第6話:聖徳寺の変貌 ~尾張の『怪物』の初舞台~
一五五三年(天文二十二年)、五月。 尾張と美濃の国境に近い、富田の聖徳寺。 境内の空気は、陽炎が立つほどの熱気と、それ以上に重苦しい沈黙に支配されていた。
周囲を囲むのは、美濃から率いてきた斎藤道三の精鋭七百余名。彼らの視線には隠しきれない困惑が混じっていた。
「……あれが、尾張のうつけか」
山門の脇、街道を見下ろす小さな小屋の影で、一人の老人が呟いた。 マムシの道三。一代で国を盗り、近隣諸国を震撼させてきたその眼は、今、街道を進んでくる「異形」を捉えていた。
先頭をゆくのは、虎の皮を纏い、髪を茶筅に結び、腰にいくつもの瓢箪をぶら下げた若者――織田信長。 馬上で欠伸をし、道端の草を噛み、時折不敵な笑いを浮かべるその姿は、噂に違わぬ「大うつけ」そのものだ。 だが、道三が真に戦慄したのは、その背後であった。
「あの槍は何だ……。三間以上はある。狂っておるのか」
信長の背後に続く五百の兵。 彼らが掲げるのは、当時主流だった槍の倍近い長さを誇る「三間半(約六・五メートル)」の長槍。それが、抜けるような青空に向かって、銀の林のように聳え立っている。
そして何より、その兵たちの歩法だ。 うつけの主君がどれほど勝手に振る舞おうとも、背後の軍勢は太鼓の音に合わせ、一寸の乱れもなく、地鳴りのような足音を響かせて進んでくる。
(……個の混沌と、集の秩序。この凄まじい不一致……。信長という男、何者だ?)
道三の脳内に、未知の恐怖が走った。 それは、私が現代のマネジメント知識を総動員して仕掛けた、最初の「認知的不協和」――すなわち、脳をバグらせるための演出だった。
◆◆◆
聖徳寺の控室。 私は、籠から降りるや否や、現場監督としての鋭い視線で周囲を射抜いた。
傍らには、兵たちの行軍を完璧に完遂させた平手政秀様が控えている。
「政秀様、兵たちの配置は?」
「はっ。姫様の仰せ通り、美濃の兵と向かい合わせに、彫像のごとく動かぬよう命じてあります。美濃の連中は、見たこともない長槍と、我が方の沈黙に気圧されておりますな」
「よろしい。……さて、殿。お着替えの時間ですわ」
私は、奥の間に座る信長様に歩み寄った。
信長様は、先ほどまでの「うつけ」の顔をかなぐり捨て、鏡も見ずに、私が用意した漆黒の装束へと腕を通した。
マネージャーとして、多くのタレントの「化ける瞬間」を見てきたが、この御方ほど、衣装一つで空気の色を塗り替える存在を、私は知らない。
「帰蝶。マムシの目は、すでに半分死んでいるぞ。……外での槍の揃い踏みに、思考が追いついておらぬ」
「ええ。ですが、ここからが本番です。父上は今、殿を『制御不能な狂人』だと思い込んでいます。その思い込みを、一瞬で『底知れぬ賢王』へと上書きするのです」
私は、信長様の襟元を整えながら、最後の演出指導を施した。
「殿、対面の間では、ただ座っていてください。父が何を言おうと、茶を啜ろうと、呼吸一つ乱さず。……沈黙こそが、最もコストの低い、しかし最も効果的な威圧となります」
「ククッ。……貴様の言う通りにしてやろう。静寂でマムシを絞め殺すのも、一興だ」
◆◆◆
会見の間。 斎藤道三は、上座に座り、じっと障子が開くのを待っていた。
彼の頭には、先ほどの「虎皮を纏ったうつけ」が、どのような不作法を仕掛けてくるか、その対策で一杯だった。
だが。
静かに、音もなく障子が開かれた。
そこに現れたのは――。
髪を端正に結い、一切の無駄を削ぎ落とした漆黒の直垂を纏った、一人の若き貴公子であった。
その所作には一点の乱れもなく、畳を摺る足音すら聞こえない。
若者は道三の正面に座ると、視線を逸らすことなく、深い闇のような双眸で、真っ向から道三を射抜いた。
(……な、何だ、この男は……!?)
道三の手が、微かに震えた。 先ほどのうつけはどこへ行った。 目の前にいるのは、圧倒的な「静」を纏った、完成された支配者。
あまりの落差に、道三の経験則が悲鳴を上げる。 これこそが、私が狙ったギャップ戦略の極致だった。
「……お初にお目にかかる。織田弾正忠信長である」
信長様の声が、重厚な低音となって室内に響いた。 その一言だけで、部屋の主導権は完全に信長様のものとなった。
「……。……美濃の、斎藤山城守道三だ」
道三は、ようやくそれだけを絞り出した。 冷酷無比なマムシが、たかだか二十歳の若者を前にして、言葉を失っている。 私は、部屋の隅に控えながら、心の中でガッツポーズを作った。
(勝った。……この瞬間、歴史の『不可逆な点』を一つ越えたわ)
史実では、道三はこの後に「うつけは芝居であったか」と問う。だが、今の道三はそれすら聞けない。信長様の発する圧力が、そんな低次元な質問を許さないのだ。 道三は、震える手で茶碗を手に取り、一口啜った。
「信長殿。……那古野の城内が、随分と片付いていると聞いた。兵の規律も、今の美濃を凌ぐほど。……あれは、誰が教えたものか」
道三の探るような問い。私は、信長様が答える前に、一歩前へ出た。 これは、プロデューサーとしての私の仕事だ。
「父上。それは私と、平手政秀様が、殿の『理』を形にしただけにございます。殿は、この日ノ本のすべてを、あの長槍のように『規格統一』しようとなさっている。……父上、貴方はその第一の目撃者になられたのです」
道三の目が、私を捉えた。
将としての驚愕。そして、父としてのどこか誇らしげな、寂しげな笑み。
「……帰蝶。貴様、マムシの娘だと思っていたが……。とんでもない『仕掛け人』を与えてしまったか、信長殿」
道三は、そう言って豪快に笑い飛ばした。 その笑いには、もはや敵対心はなかった。
あるのは、自分を超える新しい時代の到来を認めた、敗北の清々しさだ。
「信長殿。……わが子たちは、貴殿の門前に馬を繋ぐことになるだろう。」
歴史上の名台詞が、さらに重みを増して語られた。
◆◆◆
会見を終え、那古野へと戻る帰路。 夕日に照らされる街道を、再び織田の軍勢が進む。
「帰蝶。……面白かったぞ。マムシが、あの老いぼれが、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていた。……ククッ、あんな顔、初めて見たわ」
信長様が、馬上で声を弾ませる。 その隣を歩く政秀様も、誇らしげに胸を張っていた。
「姫様。これで、美濃との同盟は盤石。いや、それ以上です。大殿は、織田の家を『自分たちが投資すべき最高の銘柄』だと確信なさったに違いありますまい」
政秀様が、私の教えた現代用語を少し混ぜて笑う。
私は、空を仰いだ。 史実では、斎藤道三は三年後の「長良川の戦い」で、息子・義龍に殺される。
だが、今回の会見で、道三は信長の「組織としての強さ」を骨の髄まで理解した。
もし、道三が義龍を『組織に仇なすバグ』として早期に処理するか、あるいは織田の軍事力を背景に美濃の内部統制を強めれば――。
(……長良川の戦い、回避できるかもしれない。そして道三様が生き残れば、信長様の背後は永遠に安泰になる。……これが、私の起こすバタフライ・エフェクト!)
本能寺の変という、最大の労働争議を回避するための道。 それはまだ遠いが、確かな一歩を踏み出した。
私は、隣をゆく若きCEO――信長様の横顔を見つめた。
その瞳は、すでに美濃の先、天下という名の巨大な市場を見据えていた。




