第43話
陳登の寝返りによって本拠地を取られた呂布軍は、徐州の出城である下邳へと逃げ込むことになったのだった。ちなみに、下邳は、徐州の東に位置し、黄河と淮河の堆積作用によって形成された黄淮平原にあり、北に微山湖、南に駱馬湖と大きな湖に囲まれている。
「ついに、ここまで追い詰めたぞ」
それに対して、曹操は追撃の手を緩めることのなく、その小城に迫り、ぐるりと取り囲んで陣地を張り巡らしたのであった。
「ものの見事に取り囲まれましたね」
城壁から周囲をぐるりと見渡した高順が呂布に問いかけると、彼は眉間にしわを寄せて、目を凝らした。
「曹操軍が、この城を取り囲んでいるだと…俺には、よく見えないんだが?」
彼の言葉に、高順は、
「殿には、あれだけたくさんいる曹操軍が見えないのですか」
あっけにとられた。
「よくわからんが、最近になって随分目が悪くなったようでな」
呂布は、そう言って、その場を立ち去ろうとした。すると、ふいに彼はつまずいて、その場で転んでしまったのだった。
「ああ…大丈夫ですか」
「むう…こんな所に窪みがあったとは…」
その様子を見た高順は、ふいに嫌な不安にかられた。
「殿…天下の名医と誉れ高き華佗が、この下邳に逗留されていると聞いております。その名医の診察を受けられてはどうですか」
「そうだな…」
こうして、呂布は、名医・華佗を呼び寄せ、診察を受けることにしたのであった。
「華佗どの…殿の目の具合は、如何なものでござるか」
じっくりと診察する華佗に、高順が声を荒げた。すると、彼は静かに目を閉じた後、
「残念ながら、呂布様の目は、じきに光を失うことになるでしょう…」
真摯な眼で高順を見つめたのだった。その診断結果に、
「失明してしまうのですか」
彼は両手で華佗の肩を掴んだ。
「何とか見えるようにはならないのですか」
「呂布様のご病気は、進行性のものです。恐れながら、私の力ではどうすることもできないでしょう」
華佗が、申し訳なさそうに言うと、
「そ、そんな…」
高順は、がっくりと膝を地面に落としたのだった。
「高順よ…これは、もはや天命かもしれん。天命とあれば、それに従うしかあるまい」
その様子を察した呂布は、頭を垂れて項垂れる彼に対して、そう気丈に振る舞った。そして、
「ありがとう、華佗どの…世話になったな」
礼を言うと、
「お力になることができず、無念です。どうかこの先、お体をご自愛されますよう願います」
華佗は、深くお辞儀して退出したのだった。
「高順…」
「はっ…何でございましょう」
呂布の呼ぶ声に、高順は涙を浮かべたが、
「この小城では、いずれ曹操軍に潰される。それ故、これを機に俺の首をはねて、曹操軍に降伏せよ。俺の首一つで、皆の命が助かることだろう」
その言葉に、かっと見開いて真剣な表情となり、
「そのようなことを申されるな。拙者を含めて皆が殿を慕い、付き従ってきたのでございますぞ!」
と、言い放つと、
「殿にお覚悟がござるのであれば、拙者も喜んでお供つかまつります。この城を枕に戦い抜き、見事に果てましょう」
気迫のこもった目で呂布を見つめた。そして、
「共に死んでくれると言うのか」
「このまま無抵抗で、曹操に降ることは死ぬよりも屈辱的なことです。武士の風上にもおけぬ恥ずべき行為です。拙者も武士の端くれである以上、戦って死にたいと思います」
そう淡々と述べた。すると、呂布は大きくため息をつき、
「お主の心意気は、ようわかった」
不自由となった目で必死に高順の姿を探してから、
「ならば、最期は武士らしく、華々しく散ってやるか…高順…」
ニヤリと笑うと、
「はっ…この高順、世の果てまで殿に付き従います」
高順も続けて、ニヤリとしたのであった。
その頃、陳宮はこの難局を打開するための策を必死に考えていた。そのため、部屋でじっとしていられなくなり、とうとう城内を彷徨い始めたのだった。そして、
「私は、呂布どのに賭けたのだ。曹操を倒すために、ここまでやってきたのだぞ」
彼は、自分に思いをぶつけ、
「策士よ…命ある限り、その脳で考えつくせ…例え、心の臓が止まっても、永遠に思考し続けるのだ…」
そう十分に言い聞かせた。と、そこへ、
「陳宮様…今日もお悩みのようですな。お勤め、ご苦労様です」
古くから呂布の配下として付き従ってきた白面鬼が現れた。
「おお…誰かと思えば、成廉どのか…」
陳宮がすぐに我に返り、穏やかな表情で相対すと、彼は顔を覆っていた白地の布を取り、素顔を見せて礼を尽くした。その顔を拝見した彼が、
「しかし、本当に君は、殿によく似ておられるな…殿の衣装を着れば、遠目では区別がつかないぞ」
そう話すと、
「殿に似ていることは、とても光栄の至りにございます。生んでくれた両親には、とても感謝していますよ」
成廉は、おもむろに照れ笑いした。何故なら、彼は、呂布にそっくりだと言うことで、臣下の間では、大いにもてはやされていたからだ。だが、彼はそのことに奢ることはなく、戦場では己の顔を隠し、白面鬼と言う名の影の存在として戦い、呂布を支えてきた。それは、まさに彼に対する貫き通された忠誠心と言う以外に他ならなかった。
「我が軍の強さは、まさにこの君臣の団結力にある。曹操ごときに、決して負けはせぬ」
彼に勇気づけられた陳宮は、心の底からそう感じた。と、ふいに、
「おっと…そう言えば、これから軍議を行うと殿が言っておられたな。急いで、参らないといかん。一緒に参ろう」
何かを思い出したかのように振舞って彼を促すと、
「はっ…では、お供致します」
軍議に参加するため、大急ぎで大広間へと向かったのであった。
「遅いぞ、陳宮に、成廉…」
「申し訳ない…色々と考えごとをしていたのでな」
高順にとがめられた陳宮と成廉は、深く頭を下げると、
「よし…では、これより今後の作戦についての軍議を行う」
軍議が始まったのであった。しかし、完全に曹操軍に包囲された状況で、良き対策案はなかなか出ることなかった。
「もはや、この策しかあるまい…」
その重苦しい雰囲気の中、陳宮は思い悩んだ末、おもむろに口を開いた。
「かくなる上は、掎角の計しかございますまい。殿が兵を率いて城外へ出られ、それがしは城で兵を構え、相互のタイミングを見計らって、敵陣の後方を攻撃し、敵軍を壊滅させるしかございません」
その献策に、呂布は大きく頷き、
「なるほど…曹操軍が俺を狙ってくれば、陳宮がその後方を突き、逆に敵軍がこの下邳の城を攻撃すれば、俺がその後方を突くと言うことだな。まさに、妙計…」
陳宮を褒めると、ふいに高順が声を発した。
「その作戦は、殿を危険にさらすことになる。それがしは、到底賛成しかねぬ」
それに対して、
「高順どの…この作戦は、曹操が殿を標的にしていることに加え、殿の人知を超えた武勇があって成せるものにございます。多少の危険はございますが、それがしはやってできない策だとは思っておりません」
陳宮は毅然とした態度で話すと、彼はこう切り換えした。
「陳宮どの…実は、殿の目は、もうじき光を失うことになるそうだ…」
「えっ…」
その発言に、家臣一同は騒然となった。
「誠なのか」
あまりのことに、陳宮は思わず耳を疑ったが、
「名医・華佗がそう診断したのだ。間違いはあるまい」
「なんと言うことだ」
それを耳にすると、思わず天を仰いで立ち往生した…と、そんな彼を尻目に呂布は、ゆっくりと口を開くと、こう言い放ったのだった。
「俺は構わん…どうせ、盲目の身になったとあれば、戦場にて役に立つ武将ではなくなる。その策で、曹操軍を壊滅させ、皆が生き延びられるのであれば、喜んでこの命を差し出そう」
だが、それを聞いた陳宮は、
「我が軍は、殿があってこそ成り立つのです。その殿がいなくなれば、この軍は死んだも同然にございます。ならば、それがしが城外へ出ておとりとなり、見事に死に花を咲かせましょう」
猛烈に反対すると、己の胸に宿す覚悟を滔々と述べた。彼は、わかっていた…喉から手が出るほどに曹操が欲しているものは、呂布と陳宮の印であることを…
「我らの志を、決して潰えてはならぬ」
動揺する諸将を見渡しながら、陳宮は小さく頷いて見せた。ところが、
「いえ…この大役は、それがしにお命じくだされ。それがしは、殿によく似ておりますので、衣装を貸してもらえれば、見事に殿の影武者となりましょう。それがしが、この命に代えてもその策を成功させてみせます」
横に控えていた成廉がふいに声を上げたことで、意外な結末に乗じた形で辺りはついに沈黙したのだった…と、その一時の最中、陳宮は即座に思考を続けた末、
「殿以外が、この役目を実行する場合、命の保証はできませぬぞ」
そう言い放ち、成廉をじっと見据えた。だが、その様子に彼は照れ笑いすると、
「それがしの命で、我が軍が助かるのなら、本望にございます」
真摯な目で陳宮に応えて見せた。そのやりとりに呂布は、おもむろに彼のいる方へ顔を向けると、
「成廉よ…その覚悟、しかと受け止めた」
穏やかな顔で静かに口にした。だが、すぐに真剣な表情となって、こう言い放った。
「だが、死に急ぐなよ。必ず、生きて帰ってこい」
「はっ…承知しました」
成廉は、彼に一礼すると、力強く声を発した。こうして、この窮地を打開するため、陳宮の考案した掎角の計が実行されることになったのであった。