第37話
その後、呂布と張飛は、必死に捜索したが、劉備たちを見つけることはできず、一旦徐州の城へ引き返した。そして、彼らは斥候をあちこちに放って、より広範囲に捜索を開始したのであった。
「兄者…どうか、無事であってくれ」
張飛は、落ち着きのない様子で、大広間をうろうろした。
「落ち着け…あとは、我々の優秀な斥候部隊が探し出してくれるはずだ。それに、劉備どのはそう簡単に死んでしまうような漢ではない。必ず、徐州へ戻ってくる」
そんな彼に対して、呂布は、絶えず励まし続けたのであった。
それから数日後のこと…
徐州の城に、劉備に従軍していたはずの魏越が、命からがらたどり着いた。そして、彼の話を聞いた張飛は、思わず仰天したのだった。
「なんと…兄者たちは、曹操のもとにいるのか」
その経緯は、次のようになる…
袁術軍と激突した劉備軍は、徹底的に打ち負かされ、瀕死の状態となった。と、そこへ、曹操軍がひょっこり現れ、こともあろうことか、劉備軍の加勢をしたのであった。それに驚いた彼らは、自軍の消耗を避けるため、すみやかに戦場から引き揚げていったのだった。無論、この戦の仕掛け人である曹操が、両軍の動向を探るべく密偵を放ち、機に応じて動く体制を整えていたことは言うまでもない。そして、曹操軍に助けられた劉備たちは、曹操の招待を受け、彼の軍門に降ったのであった。
「このままでは、呂布どのに申し訳が立たん」
その時、劉備に同行していた徐晃は、そう発して自決を試みようとした。だが、曹操は、才ある者を大切にし、適材適所にて人材を最大限に活用する優れた指導者である。徐晃の類まれなる武勇と冷静沈着な知性を認めていた彼は、献帝を守り、後漢を再興する道理を突き付けて思いとどまるよう説得したのであった。そして、曹操の説得に得心した徐晃は、無念を感じながらも彼の傘下に加わることを決めたのだった。
「何で、兄者は曹操に降っちまったんだよ」
張飛は、頭を抱えて嘆いた。劉備は、新参者の自分が徐州の旧臣たちから疎まれていることを察知していた。さらに、臣下の反対を押し切って戦争を決意したにもかかわらず惨敗を喫する結果となったのだ。当然、彼は面目丸つぶれとなり、帰るに帰れない状態となってしまったのであった。
「俺はダメな親分だ。君主たる者が、かように不甲斐なくてどうする」
劉備にとって、太守として政治を任されることは、徐州が初めてである。任された当初は、目を輝かせて精力的に行おうとした。だが、現実は想像以上に厳しく、思うようにまつりごとを行なえない自分に対して、次第に劣等感を抱くようになったのだった。
「それに比べて、曹操は献帝から信頼され、中央国家のまつりごとを着実に行い、人心を掌握している…彼の傍で、その政治手腕を見て学ぶ、絶好のチャンスかもしれぬ」
劉備は、曹操の力量を高く評価していた。それ故に、向上心を持って彼に近づこうと考えたのであった。
一方、曹操は、劉備ら有力者たちを徐州の地から切り離すことによって、徐州の攻略を容易にさせる狙いがあった。その結果、二人の利害が合致しため、劉備の曹操軍への投降が実現してしまったのである。
「劉備どのが、曹操の軍門に降った」
呂布は、強力な味方を失ったことにより、気が動転しそうになった。と、その時、張飛は、途端に真顔となり、こう発した。
「むむ…ならば、こうしちゃいられねえ。早く、兄者のもとに参らねば…」
それを聞いた呂布は、思わず彼を制した。
「待て…それは、お前も曹操軍に降ると言うことか?」
その問いかけに、
「仕方がないだろ…俺と兄者たちは、一心同体のようなものだ。兄者のもとへ参らねば、裏切り者のレッテルを貼られることになる」
張飛は眉をひそめた。
「お前は、それで満足なのか」
「満足な訳はない…俺だって、曹操はあんまり好きじゃないさ。だが、兄者がそう決めたのだから、文句はない」
それを聞いて、呂布は大きくため息をついた。
「わかった…お前たちの固い絆は、俺もよくわかっている。一刻も早く、劉備どののもとへ行き、彼を安心させてこい」
その言葉に、張飛は思わず涙ぐんだ。
「すまねえな…折角、お前とはこんなに仲良くなれたのにな…」
「謝ることはない。桃園の誓いで結束したお前らは、敵味方に分かれて戦ってはならないさ。それに、それを遵守することこそ、漢ってものだろう」
呂布は、そう言って、張飛の肩を叩いたのだった。ちなみに、桃園の誓いとは、劉備、関羽、張飛の3人が、全国にはびこる黄巾賊を鎮圧するべく挙兵した際に交わした義兄弟の契りである。その時、彼らは、「われら、生まれたときは違えども、願わくは同年同月同日に死なん」と、誓い合い、血よりも濃い結束をしたのであった。
翌日、呂布は、徐州を発とうとする張飛を城門まで付き添った。
「見送りは、ここまででいいぜ。今まで、色々とありがとうな」
彼は、そう言うと、ふいに呂布へ握手を求めた。
「道中は、くれぐれも気を付けるんだぞ」
それに対して、彼は、笑顔でそれに応えたのだった。すると、張飛は、穏やかな顔をして、こう続けたのであった。
「できれば、お前とは戦いたくないな」
「それは、こっちも同じことだ」
彼らは、そう言って、互いに見合った。
「しかし、今は戦乱の世だ。何が起こるか、わかったもんじゃねえ」
「ふっ…その時は、正々堂々と戦おうじゃないか。己のプライドを賭けてな」
すると、彼らは、少し間をおいてから豪快に笑ったのだった。彼らは、分かり合えた親友同士であると共に武人であったからである。
「じゃあ、行って来るぜ。達者でな…」
張飛は、掛け声と共に馬へまたがり、その腹を蹴った。そして、未練を断ち切るかのように、疾風の如く立ち去っていったのであった。
「お前こそ、しっかりやれよ!」
呂布は、そう大声を発して、大きく手を振ったのだった。
ある日のこと…
許昌の都にて、献帝がある噂を耳にし、
「なんと…異国の地・匈奴の曲を奏でる吟遊詩人が、この都に訪れておるのか」
すぐに、そう伏完に尋ねると、
「はい…噂では、その者は、匈奴で用いられている胡笳と言う笛を使って演奏するそうですぞ」
元気を取り戻した彼を見て、彼は嬉しそうに応えた。呂布と離れ離れになって以来、献帝はふさぎ込む日が多くなり、すっかりと元気が無くなっていたからである…
「そうか…この機会にその音色を、是非とも聞いてみたいものだ」
「かしこまりました…では、その詩人を宮中に招聘致し、匈奴の曲を演奏して頂くよう、お願いしてみましょう」
献帝の意志を賜った伏完は、そう答えると、すぐに宮中の者を使いに出したのだった…
献帝の申し出に対して、快く承諾した吟遊詩人は、礼を尽くして設けられた一席に招かれた。そして、彼の側近たちの注目を浴びる中、その詩人は謹んで宮中に胡笳の曲を響かせたのであった。
「おお…なんとも、切なく、儚い音色だ」
心へ響く演奏に献帝は、強く鷲掴みにされる思いを抱きながら酔いしれた。その曲数は十八にも達し、大作であると同時に真の傑作だった。
「すばらしい…見事な演奏であったぞ」
その音色が宮中に全て解き離れると、献帝は手を打って彼をねぎらった。そして、
「この曲は、君が作ったのか。それとも古来より匈奴で親しまれているものなのか」
そう詩人に問いかけた。すると、彼は、この曲の生みの親は、蔡文姫と言う漢の女人であると答えた。
「蔡文姫…まさか、我が遺臣・蔡邕の娘のことか」
献帝は、思わず目を大きく見開いた…蔡邕は、彼の父・霊帝の顧問を担っていた人物である。彼の娘として生まれた蔡文姫は、とある裕福な領主のもとに嫁いだのだが、異民族である匈奴に襲われてしまう。その際に、夫である領主は殺され、略奪の対象となった彼女は連れ去られた。その後、彼女は匈奴王の妾となり、二児の母となった…
「そうか…蔡邕の才女は、未だ健在であったか」
彼女の姿を脳裏に浮かべながら、献帝は安堵した様子を見せたが、すぐさま悲しい顔となった。
「彼女は、自らの意志で匈奴へ向かったのではない。異国の地で暮らすのは、さぞ寂しいことであろう…せめて、母国である漢の地へ戻してやりたいものじゃ」
だが、今や漢帝国には匈奴へ圧力をかける力はない…それどころか、あちこちで諸侯が乱立し、互いに覇を競い合う始末だから、纏まった兵を集めることすらできない状況なのだ。
呂布は、この音色を聴いて、果たしてどう思うだろうか…
ふと、そう考えた献帝は、徐州にいる呂布のもとへ訪れるよう、その吟遊詩人に懇願したのだった…
それから、数日後…吟遊詩人は、ふらりと徐州に現れた。
「なんと、都より匈奴の曲を届けに参られたのか」
彼と応対し、話を伺った呂布は、その献帝の粋な計らいに思わず目を丸くしたが、
「うむ…陛下のお墨付きの曲だ。是非とも聞かせてくだされ」
すぐさま我に返ると、その音色を拝聴することにしたのであった。
「では、始めさせて頂きます」
そう申すと、詩人は呂布の設けたささやかな一席の中で、悠然とした面持ちで、音色を奏で始めた。
「美しい音色だが、どことなく寂しい感じがする」
その曲を聴きながら、彼は何かを思い起こした。
献帝と共に長安を脱出した時のことを…そして、荒廃した洛陽で都の再建を図っていた頃のことを…
その懐かしい情景に、呂布は小さく笑った。
「そうか…陛下は、蔡文姫様の境遇が少し前の自分と重なり、彼女を不憫に思われたのだな。私も同感ですよ」
演奏が終了すると、呂布はすぐに手紙を書き始めた。
美しく感慨深き曲をくださり、大変ありがたく申し上げます。
時節が訪れた時、拙者自ら異国の地へ乗り込み、彼女を連れて帰りましょうぞ。
この手紙の一節を読み、献帝は大いに喜んだのであった…
余談になるが、その後において曹操は魏王となり、その際に蔡文姫の噂を聞いた彼は、匈奴王に圧力をかけて彼女を漢の地へ連れ戻している…曹操の意外な一面を伺うことができるエピソードの一つである。