第7話
それから、数日後…
呂布は、再び献帝に呼び出されたのであった。
「数年前に起こった未曾有の疫病のことを覚えておるか」
献帝の問いかけに、
「はい。その時、拙者は并州におりましたが、そこでも周辺に住む多くの民たちを失いました」
呂布は、そう答えた。
「この洛陽においても、それはまさに地獄絵図であった。それゆえに、今後のことを考えれば、大規模な疫病に対して、なんらかの手をうっておかねばなるまい」
彼が、そう言うと、呂布は、
「ですが、大将軍様は、権力のある者や金のある者は、薬を買うことができるゆえ、我が身には関係ないとおっしゃり、何も考えようとしておられませぬ」
困った顔をした。それを見て、
「貧しい民のことは、まるで無関心か…困ったものだ」
献帝は、大きくため息をつくと、
「それに、最近出回っている薬は、先の疫病にはあまり効果がなかったそうじゃ。それゆえに、新しい薬を手に入れておく必要がある」
そう続けた。すると、呂布は、
「もしかして、白馬寺の和尚が言っていた薬のことですか。彼が言うには、如何なる疫病に対して、万能に利く薬の原材料が、ヒマラヤ山脈の麓に生えているとか」
数日前に訪れた際、雑談の中で、和尚から聞いた話を思い出し、勘を働かせた。
「そう、その話は、実に興味深いものであった。それがあれば、例え疫病が起ころうとも恐れることはなくなるはずじゃ。そして、それを我が国で栽培し、大量に製造して確保すれば、多くの民が死なずに済む」
献帝は、呂布をチラリと見て、
「呂布よ…西方へ渡り、その万能の薬のもとを探してきてくれぬか」
と、話すと、それを聞いた彼は、思わず仰天した。
「せ、拙者が、西方へ向かうのですか」
「そうじゃ…お主なら、苦難を乗り越えてたどり着けると思ってのう」
「インドの山奥まで行けとおっしゃられるのですか」
「そうじゃ」
「マジで、ヒマラヤまで!?」
「何度も同じことを言うな…耳にタコができるわい!!」
思わず、呂布は、空笑いした。
「しかし、それがしは無学なため、道もわからなければ、向こうの言葉もしゃべられません…ましてや異国の者と交渉をする自信もございませんぞ」
「案ずることはない。今、この洛陽に、羌の降将の子息で迷解と言う者がいるので、道案内を彼に頼むつもりじゃ。それに、朕の寵臣である伏完も同行させようと思うておる。彼は、西方の言葉をしゃべれるし、頭もキレるぞ」
と、献帝は、さらに続けた。
「あと、この間、読ませて頂いた四十二章経じゃが、ところどころで意味がわからないところがあった。おそらく、完璧に訳しきれていない部分があるのであろう…そこで、今回の遠征で、それを確かめ、完全に漢訳して欲しい。その件については、厳仏調と言う僧侶を同行させるゆえ、彼と協力をしながら任務に取り組んで欲しいと思う」
ちなみに、羌族は、中国北西部(現在の青海省の辺り)に住んでいる異民族で、迷解は、その地域を縄張りとした首領の一人・迷唐の孫にあたる。迷解の父は、漢民族との戦いに敗れて降伏したため、現在、彼は後漢の臣下となっていた。また、厳仏調と言う僧侶は、漢人で最初に出家した僧侶で、「古維摩詰経」を漢訳した人物である。
「わかりました。それでは、早急に出発致します」
呂布が、観念して腹を決めると、
「吉報を待っておるぞ」
献帝は、ニコリと笑ったのだった。
その後、入念に準備を済ませた呂布たちは、万全を期して西方への旅に出発する日を迎えたのであった…
「時々、無理難題を言うからな、陛下は…しかし、民や国の将来のことを考えた上でのことだから、文句は言えないが」
出発を前にして、呂布が、そう愚痴ると、
「しゃあないな…まあ、暇を持て余すよりはましか」
と、張遼が頭をかいて、
「何だかんだと言っても、陛下に尽くそうとされるところが、殿らしゅうございます。拙者は、とことん付き合いますぞ」
高順は、小さく笑った。すると、
「チベット高原は、我が庭のようなもの…大船に乗った気持ちで結構ですぞ」
と、迷解が言い、
「漢訳の修正を成功させるためにも、最善を尽くしましょう」
厳仏調が続けた。
「こちらこそ、宜しくお願い致します」
呂布は、今回の旅の同行者たちに深くお辞儀をすると、
「さあ、準備は整いましたぞ。呂布どの…号令をお願いします」
伏完が、そう促した。
「よし。では、出発だ」
今回の旅の隊長である呂布は、そう発し、おびただしい数の兵士や行商人、人夫たちを従えて洛陽をあとにしたのであった。
一方、その情報は、董卓の耳にも入った。
「ほう…それは、殊勝な心がけよのう」
その話を聞いた董卓は、大きく笑うと、
「だが、異民族のいる地域へ入る以上、命の保証はないと思うが」
李儒に視線を送り、
「昔、わしは西涼の太守として周辺の部族へ睨みを利かせていたことがあったため、羌族たちと親交がある。奴らに襲わせて、亡き者にしてやるか」
ニヤリと笑った。
「さすが、大将軍様…恐ろしいことを思いつきますな」
李儒は、薄気味悪く笑みを浮かべると、すぐに親交のある羌族に向けて使者を飛ばしたのだった。
そして、呂布の率いる使節団は、十日余りの歳月をかけて、漢陽(天水)の街に到達したのであった。
「これより先は、どんどん標高が高くなります。高山病などに注意してくだされ」
水先案内人の迷解が、そう説明すると、
「それがしは、并州で兵役についていたことがあるゆえ、高地での生活は慣れているから心配はいらぬぞ」
呂布は、穏やかに返した。
「ところで、迷解どの…これからの道中は如何に」
高順が、そう聞くと、
「ここからさらに北上して金城(蘭州)に入り、そこから西方に向けて西寧を通過し、青海湖に到達する道順を考えております」
「その先は」
「青海湖からは、いよいよチベット高原に入って縦断を行います。そして、エベレストを眺めながらヒマラヤ山脈を越え、カトマンズ渓谷を経てクシャーナ朝に入り、国都であるプルシャプラ(ペシャワール)を目指す予定です」
と、淡々と答えた。それを聞いた厳仏調は、
「今は亡きクシャーナ朝のカシニカ王は、仏教を手厚く保護され、高さ120mもある仏塔を建てられたそうだ。何だか、胸が高鳴るのう」
と、熱っぽく話すと、伏完が、
「こらこら、お主たち…そのヒマラヤ山脈を越える前に、万能薬の原料となる薬草や樹木を探すことを忘れてはなりませんぞ」
付け加えた。
「まだまだ、先は長そうだな」
呂布は、眼前に迫る山々を眺めながら、そう言葉を発したのであった。
使節団の途方もない旅は、さらに続いた…
漢陽を出た彼らは、歩みを止めることなく奥へ奥へと山間の道を進んだのだった。そして、やっとの思いで金城にたどり着くと、東西に横切る黄河をしばらく眺めながら、少しばかりの休憩を取ることにした。だが、次の日になると、またすぐに彼らは、西寧・青海湖を目指して、黙々と歩き出したのであった。それは、誰もが、献帝から受けた大任を全うし、揺れ動く自国のために尽くそうと思っていたからである。
「殿…目の前に、大きな湖が広がっております」
高順は、そう言って、指を差すと、
「ついに、青海湖までたどり着いたか…まるで、海のようだな」
呂布は、大きくため息をついた。ちなみに、青海湖は、西寧の西方、チベット高原の北東部に位置し、周囲から大小の河川が流入する中国で最大の面積を持つ塩湖である。
「青く澄んでいて、美しい湖だ。何だか、癒されますね」
高順は、そう言うと、その壮大な光景の前で、おもむろに肩の力を抜いた。と、荘厳な湖に目を奪われる呂布たちを、じっと観察する者たちがいた…
「どうやら、あいつらが董卓様の言っていた集団のようだな」
その者たちは、確認が終わると、不敵な笑みを浮かべた。
「漢の大将軍様のご命令だ。可哀相だが、彼らには死んでもらおう」
そう言うと、彼らは、一斉に躍り出て、使節団へ襲撃を開始したのであった。と、彼らの馬蹄の音に、いち早く気付いた呂布は、すぐに湖から目を背けて、侵入者たちを凝視したのだった。
「むう…夷狄の軍勢が、こっちへ向かって来るぞ。すぐに、臨戦体制を取れ」
呂布は、そう言い放つと、馬首を返して方天画戟を握りしめ、
「おのれ…漢の使節団と知っての狼藉か」
高順が睨みを利かせると、
「あべこべに叩きのめしてやる」
張遼は、刀を抜いていきり立った。そして、彼らは、迫りくる羌族の軍勢に対して、怯むことなく真正面から立ち向かっていったのであった。
「我は、この部族の首領・無吾だ。悪いが、ここで骸になってもらうぜ」
「この俺を骸にだと…笑止」
無吾は、果敢に呂布へ攻撃を仕掛けた。だが、
「ふふふ…甘い、甘い」
彼は、その攻撃を難なく受け流した。
「隙あり!」
「うわっ!」
その鋭い攻撃に、無吾は思わず武器を落とし、その拍子に落馬をしてしまった。
「くそっ!」
「動くな!」
彼は、落とした武器を取ろうとしたが、呂布に制され、
「ひっ捕らえろ」
彼の兵士たちによって、捕縛された。そして、
「そこまでだ、お前ら…これ以上、立ち向かえば、お前らの大将の首を斬り落とすぞ」
割れんばかりの大声を放った。それを見た無吾の部下たちは、一斉にぴたりと動きを止め、立ち尽くした。
「まずは、武器を捨てろ」
その脅迫に、彼らは武器を捨てて、膝を大地に付けたのだった。と、その時、呂布の背後から迷解が、すっと前へ出て来た。
「むう…お主は、迷唐どのの孫・迷解」
無吾が、そう声を上げると、
「幼き時に会って、それ以来だな。無吾よ」
彼は小さく笑い、
「お前ら、我らをなんと心得る…漢の皇帝、直々の使者であるぞ。我らに危害を加えることは、漢に敵対すると思え」
と、言い放った。すると、
「そ、そうとは知らず、なんと言うご無礼を」
無吾は、土下座した。
「わかればよい」
呂布は、そう笑って、
「ここで会ったのも、何かの縁だ。これからの道中に、同行して頂けるか」
彼に尋ねた。それを聞いた無吾は、
「我らのような者たちでよろしければ、是非とも護衛をさせてください」
彼の器量に感服したのだった。




