第4話:筆頭家老のメンタルケア ~自害フラグへし折り大作戦~
那古野城の夜は、昨日までとは見違えるほど静かだった。 廊下を塞いでいたガラクタが消え、風が淀みなく吹き抜けていく。
だが、その清潔な静寂の中で、一人だけ『深刻な不全』に陥っている人物がいた。
「……わしの役目は、終わったのだな」
織田家筆頭家老、平手政秀。 彼は自室で、震える手で筆を握っていた。
机の上には、殿への最後の忠言を記した――歴史に名高い「諫死の書」が置かれようとしている。
◆◆◆
(……見つけた。平手政秀の、『自害フラグ』)
私は襖の影から、その様子を冷静に、だが心臓を鳴らしながら観察していた。
歴史では、政秀は信長様の奇行を正すために自ら命を絶つ。 だが、現代の組織心理学の目で見れば、その本質は「諫言」ではない。
急激な変化に置き去りにされたベテランの、『自己有用感の喪失』。 自分の信じた価値観が全否定され、居場所を失ったことによる絶望だ。
(ここで彼を救えるかどうかは、私にとっての最大の検証ポイント。歴史上の『確定事項』を上書きできれば、本能寺を回避できる証明になるはずよね……!)
私は意を決して、政秀様の部屋の敷居を跨いだ。
「夜分に失礼いたします。政秀様、少し……二人でお話しできませんか?」
◆◆◆
その声が鼓膜を震わせた瞬間、政秀の背筋を冷たい悪寒が走り抜けた。 深夜の静寂に紛れ、音もなく現れたその影。 政秀は手元の書状を握りしめた。指先が微かに震えているのを、必死に膝の上で隠す。
(……来たか。蝮の娘が)
斎藤道三。 美濃の国盗り、恩人を追い落とし、冷酷無比な謀略で近隣諸国を震え上がらせる「蝮」。 その血を引くこの女が織田家に輿入れしてからというもの、家中は目に見えて変質していった。
これまで政秀が必死に守り、積み上げてきた織田の秩序。 若君・信長の破天荒さを補い、辛うじて保ってきた均衡。 それらが、この女のひと振りの袖、ひとつの微笑みによって、音を立てて崩れ去っていく。 家臣たちは疑心暗鬼に陥り、古き者たちは居場所を失い、まるで目に見えない毒が城内に回っているかのようだった。
政秀は、自分の中に芽生えた感情を「恐怖」だと理解していた。 それは死への恐怖ではない。 自分が心血を注いできた「織田」という家が、内側から食い破られ、全く別の何かに塗り替えられてしまうことへの、根源的な恐怖だ。
ゆっくりと、首を動かす。 視界の端に映る、闇に溶けるような美しい着物の裾。 逃げ場のない密室で、自分は何を試されるのか。あるいは、ここで消されるのか。 老いた心臓が、痛いほどにその拍動を速めていた。
◆◆◆
政秀様が、驚いたように顔を上げた。その瞳には、私への「恐怖」がはっきりと浮かんでいる。 彼にとって、私は昨日までの織田家を壊した「美濃の魔女」なのだ。
「……濃姫様。老い先短い老臣に、何のご用でしょうか。……掃除の足りぬ場所でもございましたか?」
自虐的な笑み。机の上の書状。 それを見ただけで、私の胸が痛んだ。
「政秀様。……殿の新しい方針に、ご自分の居場所がないとお嘆きですね?」
「……。殿は、合理という刃で那古野を研ぎ澄まされました。情けや伝統を重んじるわしのような老兵は、もはや殿の歩みを止める『澱み』。……それゆえ、あの錆びた槍と共に捨てられるのが道理かと」
自分を、今日廃棄された武具と重ね合わせている。 私はあえて、政秀様の目の前に座り、静かに首を振った。
「それは、政秀様の『大きな思い違い』です」
「……思い違い、でございますか?」
「殿は天才です。ですが、天才の弱点をご存知ですか? それは、『自分以外の人間が、なぜ理解できないのかが理解できない』ことです。今日、小島様もお松様も、殿の言葉に震えるだけでした。……なぜか分かりますか?」
政秀様は、答えられず私を見つめる。
「殿の言葉が『高次元』すぎて、現場がついていけないからです。殿の言葉を噛み砕き、家臣たちが納得できる形に直せる人間が、今の織田家には絶望的に足りない。……そして、私一人では、到底手が足りないのです」
「濃姫様でも、でございますか?」
「ええ。私は新参者。私が知らない『これまでの織田家』、その伝統と絆を知る貴方にしか救えない心が、この城にはたくさんあります。殿が『刃』なら、私はそれを振るうための『理』。そして政秀様、貴方はそれらを優しく収める『鞘』なのです」
政秀様の目が、大きく見開かれた。
「貴方がいなくなれば、殿の刃は味方すら切り刻み、この織田家は自壊します。……政秀様。お願いです。私と共に、殿の孤独を救い、家臣たちを守る『防波堤』になっていただけませんか? 二人で力を合わせ、この織田家を支えたいのです」
政秀様の震える手が、机の上の遺書から離れた。 冷徹な魔女だと思っていた女が、自分を「不要なゴミ」としてではなく、組織に不可欠な『パートナー』として必要としている。
「わしは……捨てられるのではなく、まだ……お役に立てるのか。姫様と共に、殿を……」
「もちろんです。政秀様、その書状は、どうか火鉢に。……貴方に死なれては、私が一番困るのです」
政秀様は震える手で、書きかけの遺書を丸め、火の中へと投じた。 その瞬間、私の視界の中で、歴史の歯車が「ガチリ」と音を立てて外れた気がした。
(やった……。私の手で平手政秀の諫死を、歴史を変えらるかも。……なら、いけるわ。本能寺の変だって、絶対に上書きしてみせる!)
◆◆◆
翌朝。 那古野城の廊下には、昨日までよりもずっと柔和な顔で、侍女や武士たちに細やかに声をかける平手政秀の姿があった。
「お松。昨日は急な指示で苦労をかけたな。だが、お主が道を拓いたおかげで、殿もいたくお喜びであったぞ。……これからは、何事もまずわしに相談せよ。わしが姫様と共に、良きように計らってやろう」
「政秀様……! はい、それならば安心でございます!」
現場の『信頼』が劇的に向上していく。 それを見守る信長様は、相変わらず無愛想だったが、政秀様が差し出した茶を一口飲み、短く言った。
「……政秀。無駄口が増えたな。……だが、不味くない」
「ははっ。もったいなきお言葉」
信長様も、政秀様の「変化」に気づいている。 そしてそれを、拒絶していない。
私は城壁から空を見上げ、独りごちた。
(歴史の修正、成功。……でも、これは始まりに過ぎないわね。私のような『翻訳者』を、もっと増やして組織を厚くしなきゃ。……織田信長を死なせない経営、本気で完遂させてみせるわ)
【業務報告】 ・平手政秀:自害フラグ折却に成功。 ・役割変更:筆頭家老 兼 最高人事責任者(CHRO)。 ・中長期目標:マネジメント層の育成(翻訳者の増員)。
お読みいただきありがとうございます!
次回、第5話。斎藤道三が、ついに動き出します。
「帰蝶よ。貴様、那古野で何をやらかしている……?」
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