第26話
話は少しさかのぼる…
張邈敗死後、曹操は、自身の勢力を揺るぎないものにするため、徐州遠征を一旦諦めることにした。そして、近隣諸国を着実に攻略し、足固めをしようと陳留の北に位置する濮陽を攻め、その太守の喬瑁を降伏させたのだった。
「兗州の地には、反董卓連合軍に参加した有力な諸侯がたくさんいる。それに、張邈のように空き巣を狙う輩が出てくる可能性もあるゆえ、事は慎重に進めた方が良いかもしれん」
そう考えた曹操は、占領した土地を確実に領土化するため、しばらくの間、治安の回復を図ろうと濮陽の地に駐留したのであった。すると、
「悠長に構えておりますと、他の勢力との覇権争いに支障をきたします。早々に濮陽を発ち、次のターゲットである東武陽へ向かいましょう」
曹操軍の将である棗祗は、毅然とした態度で、その意に反する進言をした。この棗祗と名乗る者は、数々の戦に参加して功績を残した知勇兼備の忠義の士で、後に韓浩らと共に屯田制の献言をし、それを実行した随一の名将であった。
「確かにそうだが、東武陽を統治する臧洪は、董卓討伐の際に活躍し、青州の盗賊団を壊滅させるなど多大な功績を残した良将…戦わずして、彼を屈服させる方法はないかと思案しているところなのだ」
その話に、曹操が答えると、
「臧洪は、張邈と親交が深く情に熱い御仁です。とても我らの軍門に降るとは思えませぬが」
棗祗は、反論をしたが、
「そうはやるな…既に親書も送っているのだから、もう少し待て」
却下されたのだった。
「組織の基礎は人にある。我が陣営をより強化するためには、多くの優秀な人材を如何にして確保するかが重要な鍵となる」
それが、曹操の理念であった。曹操自身も類まれなる英傑であることは間違いないのだが、彼は一人の力では限界があると悟っていたのだ。
「この曹操とて一人の人間である故に、過ちを犯すこともあろう…だからこそ、一つの概念にとらわれるのではなく、広く多方向から物事を見据え、限りなく正解に近いまつりごとをし、本当の意味で正しい漢帝国を…いやそれを上回る国家を築きたいのだ」
その言葉に、ふと疑問を持った棗祗が、
「ならば、先の徐州遠征の際に、我が軍に反抗した呂布や陳宮は如何に」
と、聞き返すと、
「彼らこそ真の傑物ゆえ、是非とも我が軍門に降らせたい…だが、予も神ではない故、我が戦略に全く相反するものを容認するわけにはいかぬ。もし、彼らがそれであれば、さらに予の前に大きく立ちはだかる存在なのであれば、打倒せざるを得ない最強最大のライバルとして、堂々と決闘しなければならないであろう」
曹操は、公然と言い放った。
「呂布と陳宮か」
その話に、棗祗は、人知を超えた二人の漢の名を徹底的に脳へ刻みつけたのだった。
「我が敵となるな、臧洪よ。予の力となってくれ」
だが、残念なことに棗祗の読みが当たり、曹操の要望に応じないと返書が届くと、
「やむを得んか」
曹操はこぼして、軍勢を東武陽へ向けたのであった。
そして、両軍は、東武陽の郊外で対峙した。
「曹操は、漢帝国征服の野心を抱き、我が親友の張邈を殺した憎き男…容赦することなく、徹底的に叩きのめすぞ」
臧洪は、そう鼓舞すると、果敢に曹操軍へ突撃してきたのだった。
「我らの恐ろしさを見せてやる」
その攻撃に、棗祗が先陣を切ると、
「臧洪は、おるか…この棗祗が相手だ」
と、タンカを切った。すると、
「棗祗だと…昌邑の地にて、張邈を斬った男か」
臧洪は、目の色を変え、
「友の仇を取らせてもらうぞ」
その一騎打ちに応じたのであった。そして、彼らは数十合を斬り結び、激闘を重ねていったのだった。
「あの棗祗を相手に互角の戦いとは」
その戦いぶりを見て、曹操は感嘆したが、
「そろそろ罠にはめるとするか」
冷静な頭脳に切り替えて、辺りにドラの音を響き渡らせた。
「むう…勝負は、また後日」
その引きあげの合図に、棗祗が素早く反応して、戦線を離脱しようとすると、
「逃がすか」
臧洪は、仇を逃すまいと追いかけた。それに伴い、臧洪軍は夢中になって曹操軍を追走し始めたのであった。そして、いつの間にか彼らは、深い山野の奥へと足を踏み入れてしまったのだった。
「完全に逃げ切られたか」
と、彼が、そう呟いた瞬間、四方八方から火矢が襲いかかり、辺りはみるみるうちに紅蓮の炎を上げ出した。
「しまった…火殺の罠か」
曹操の奇計に、臧洪は思わず声をあげると、即座に脱出の号令を出した。そして、この戦いで臧洪軍は、大半の兵士をことごとく焼かれてしまったため、彼は籠城戦に望みを賭けることになったのである。
翌朝…
曹操軍の東武陽城の攻撃が始まった。
「我らの義を貫くのだ」
臧洪は、そう力強く叫ぶと、城壁から矢の雨を迫りくる曹操軍へ浴びせたのだった。すると、
「もはや奴らの兵は、残りわずかだ。力ずくでねじ伏せろ」
曹操も負けまいと味方を鼓舞し続け、次々と兵士たちを投入していった。こうして、彼らの激しいせめぎ合いは、幾日も経ったのであった。
「さすが、臧洪の指揮する軍勢だな。あれだけの兵で、ここまで堅固に守るとは」
戦果をあげられない曹操が苛立つと、
「いえ…敵は、既に半死半生のはずですぞ。密偵の報告によれば、城内の兵糧は底を尽き、鼠を食って餓えを凌いでいるとのことです」
傍にいた棗祗が、そう答えた。
「城内の者が、そこまで彼を支持していると言うことか…やはり、殺すには惜しい」
「ですが、張邈の仇を取らんと結束しているのであれば、降伏はありますまい。義士に恥をかかせてはなりません」
その言葉に、曹操は決意を固めると、
「城を落としたあかつきには、天下の義士のために碑を設けることにしよう」
と、言って、目を閉じた。そして、数日間の攻防の末、東武陽はついに陥落し、志のある八千人の将兵と民草は、臧洪と共に自決したのであった。
こうして、東武陽が陥落すると、拍車をかけた曹操軍は、済北、東平、任城を占拠し、兗州一帯をものの見事に制圧したのであった。そして、その後においても、彼らの勢いは止まることを知らず、兗州に近接する豫州の魯、下邑と言う都市を攻め取り、譙の太守である孔伷を屈服させたのだった。
「皆の協力もあり、豫州の大半を制することができた。まずは、心から礼を言う」
曹操は、譙城で酒宴を開き、部下たちをねぎらうと、
「あと残すは、袁術が支配する陳、汝南、陽翟の三都市。そして、憎き陶謙が直轄領としている沛国だ。今後の働きを期待しているぞ」
と、抱負を述べた。すると、
「しかしながら、反董卓連合軍の盟友だった袁術は、これまでの諸侯と比べて、いささか強敵に存じます。決して油断なされぬよう願います」
参謀の荀彧が、そう苦言を呈した。袁術は、反董卓連合軍解散後、中原を支配しようと寿春から遠征軍を出発させ、周辺の諸国を攻略し、版図を広げつつあった。
「うむ…しかし、奴との覇権争いを避けては通れぬであろう。ここからが、正念場だ」
曹操は、不敵な笑みを見せながら、そう発すると、並々と注がれた酒杯をぐいっと飲み干したのだった。
それから数日後…
曹操軍は、意気揚々と近接する陳城を目指したのであった。
「のこのことやって来たか…だが、その程度の兵力では、この堅固な陳の城を落とすことはできないであろう」
陳城の守将である橋蕤は、そう口にすると、
「汝南、陽翟には、既に援軍を要請している。彼らが到着するまで、城門を閉じて徹底的に守り抜くぞ」
命令を下したのだった。
「殿…敵は、城門を固く閉じ、籠城戦に持ち込むようですぞ」
「そうか」
その報告を聞いた曹操は、冷笑すると、
「我が軍の恐ろしさを、とくと教えてやれ」
攻撃の号令を発した。
「矢を放て」
橋蕤の掛け声に、城兵は一斉に矢を放って応戦を開始し、押し寄せて来る曹操軍の兵士をことごとく射殺していった。すると、飛び交う矢の雨の中、曹操は、
「なるほど…一筋縄ではいかぬようだな」
目を細めて呟き、
「だが、演出は、派手にやった方が良い」
余裕の笑みを浮かべたのだった。そして、数刻の間、激しい攻城戦を続けたが、日が沈む頃になると、あっさりと自軍の陣営へと引き上げたのであった。
こうして、幾日もの間、その攻撃は延々と繰り返された。
「敵の城の様子は、どうだ」
曹操は、そう尋ねると、
「はい。我が軍が、東門ばかりを狙って攻撃を繰り返したため、城兵たちは東門に集中しております」
「狙い通りだ」
曹操は、目を光らすと、
「西門側に伏せている部隊へ伝えろ。明朝、西門を攻撃せよとな」
すぐに間者を走らせたのであった。すると、
「偽撃転殺の計ですな。さすがは、わが君」
彼の横に控えていた知謀の士である荀攸は、思わず顎をしゃくり、
「この奇策は、そもそもお主の発案であろう…遠慮なく使わせてもらうぞ」
「有り難き幸せ」
彼の言葉に、深くお辞儀したのだった。
そして、明朝になると、曹操は相も変わらず東門を攻め上げた。
「何度やって来ようとも、びくともせぬわ…この愚か者めが」
橋蕤は、そう言い放つと、惜しみなく矢を放たせた。そして、常に東門を徹底的に狙われると言う概念が染みついた城兵たちは、反射的に東門へと集中していったのだった。と、その時、
「大変です。西門より敵兵が迫っております」
「な、何っ!」
その報告を聞いた彼は、急に血相を変え、
「しまった…奴らの真意は、始めから西門だったのか」
口走ると同時に、城兵を西門へ向かわせようとした。だが、時は既に遅く、西門を突破した曹操軍は、みるみるうちに城内の兵士たちを容赦なく斬り殺していった。その最中、橋蕤も彼らの餌食となり、あえない最期を迎えたのだった。
「政庁を押さえたぞ。勝ち鬨を上げろ」
曹操の号令に、兵士たちは大きな声を張り上げ、拳を天に突き出したのであった。