第32話:伝統が米を食らう
岐阜城の奥に位置する一室は、昼なお暗く、ただ行灯の油が爆ぜる音と、乾いた紙が擦れ合う音だけが支配していた。
部屋の主、織田弾正忠信長は、文机の前に座し、山と積まれた美濃各地の村々から届けられた「年貢目録」と、湊奉行の手による「津料の帳面」を交互に睨みつけていた。
その瞳は、獲物を追う猛禽のそれ、複雑に絡み合った糸の結び目を見極めようとする、冷徹な工匠の鋭さを孕んでいる。
「……五郎左。この数字をどう見る」
低く、地を這うような声。 傍らに控えていた丹羽長秀は、主君の指先が示す一点を見つめ、静かに息を呑んだ。そこには、墨の跡も生々しい各村からの出荷量と、城下の蔵に入った実数の差が、克明に記されていた。
「北濃の三つの村から出た米が、城下の市に届くまでに一割強、場所によっては二割弱も忽然と消えておる。これだけの量が一度に失われれば、牛馬の足取りは軽くなり、街道はこぼれた黄金の粒で埋め尽くされよう。だが、報告には事故も野盗の被害も記されておらぬ。……道中で鳥が喰うたか、あるいは袋にことごとく穴でも空いておったか」
信長は、細い指先で帳面を叩いた。パチン、と乾いた音が静寂を打つ。
村の作付け面積から導き出される収穫の理論値、人足の数、そして荷揚げされた後の実数。そこに生じている不整合。誤差として流される不当不実。
「……五郎左。これは不慮の事態ではない。意図された『企み』だ。どこぞの誰かが、この領内の巡りをせき止め、私腹を肥やすための溝を掘っておる。巡りが滞れば、血は腐る。血が腐れば、織田の理は立ち行かぬ」
領内を巡る銭や米は、人体を流れる血に等しい。
それがどこかで一滴でも不当に失われることを、彼は自身の肉体が削られるのと同じほどの激しい不快感とともに、拒絶していた。
彼は立ち上がり、窓の外に広がる岐阜の城下を見下ろした。活気ある市場の喧騒が、遠く微かに聞こえてくる。だがその活気の裏側で、目に見えぬ「誤差」という名の病魔が、彼の築き上げた「理」を蝕んでいることを、信長は確信していた。
◆◆◆
一方、城の客間に控えていた明智十兵衛光秀は、自身の端正な顔立ちに、深い疲労と困惑の色を隠せずにいた。
彼は、足利義昭の使者として、上洛の際の儀礼や、幕府がいかに古き良き秩序を取り戻すべきかを、連日にわたって信長に説き続けてきた。十兵衛にとって、秩序とは「美しい形」そのものであり、正しき儀礼の積み重ねこそが、荒廃した日の本を救う唯一の道であると信じて疑わなかった。
だが、その信念は、織田信長という男の「合理」の前に、日々、微塵に砕かれていた。
光秀は、自身の狩衣の袖を整え、乱れのない己の所作を鏡に映したが、そこに映る自分は、実のない抜け殻のように思えてならなかった。
廊下を歩けば、織田の家臣たちが「時は金なり」と言わんばかりの速度で走り回り、商人が帳面を片手に武士と対等に言葉を交わしている。そこには、十兵衛が愛した「古き良き静寂」も「身分の規矩」も存在しない。
(私は、壊れゆく幕府という名の、形ばかりの美しい器を繕っているだけなのか……)
光秀は、懐から一冊の和歌の古書を取り出した。かつて藤吉郎から「殿からの期待の裏返しだ」と手渡された、帰蝶の差し金による一冊だ。
そこに記された静謐な美しさと、目の前で繰り広げられる、数字と効率に支配された織田の現実。その乖離に、彼は死人のような顔をして、ただ立ち尽くすしかなかった。彼は「正しさ」を求めていた。だが、その正しさが、人々の営みを救う「実」を伴わないのであれば、それは果たして正義と呼べるのか。 光秀の潔癖な心根は、自身の拠り所を求めて、激しく揺れ動いていた。
◆◆◆
翌朝、信長は突如として市場の検分を宣言した。
供を連れた信長が市場に現れると、それまでの活気は一瞬で凍りつき、役人や商人たちは一斉に平伏した。信長は、不正を疑われている徴収役人の前に立ち、その男が米の計量に使っている、古びた、しかし手入れの行き届いた枡を指差した。
「その枡は、代々伝わる正しき規矩のものか」
役人は震える声で答えた。
「はっ……! 先代様より譲り受けた、この地の正しき一升枡にございます。一点の曇りもございませぬ」
「ほう、一点の曇りもなしか」
信長は、有無を言わさぬ動作で役人からその枡を奪い取ると、自らの懐から取り出した織田家の「木瓜紋」が刻印された枡と並べて置いた。
「見よ。この二つの器、大きさも形も、寸分違わぬように見えるな」
傍らの長秀が、衆人の前で二つの枡を重ね、横に並べ、外見上の差異がほぼ無いことを厳かに示した。 信長は満足げに頷くと、背後の供が担いできた一袋の米を指差した。
「悪いが、今日は俺の持ってきたこの枡を使え。同じ大きさなら問題あるまい。だが念の為、正しき規矩であることを示そうではないか。俺の蔵から出したこの一斗 (十升)の米を、今ここで十の小袋に分けてみよ」
役人は、不可解な表情を浮かべながらも、命じられるままに作業を始めた。枡に米を摺り切り一杯に入れ、丁寧に移し替えていく。十回の計量が終わり、米袋は最後の一粒まで過不足なく空になった。代わりに十の袋が並ぶ。
「よかろう。五郎佐、米を戻せ」
十の袋から再び大袋に戻される。
そして信長は五郎左から役人の枡を受け取り、それを乱暴に投げ返した。
「もう一度、十の小袋に分けてみよ。ただし、今度はお前の枡でな」
役人が、言われるまま枡に米を摺り切り一杯に入れ、丁寧に移し替えていく。一升、二升、三升……。先ほどと同じように米を摺り切っているはずだった。だが、十回目の計量を終えた時 、周囲にいた野次馬から、どよめきが上がった。
信長が用意した「一斗」の袋の底には、まだ、一升近い米が不気味に居座っていたのである。
「……さて。どう説明する、この『余り』を」
信長の声は、氷の楔のように役人の脳天に打ち込まれた。
「貴様の枡も俺の枡も、見かけは同じ大きさ。……だというのに、なぜ貴様の枡では米が袋に残る?
算盤を弾くまでもない。十回量り、一升残るなら、貴様の『一升』は、俺の『一升』より一割以上も小さいということだ。……それとも、米が袋の中で子でも産んだか? 貴様の枡は米を喰ろうて生きているのか?」
「そ、それは……! 米の座り具合や、袋の湿り気で……」
「黙れ、この不実者が!」
信長の一喝が市場を切り裂いた。
「米の座り具合で一割も差が出るか! 先ほど俺の枡で量った時は丁度になったのだ。条件は同じ、違うのは器だけよ。
つまり貴様はこれまでこの小さな枡を使い、民に渡す糧食を削り、俺に納める年貢を誤魔化し、その差分を己の懐に流し込んだ。……この『余り』の米は、貴様がこれまでに盗み取ってきた、民の汗と涙そのものよ!」
続けざま信長はその枡を鷲掴みにし、地面の大石へと、凄まじい力で叩きつけた。
――乾いた破砕音と共に、枡は粉々に砕け散った。 飛び散った木片の間から、異様な断面が露わになる。
本来の底板の上に、巧妙に削り出された二重の「上げ底」が仕込まれており、その裏側には、わずかな空洞が隠されていた。外見を同じく見せかけながら、その実、中身だけを確実に一割弱「削り取る」ための、精緻な虚偽の器であった。
「貴様はこの『誤差』という名の不実を積み重ね、民から奪い、俺の算を狂わせた。……この地の伝統とは、盗みをするための隠れ蓑か」
信長の冷徹な断罪が市場に響き渡った。 その光景を後ろで見ていた光秀は、雷に打たれたような衝撃を受けていた。
信長は、ただ伝統を踏みつけにするだけの男ではない。一国の主として自国を富ます為、自国の民を富ます為になら伝統も神仏も踏みつけて邁進していく男なのだ。
光秀の瞳に、初めて「織田の理」の恐ろしくも美しい本質が、強烈な光を伴って焼き付けられた瞬間であった。




