つからないとか、働いたら負けだという思想を持っているからではなく、両親の死が関係しているのではないかとマユミは思った。
親の死がきっかけで、外に出られなくなった時期を「ニートだった」と自虐するのは、いかにも和彦のやりそうなことではないか。
しかしマユミはその考えを直接口にはできず「じゃあ、ごはんとか、どうしてるの?」と聞いた。
「もちろん自炊してるよ」
「へぇー、偉いじゃん」
自炊をしていることと、両親の死別を乗り越えて生きていること、両方についてマユミは偉いと言っている。
「寺田さんから褒められると照れますなあ」
「どんな料理作ってるの?」
「昨日は醤油ラーメン」
「は?」
「一昨日は塩ラーメンで、その前はとんこつラーメン」
マユミは和彦を少しでも偉いと思ったことが馬鹿馬鹿しくなる。
「谷口さんって何歳なんだろう」と丸子が言った。
訓練場の休憩室である。
今日は谷口は来ていない。マユミも伊藤と外出している。
つまり、その部屋にいるのは和彦、丸子、森の三人の男だけである。
「偉そうだから年食ってるようにも思えるが、実際はそこそこ若いだろうな」と森が言った。
「ていうか、皆さんは何歳なんですか?」と和彦が聞いた。
丸子が二十九で、森が三十五ということだった。
「国防省の組織のことを知っていれば、ああいうポジションだと何歳くらいだろうとか想像はつくのだが」
「ていうか、丸子さん、なんでそんなに谷口さんの年齢が気になるの?」と和彦が聞くと、丸子はうろたえながら「いや、だってさあ……谷口さん、良くない?」と言葉をつかえながら言った。
思わぬ告白に、
「え」と和彦。
「え」と森。
「なんで?」意外に思われることが逆に意外な丸子である。
「だって谷口さん、なんか怖いし」
和彦は谷口に向けて言うくだらない冗談が、ことごとく相手にされないことを嘆いてみせた。
「うーん」と森は唸る。
実は森も谷口のことが気になっている。
先ほどの「え」は、おまえもかの「え」なのである。
「ああいう澄ましたした人に、二人っきりのときにべったり甘えてほしいんだよね」と丸子は力説した。
「丸子さんの願望は俗っぽいなあ」と和彦は笑った。
「ふふふ」と静かに笑う森も、実は同じ願望を持っている。
「でも無理だよなあ。谷口さんは国防省のお役人で、僕にはスペックが高すぎる」
高嶺の花の意である。丸子は悲観的になった。
「僕なんて、きっとドール大好きの変態整備士だって、谷口さんには思われてるだろうし、この歳で彼女いない暦イコール年齢だし」
つまりは童貞である。
「え」と和彦。
「え」と森。
「うわ、みんなで白い目で見ないでよ」
「いや、白い目でなんて見てないよ丸子さん。安心してよ。俺も童貞だし。ははは」と和彦が笑いながら言った。
「え、なんだ、そうなの? でも中村くんはまだ若いからなあ」と丸子は安心したように言った。
「うーむ」と森は唸る。
実はこの男も童貞なのである。
先ほどの「え」は、おまえもかの「え」である。
森は外見と中身がまるで違う。本人はおくびにも出さないが、この男はマンガやアニメが大好きで、軍の重要な任務の日に仮病をつかって職務を休み、同人誌の即売会に行ったことが発覚して、懲罰的にここに派遣されていた。
実るのか実らないのか、山のものとも海のものともつかないドールの訓練の担当というのは事実上の左遷であったが、本人の趣味趣向と一致してしまっていて、まったく懲罰の意味をなしていない。
「そういう中村くんはどうなの。たとえば……」と丸子が言いかけたとき、訓練場に谷口が入ってきたのがガラス越しに見えた。
「わ、谷口さんだ」と丸子が慌てた。
「みたこともないオッサンと一緒だ。誰だろう?」と和彦が言った。
谷口は大きなカバンをかかえて、その男と休憩室に入ってきて言った。
「ご苦労様です。伊藤さんはまだお戻りではありませんか?」
谷口と一緒に来たのは初老の……初老は本来四十歳のことだが、一般的に誤用されている五十半ばの……白髪交じりの頭を短く刈り込んだスーツ姿の男である。
森は男の雰囲気から刑事だと思った。
「こちらは公安の馬絹さんです」と谷口が紹介した。案の定であった。
「公安第一課の馬絹と申します。よろしく」
そのとき遅れて伊藤とマユミも帰ってきて、全員が揃った。
谷口は馬絹を伊藤たちにも紹介すると、
「というわけで、公安の馬絹さんがいらっしゃったのでお分かりかと思いますが、またお仕事の依頼が来ております」と言った。
実地訓練だったはずが、いつのまにか「お仕事」になっている。
「アジア解放同盟という極左ゲリラがおりまして、彼らが近々、大規模なテロを計画していることが我々の内偵で明らかになりました」と馬絹は言ってお茶を飲む。
「で、我々は連中がアジトとしているアパートを突き止めております」
「それこそ公安でふん縛ればいいじゃないですか」と伊藤が言った。
「これがですね。連中、相当な武器をためこんでいて、自動小銃のほか、ロケット砲に手榴弾……」
「わかりましたよ」と伊藤がうんざりしたように言った。
和彦が丸子の方を見てみると、丸子が青ざめている。ドールが蜂の巣にされたら、どうしようと心配しているのだ。
「作戦は明朝四時に決行します。皆さんにはブリーフィングの後、出動までここに待機していて頂きます」
「えー」と全員が不満を露にした。
「ひどいよ、突然ここに泊まれだなんて。着替えも持ってないし、お化粧道具もないのに」とマユミが不満げに言った。
「谷口さん、大きなカバン持ってきたじゃない? あれ、着替えとか入ってるんだよ。自分ばっかり、しっかり準備してきてさ。ずるいよ」
谷口が席を外してるのをよいことに、言いたい放題である。
「それにしても、ドールの運用方針は、公安の下働きというのが規定路線になったのかね」と伊藤が言った。
「伊藤さんはドールはどう運用されるのが望ましいと思うんですか?」とマユミが聞いた。
「うん。私は各国がドールの模擬戦をやったときに現場にいたわけだが……」
そういえば伊藤は模擬戦の様子を見てきたかのように語っていたと、和彦は思い出した。
「戦闘で破壊されるドールを見てね、いたたまれなかったんだよ。そういう意味では、私は丸子くんと同じくドール愛者なのかもしれない。でも考えてみると、私は戦闘機も戦車も好きで、要はドールに限らず兵器の類は大抵好きなんだ。好きなんだが、それらが破壊行為のために使われる道具であるにもかかわらず、それらが壊されるのを見るのは嫌いなんだよ」
和彦は伊藤がドールに秘められた力があるのを予見しながらも、それを引き出すのを渋るような態度を見せていた理由が分かったような気がした。
「稼動のためのコストを無視すれば、それこそ寺田さんが言っていた平和利用とか、国防軍のマスコットとしてイベントで手を振ったり、子供と写真を撮ったり。そういうのが良かったな」




