第1話
この話は、中国史に登場する一人の猛将の話で、舞台は広大な中華人民共和国となり、長江以北にて、彼が繰り広げたドラマを書き綴ったものである…
光武帝が後漢王朝を建国してから百年が過ぎていた…
第十一代皇帝・霊帝は、政治に関心がなく、皇后や貴妃の外戚とそれを取り巻く一部の官僚、後宮の事務を司る宦官たちに託して、自らは後宮に美女を集めて、酒池肉林の世界に興じていた。そして、彼らも霊帝が政治に無関心なことをよいことに、これまた私利私欲に走り、公然と賄賂が横行したのであった。
彼らの堕落は悪政を招き、重税や夫役に苦しめられた領民の怒りが爆発し、各地で反乱が勃発した。それに対して、王朝はその大規模な反乱を鎮圧するために各地の豪族と義勇軍を用いたのだった。その結果、反乱軍の鎮圧には成功したが、同時に群雄と呼ばれる武装勢力を生み出すことになってしまったのである。そのような状況の中、群雄の一人である西涼の太守・董卓は、天下を手中に収めようと野心を抱き、二十万の軍勢を率いて首都・洛陽に迫った。成す術を失った中央政府は、董卓の入城を拒むことができず、とうとう彼に実権を奪われてしまったのであった…
時は、西暦で189年…時代は、後漢末期。年号は、中平6年となる。
後漢の大将軍となった董卓は、各地に散らばる群雄たちへ号令をかけ、洛陽にて緊急会議を開くことを伝えた。その呼びかけに対して、彼らは新たな指導者へ自らの忠誠心を見せようと、こぞって洛陽を目指したのだった。
その中に、愛馬・赤兎馬にまたがり、果てしない荒野を威風堂々と行軍する并州の刺史・丁原がいた。并州は、現在では太原にあたり、洛陽から遥か北に位置する太原盆地にある。国境に近いことから、北方の遊牧民族にとっては、中原に進出するための要地だったので、王朝はここに軍隊を駐留させて、北の守りを固めていたのであった。
「さすがのお前も、少々疲れてきたか」
丁原は、そう言って、赤兎馬の首をなでた。赤兎馬は、その体を真紅に染め、隆々とした見事な体躯を持ち、一日千里を走ると言われるぐらいの名馬だ。そして、異民族との戦いの中でも、彼らに怯むことなく、縦横無尽に軍中を駆け回る豪胆さも備えていた。
「よしよし…あと、ひとふんばりだぞ」
そう言うと、丁原は真横に居並ぶ見事な体格を持つ青年に目を向けた。今回の招集で、彼は自慢の養子を同行させて洛陽へと向かっていたのだ。
その養子は、性を呂、名を布、字を奉先と言った。生まれは、并州五原郡九原県で、そこは遊牧騎馬民族である匈奴との国境付近にあたるため、彼にはモンゴル系の血が流れている説もある。そして、彼は、武芸百般に秀でた一騎当千の武人でもあった。自身が愛用する方天画戟を前に、彼と互角に渡り合える者は誰一人存在しなかったので、次第に彼の名は天下へ鳴り響き、“人中の呂布”と評されるに至るほどだった。そんな彼の武勇と実直な人柄をこよなく愛した丁原は、子宝に恵まれなかったこともあったため、少しも迷うことなく彼を養子としたのであった。
「物心のついた時から父母の顔も知らず、無我夢中で生きてきたが、ようやく本当の父と巡り合えた気がする」
それに痛く感激をした呂布は、彼を本当の父親として敬った。そして、片時も彼から離れることなく付き従い、度重なる異民族の侵略をことごとく阻止したのだった。
「もう少しで洛陽に着くな」
丁原は、呂布にそう声をかけた。
「そうですね。しかし、今回の召集は、一体何でありましょうか」
その問いかけに、丁原は、
「詳しいことは、わからん」
と、静かに目を閉じ、
「自分が天下を取ったことを、世に知らしめるための所業かもしれん」
ゆっくりと言葉を吐き出した。すると、呂布は、
「董卓は、軍勢を率いて中央政府を脅迫し、それを乗っ取った輩です。そんな男に、天下を任せて、大丈夫なのでしょうか」
眉をひそめた。
「各地の群雄も同じことを思っておるだろうな」
「すると…まだ、天下は平定しないと」
「うむ。世の中はもっと混乱することだろう」
丁原は、ふと空を見上げた。
「これからは、用心して生きていかないといけない世の中になる。董卓がうんぬんと言うのではなく、各地の群雄が野心を抱いて、我こそが中原の覇者になろうと天下を狙い、権力争いを演じることになるだろうな」
「…」
その話に、呂布が沈黙した時、
「あれを見よ」
丁原はある光景に気付いて、おもむろに指をさした。呂布は、彼に言われるがまま、視線をそこへ移すと、それを見て思わず息を飲んだ。
「日輪に霧がかかり、虹の環を成しておりますな」
「あれこそ、古き世が終わりを告げ、新しき世が興る兆候だ」
時は正午であるにも関わらず、四方八方は薄暗く、吹き抜ける風はひどく冷たかった…その閑散とした荒野の頭上に浮かぶ、不気味な七色の環を眺めながら、二人は乱世の始まりを感じずにはいられなかったのであった。
と、その時、丁原らより先行して先の様子をうかがっていた高順と名乗る家臣が、戻って来た。彼もまた武芸の達人であり、何よりも忠義に厚い男だったので、丁原に重用されていた。
「丁原様…洛陽の街が見えて来ましたぞ。城外では、既に多くの群雄たちが集結し、陣営を張っております」
それを聞いた丁原は、
「そうか…ならば、少し急ぐとするか」
自らが率いてきた手勢に号令をかけ、急ぎ洛陽へ向かったのであった。
洛陽に到着した丁原は、すぐに部下たちに命じて陣営を張らせると、呂布を従えて城内へと足を運んだのだった。
「ここが、洛陽の都か」
後漢の首都・洛陽に入った呂布は、思わずため息をこぼした。その活気に満ちた街は、道行く道に人があふれ、子どもは笑いながらはしゃぎ、貴婦人はきれいに着飾っていたからだ。そして、露天はところ狭しと軒を連ね、各地から取り寄せためずらしい品が、その店頭に大胆に並べられる様は、この都の豊かさが如何なるものであるかを十分に証明するものだった。さらに、并州の田舎では見ることができないような豪奢な建物が、果てしなく遠くまで居並ぶあり様は、まさに東周の平王の時代より、古代中国の中心地として栄えてきた奥深き歴史を感じさせるものであり、首都としての貫禄をまざまざと見せつけるものであった。
「さあ、さあ…寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。ここにある品物は、遠く西方より仕入れたとても価値のあるものだよ。買わなきゃ、後で必ず後悔するときたもんだ」
その豊富な品揃えを武器に、各地から集まった行商の者たちは、こぞって熱烈な宣伝合戦を繰り広げて道行く者を呼び寄せ、
「ほほう…これは、また見事な品だな。手にしたいが、少々高い気がするのう」
立ち止まったお客たちは、それを手に取って見定めながら、少しでも安く買い叩かんと値切りの交渉合戦に興じ出すと、
「どちらも、幾戦の買い物を経験してきた駆け引き上手な猛者たち…さて、この取り組みの軍配は如何に」
その光景に、暇を持て余す周りの野次馬たちが、大いに彼らを囃し立てた。そんな彼らの他愛無い一時をよそに、
「ははは…こんな忙しないところで、碁を打っている奴がいるぞ。さすがに大都市だけあって、色んな連中がいるものだな」
その人波の坩堝の中、そんなものはお構いなしと言わんばかりに、道端のベンチにどかっと腰かけて、悠長に茶をすすりながら碁に興じる者たちを見て、呂布は笑いながら顎をしゃくった。すると、丁原は、
「こんな所で、道草を食っている場合ではない」
そう言って、すぐに彼をたしなめた。そして、
「折角、はるばる并州より参ったのです。もっと、この雰囲気に浸りとうござります」
「バカ者…我らは、ここへ遊びにきたのでは無いのだぞ」
彼は脇目も振れることなく、呂布を連れて宮廷へと参内したのであった。
「まずは、少帝様にご挨拶をしなければ」
丁原は、最近になって、即位をした少帝に挨拶をしようと急ぎ向かった。前皇帝である霊帝は、酒色にふけり、不摂生な日々を過ごしたせいか、若くして病死したのだった。そのため、成人したばかりの彼の息子が、急に後を継ぐことになった…とは言え、後漢の臣下として、忠勤に励む思いの強い丁原は、決してそれをないがしろにしてはならないと、強く感じていたのだった。
「父上。董卓どのには、挨拶に行かれないのですか」
呂布は、彼がその名を口にしないので、ふと気になって尋ねてみた。すると、丁原は、
「そうだったな。でも、まずは帝に拝謁してからだ」
と、言って、
「わしは、どうもあの野心家のことが好きになれん」
ぼやいた。彼もまた、董卓をよく思わない群雄の一人だったからである。
「私も、力づくで実権を奪い、それを利用して勝手なことばかりする輩は、好きになれません」
呂布が、力強く答えると、
「うむ。さすが、わしの息子だ」
そう小さく笑った。そして、呂布に勇気づけられた彼は、歩みを止めることなく、皇帝の謁見に臨んだのであった。
拝謁の許可を取り付けた丁原と呂布は、煌びやかに装飾が施された大きな柱が居並び、何千何万の人々が集まっても、まったく窮屈さを感じないほどの広大な謁見の間へ通された。すると、眼前に広がる高い檀上にかかっていた大きな幕がするりするりと上がっていき、香のかおりと共に少帝が姿を現したのだった。
「よくぞ、遠路よりお越しくだされた。さぞ、大変な道のりであったろう」
若い皇帝は、威厳を保ちつつも、丁原を温かく迎えた。
「漢の臣下であれば、当然のこと…帝にご拝謁でき、至極光栄にございます」
彼は、深々と頭を下げた。すると、少帝は、
「なんと、心強い言葉」
と、言って、
「朕は、即位したばかりで、不安なことだらけじゃ。これからも、朕の良き力となってくれ。丁原よ」
表情を和らげた。それを聞いた彼は、
「もったいなき、お言葉。今後も、さらなる忠誠を誓います」
述べたのだった。と、その時、少帝の横で控えていた陳留王が、ふいに声を発した。彼は、現皇帝の年の離れた腹違いの弟で、まだ9歳になったばかりのあどけない少年だ。
「丁原どの。あなたの横で、控えておられる御仁は誰ですか」
「はい。我が息子の呂布と申す者にございます」
傍らに居並ぶ屈強の若武者を、丁原がさらりと紹介すると、
「なんと…そなたが、あの人中の呂布と評されたほどの天下の豪傑だったのか」
彼は、大きく目を見開いた。そして、
「拙者のことをご存じだとは…光栄の極みでございます」
呂布が静かに会釈をすると、
「私もあなたと会うことができて、至極嬉しく思うぞ」
にっこりと笑い、
「折角だから、是非そちの極め抜いた武芸をこの目で見てみたいのう」
と、続けた。その要望に、少帝は、
「うむ…それは、良いかもしれんな」
笑顔を見せてから、呂布に目を向けて、
「どうであろう…今度、一緒に狩りにでも連れて行ってもらえぬか」
と、聞いた。その言葉に、
「拙者のような者が、陳留王様のお供にですと」
呂布は、思わず目を丸くした。彼は、群雄に仕える一介の武人である。そのような身分の者が、帝の親族と共に行動をすることなど、当時では考えられない話だ。
「構わん。我が弟の、たっての望みじゃ。朕が許す」
少帝は、にこやかに笑った。すると、呂布は、
「もったいなきお言葉…拙者で良ければ、いつでもお供をさせて頂きます」
あまりのことに深く頭を下げた。
「では、楽しみにしておるぞ。呂布よ」
それを聞いた陳留王は、元気の良い笑顔を見せたのであった。