第23話
こうして、献帝のもとに呂布の書簡が届けられた。
「おお…長安の近くまで来たか。これで、ようやく洛陽へ戻れるのう」
彼が、鼻息を荒くすると、
「うふふ…久しぶりに見ましたわ。陛下の笑顔を」
彼の妃である伏皇后は、口に手を当てて上品に笑った。ちなみに、献帝は少し前に、朝臣たちの勧めで、自分と同い年の幼い妻を娶っている。
「洛陽までの道のりは遠く、またそこは荒れ果てた廃墟であろう…それでも、朕について来てくれるか」
思いがけない彼の問いに、
「ほほほ…この期に及んで、何を言われますか」
彼女は、優しい目で見つめた。
「陛下とご一緒であれば、何も怖いものはございません。それに、困難は夫婦で分かち合い、力を合わせて乗り越えていくものにございます。願わくは、どこまでもわらわを陛下と共にさせてくださいませ」
「おお、よくぞ言ってくれた…朕は、これほど嬉しいことはない」
彼は、そう言うと、恥ずかしがる彼女をそっと抱き寄せた。
「仲睦まじく、結構なことでござりますな」
それを傍で見ていた伏皇后の父にあたる伏完は、軽く咳払いをすると、
「陛下…長安を脱出する準備は、万全でございます。陛下がお声を発すれば、いつでも行動できますぞ」
力強く言って、満面の笑顔を見せた。すると、
「李傕には、陛下は大好きな狩りへ行くと言っております。また、彼に異心を持ち、陛下に忠誠を誓う者で楊奉と言いますが、李傕はその者を信用しております。その者が、今回の陛下の警護に就いて同行しますので、李傕は安心しきっているようですぞ」
新しく後漢の大尉となった楊彪は、李傕の目をうまく欺いたことを説明した。さらに、
「無論、我らも同行いたします。案ずることは、何一つありませぬ」
行軍校尉の尚弘は、そう自信を持って述べたのだった。
「皆の者、本当にご苦労であった。心から礼を言うぞ」
献帝は、感謝の意を込めて、忠義の士たちに頭を下げたのであった。
そして、献帝と伏皇后を乗せた車は、狩りへ行くと称して禁門を出て行った。献帝の一行は、楊彪、伏完、尚弘、楊奉など一角の人物が従ったため、おびただしい数の人夫たちと荷車を連ねて、長安の城門をくぐって行ったのであった。
「何だか、お供の数がやけに多い気がするが」
不審に思った城兵は、すぐに上司へ報告した。
「うむ。確かに、妙だな。すぐに上へ報告しよう」
こうして、下からの報告は、伝言ゲームの如く上へ上へと順々に報告されていった。そして、その話は時間をかけて、ようやく李傕のもとにまで達したのだった。
「何だと…そんな大人数を率いて、陛下は狩りへ出かけただと」
部下の報告を聞いた彼は、思わず仰天した。
「むう…あやしいな」
李傕は、兵士たちを集めて、献帝の住む宮殿内を捜索するよう命じた。すると、数時間後、宮殿内の捜索へ行った兵士たちが戻って来て、こう報告したのだった。
「大変です…宮廷内は、もぬけの殻です」
「ぬう…やはり、長安からの逃亡を計ったのか。絶対に逃がさんぞ」
帝を擁すると官軍となり他の諸侯へ幅を利かせることができるが、その庇護を受けられなくなったり、帝にたてついたりすると逆賊の汚名を被せられて標的にされると言う理屈は世の常であったため、李傕は激高したのである。と、その時、彼の斥候の一人が息を荒げて駆け込んできたのだった。
「一大事です…西涼の馬騰が、兵を挙げ、長安を目指しております」
「な、何っ…馬騰が、この長安に向かっているだと」
李傕は、たちまち表情を豹変させた。馬騰は、董卓に代わって新しく西涼に赴任した群雄の一人で、献帝に対して忠義の厚い漢であった。ちなみに、西涼は、長安の西に位置する辺境の地で、周辺の異民族の侵略を阻止するための要害である。同郷の者同士だったので、李傕は自分に対して刃向うことはないとたかをくくっていたのだが、陳宮の書状によって献帝の真意を悟った馬騰は、忠節を全うするため、義兄弟の契りを交わした盟友・韓遂と共に兵を動かしたのだった。無論、馬騰は陳宮と言う人物を知らないので、書状の名義は献帝の親衛隊長である呂布としてある。これが、陳宮の講じた秘策であり、李傕と馬騰を引き離して、お互いを争わせる離間の策であった。
「むう…こんな非常時に、長安へ攻め入って来るとは」
思案の末、李傕は勇猛な騎馬兵を持つ馬騰軍を迎撃するために、甥の李暹と李別に大半の兵士を与えて出撃させた。
「まあ、献帝を捕まえるだけのことだから、そこまでの兵力は必要あるまい」
そう考えた李傕は、すぐに軍勢を整えて、献帝の一行を追いかけることにしたのだった。
一方、献帝らは、何かに憑りつかれたかのように、洛陽を目指していた。そして、一時も速度を緩めることなく、かなりの距離を進んだのだった。
「陛下…そんな強行軍をして、お体にさわりませんか」
伏完が、そう問いかけると献帝は、
「李傕は、いずれ我らの真意を察するであろう。それゆえ、我らは進めるだけ進んでおく必要がある」
と、述べて、
「それに、こうやって長安から離れれば離れるほど、焦って追いかけてくる奴らの軍勢は、長蛇の陣のごとく細長くなるであろう。使いの者から聞いた呂布の伝言は、その状態を作り出して欲しいとのことであったからな」
小さく笑った。
「長蛇の陣ですと」
と、伏完は、ふいにはっとした。
「ま、まさか…」
呂布の狙いを察知した伏完は、目を大きく見開いたのであった。と、その時、後方からおびただしい馬の蹄の音が聞こえてきた。
「陛下…追手が押し寄せてきましたぞ」
楊奉は、大声を上げて報告した。
「もう追いついてきたか…ならば、その荷車の積み荷を破って撒き散らすのじゃ」
献帝は、そう指示して、人夫たちに積み荷の袋を破らせた。すると、中から輝かしい金銀財宝が、わっと目に飛び込んできた。
「李傕は、自分だけが富貴を楽しみ、部下たちにはロクに褒美を与えていないと聞く。目の前に財宝が転がっていれば、飢えた生活を強いられている兵士たちは、それを自分の物にしようとやっきになるであろう」
彼は、そう言って、ニヤリと笑った。すると、楊彪は、
「おお…なるほど、陛下もなかなかの策士でございますな」
その奇策を聞いて、思わず感嘆した。そして、
「さあ、皆の者…それを、辺り一面に撒き散らすのだ」
尚弘の号令により、人夫たちは、次から次へと積み荷を破って、金銀財宝をばら撒き始めたのであった。
「うむ…そのくらいでよかろう。では、先を急ぐとしよう」
「皆の者…出発だ」
伏完の下知を受け、献帝の一行は再び動き始めたのだった。
その後、彼らを追ってきた先鋒の者たちは、まんまと献帝の策略にかかった…彼らは、皆貧しい暮らしを強いられていた者ばかりだったため、一面に広がる財宝に目を奪われたのである。そして、彼らは、いつしか献帝追走の任務を忘れ、夢中になって金銀を拾い集めたのであった。
その頃、呂布たちは、ある山野に身を潜めていた。
「だいぶ、敵の軍勢は長く伸びてきたようだな」
呂布は、通り過ぎていく敵の軍勢を横目に、ニヤリと笑った。
「如何に大軍を率いても、ここまで伸びきってしまえば、大軍の意味はなくなる。それに、この集団は、李傕が力で抑えつけて無理やりまとめている烏合の衆にすぎないため、奴の首さえとれば、簡単に自滅していくだろうからな」
その彼の作戦を聞いて、高順は、
「あとは、ここに奴が通ってくるのを待つだけですな」
彼へ目配せをした。と、その時、馬にまたがった大将らしき者が現れたのだった。
「おお…あれこそ、まさに李傕」
呂布は、すぐに部下へ命令を出し、山野から踊り出た。すると、李傕は、
「むう…伏兵がおったか」
ぐいっと手綱を引っ張り、馬脚の動きを制した。そして、眉間にしわを寄せながら、方天画戟を構える敵を見据えたのだった。
「李傕よ…先日の裏切りの恨み、ここで晴らしてくれる」
それを聞いていきり立った李傕は、
「ぬう…こしゃくなり」
傍らにいる配下たちに合図を送り、彼を仕留めようとした。しかし、
「貴様ら、ザコどもの相手は俺たちがする」
高順、成廉、薛蘭らが行く手を阻んで、ことごとく斬り捨てたのであった。それを見て李傕が慄く中、躊躇うことなく呂布はさらに一歩進み出ると、彼を睨みつけて、こう言い放った。
「天下を我が物とし、この世をさらなる地獄へ導いた貴様の罪は重い…ここで、数々の大罪を悔い、再び良心を戻してワビを入れろ」
それを聞いた李傕が、怒りを頂点にさせ、
「ほざけ、若僧が!」
と、吠えると、長刀をぶんぶんと振りまわして、彼へ殺意をほとばしらせた。そして、彼を目掛けて馬を走らせたのだった。
「予に逆らう者は、全て骸だ」
「愚かな…李傕よ、敗れたり」
呂布は目を光らせ、彼の鋭利な攻撃をさっとかわすと、すかさず喉へと突きを食らわせたのであった。
「ぐわあっ!」
と、その勢いで、彼の首は胴体からちぎり取られ、天を舞ってから大地に落ちた。そして、その首はまるでボールのようにコロコロと転がり、彼の兵士たちの目の前でピタリと静止したのだった。こうして、あの董卓から力の全てを奪い、栄耀栄華を極めた巨悪の幕が、儚く閉じたのであった。
「逆賊・李傕は、この呂布が討ち取った」
呂布は、そう大声を発して、李傕の死を高らかと宣言した。すると、
「ひい…御大将がやられた。もう、だめだ」
それを聞くやいなや、李傕の兵士たちは、瞬く間にパニック状態となって敗走を始めた。前述もしたが、李傕は、自分と近親の者だけで富貴を独占し、部下たちにはろくな手当は出さず、奴隷のように扱った。そのため、厭戦気分が蔓延しており、命を懸けて戦おうとする者は、誰一人としていなかったのである。その好機を得た呂布たちは、
「皆の者、追撃だ」
ここぞとばかりに、逃げまどう敵兵を手当たり次第になぎ倒していったのであった。
一方、呂布と別行動をとった張遼と韓暹ら白波賊は、一軍を率いて李傕らよりも先へ進んでいた郭汜の軍勢と激突していた。そして、
「これより先には行かせるな。殿が合流して来るまで、戦い抜くのだ」
「おいらたち、白波賊の力を今こそ、見せつけるぞ」
張遼は部下たちにそう鼓舞し、韓暹は迫り来る兵士たちを次々と討ち取っていった。
「おのれ、田舎侍どもが!」
郭汜が、そう言いかけた時、矢傷を受けた兵士の一人が彼のもとに現れた。
「一大事です…殿が討たれました」
「な、何っ!」
その報告を受けた李傕軍は、みるみるうちに大混乱に陥った。そして、戦意を失った彼らは、次から次へと張遼たちの餌食となっていった。
「取り乱すな、お前ら!」
と、郭汜が必死に自軍を立て直そうとした時、李傕を討った勢いで、呂布たちが怒涛の如くなだれ込んできたのだった。
「さあ、みんなで大掃除だ…かかれ!」
「おお、殿が来たぞ…これで、我らの勝利は確実だ」
呂布の姿を目にし、勇気づけられた張遼たちは、士気をさらに上げた。こうして、李傕軍は、とうとう挟み撃ちになってしまったのであった。
「こうなったら、俺一人だけでも戦い抜いてやる」
次々と味方が討たれていく中、郭汜は鬼神のごとく槍を振りかざし、敵を突き殺していった。しかし、如何に手練れの勇将であっても限界がある。気が付いた頃には、彼の周りには味方は一人もなく、彼自身も疲労のあまり身動きすらできない状態となってしまったのだった。と、そこへ、張遼が単騎で近づいてきた。
「郭汜よ…ここで殺すには惜しい。我らに降りたまえ」
その勧告に対して、郭汜は小さく笑った。
「武人として生まれ、戦場で死ぬのは本望だ。ゆえに、俺はここで散ることにする」
彼の答えを聞いた張遼は、その士道に心を打ち、
「ならば、名もなき雑兵に貴殿を殺させるわけにはいかん。俺が、介錯をしよう」
「ありがたい」
無抵抗の彼を突き殺したのであった。
一方、馬騰軍を迎え撃つために出撃した李暹と李別の大兵団は、彼らと死闘を繰り広げて辛くも痛み分けとなったが、その最中で李暹と李別は戦死した。その後、徹底的に打ちのめされた李傕の残党たちは、命からがら長安へたどり着いたのだが、愚かなことに主柱を失った彼らはたちまち権力争いを始めた。そのため、彼らは自然消滅への道を歩むことになってしまったのであった。
こうして、李傕軍の追手を阻止した呂布たちは、無事に献帝の一行と合流したのだった。そして、呂布は、献帝と念願の再会を果たしたのである。
「久しぶりだのう。元気にしておったか」
献帝は、呂布の顔を見て、満面の笑顔となった。
「はい…献帝もお元気そうでなによりです」
「今度こそ、朕と共に漢を復興させていこうな」
彼の言葉に、
「ありがたき幸せ…この呂布は、いつまでも献帝の味方ですぞ」
呂布は、大きく頷いたのだった。
「さあ、先を急ぎましょう。我らが都、洛陽へ…」
そして、彼らは沈みゆく夕日に背を向けて、希望に満ちた彼方へと旅立っていったのであった…