第31話:浅井の決断
小谷城、評定の間。
比叡山の使者刑部坊が放つ、古びた経典の煤と強い沈香が混ざり合った、鼻を突くような臭気が部屋の空気を重く支配していた。
「……長政殿、返答を。織田の道か、山との絆か。仏の慈悲を捨てるというのなら、この小谷は明日より業火に焼かれる修羅の巷となろう」
刑部坊が数珠を激しく鳴らす。その音は、耳の奥にこびりつく呪詛のように響き、床に平伏する老臣たちの肩を、目に見えて震えさせていた。
浅井長政は、そのあまりに重く、しかし実体のない言葉の礫に、蒼白な顔で唇を噛み締めている。
その、淀みきった評定の間に、一条の涼風が吹き抜けた。
「――罰、でございますか。山科のお公家様方は、その『罰』とやらでは腹が膨れぬと、お嘆きでしたわ」
鈴を転がすような、しかし氷のように冷ややかな声。
扉が静かに開かれ、そこへ、浅井家の奥を取り仕切る正室・お市が、音もなく入ってきた。
彼女は華美な着物を纏いながらも、その手には、婚姻の際に義姉・帰蝶から授かった、緻密な「利の目録」を携えていた。
「お、お市様……! 女人の入る場では――」
久政が狼狽えて声を上げるが、お市はその老いた顔を一顧だにせず、ただ真っ直ぐに、刑部坊を見据えた。その瞳には、帰蝶から受け継いだ「天を鳥瞰する冷徹な理」が宿っている。
「刑部坊様。貴僧が仰る『仏罰』とやらは、一俵の米、一銭の銅銭も生み出しませぬ。けれど、この目録にある『新道』は、初年度だけで浅井の蔵に、比叡山がこれまで削り取ってきた額の三倍の富をもたらしますわ」
お市は、刑部坊の足元に、流麗な筆致で書かれた一枚の書状を放り投げた。
そこには、新街道が稼働した際に予測される、北近江の各宿場への入金額が、一切の情を排した数字として並んでいる。
「神仏が道を塞ぐというのなら、浅井はその『損』を誰に埋めてもらうべきか。……まさか、貴僧が蔵を叩いて、この数千貫の銭を長政様に差し出されるのですか?」
すると、刑部坊は鼻で笑い、冷酷な眼差しを長政に向けた。
「……長政殿、惑わされるな。銭で動く民は、より多くの銭を出す者のために主を裏切る。だが、神仏への『恐れ』で結ばれた民は、泥を啜ってでも主に尽くすであろう。
神を冒涜し、銭を選べば、貴殿はこの小谷を、ただの『欲の掃き溜め』に変えることになるぞ。人心の荒廃こそが、真の仏罰よ!」
刑部坊の言葉に、長政の肩がびくりと跳ねる。統治者として、もっとも恐れる「民の離反」を突かれたからだ。
評定の間が、凍りついたような静寂に包まれる。
お市は、立ち往生している長政の隣にそっと寄り添った。そして、その震える大きな手を、自らの温もりで包み込んだ。
「長政様。……この数日、城下の子供たちの顔をご覧になりましたか?」
長政が、驚いたように妻を見る。
「かつて、彼らは山へ向かって、震えながら救いを祈っておりました。けれど今は、新道を通る荷車を見て、『明日は何が届くのか』と目を輝かせて笑っております。刑部坊様は、それを『欲』と呼び捨てましたが、私はそれを『希望』と呼びたいのです」
お市は、長政の目を見つめ、静かに、しかし断固として告げた。
「誰かに守られるだけの、古い義に殉じて滅びるのが、貴殿の望みなのですか? ……銭で死後の極楽を売る者に、この地の未来を渡してはなりません。真に神仏を冒涜しているのは、あの者たちではないですか。私は、浅井の妻として、そのような者たちよりも、笑う民と共にありたいのです」
長政の瞳に、宿っていた迷いの霧が、少しずつ晴れていく。 彼は、刑部坊が掲げる「神仏」という看板の裏側に、変化を拒み、民を縛り付けるだけの古い鎖を見た。
「……刑部坊、山へ帰るが良い」
長政の声が、評定の間の隅々にまで、染み渡るように響いた。
「俺は、織田と共に道を作る。それが、この地に生きる民への、真の『義』だ。……比叡山の規矩は、この小谷の峰より先へは、一歩も通さぬ。神に銭は不要であろう?」
刑部坊は、地獄の底から這い上がったような顔で、数珠をむしり取らんばかりに握りしめた。だが、その背後にいる僧兵たちは、すでに長政が放つ若き主君としての気圧に、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていた。
◆◆◆
数日後。
比叡山延暦寺は、ついに最後の手に出た。
数百の武装した僧兵が、法螺貝の音を響かせ、浅井領と山門の境界にある東岸街道の入り口に陣を敷いたのである。
彼らは黄金の衣を翻し、空を劈くような大音声で読経を唱え、道を塞いだ。
「不届きなる織田、および浅井の者共! この先は、神仏の呪詛が満ちる死地である! 一歩でも踏み込む者は、現世で病に伏し、来世で永劫の苦しみを受けるであろう!」
僧兵たちは、これまでの千年の歴史の中で、この「神仏の脅迫」によって、数多の王や武将を屈服させてきた。彼らは確信していた。どれほど理屈を並べようとも、この根源的な恐怖の前には、人はひれ伏し、再び「削り」を差し出すようになると。
だが。
「……あの方たちの声は、あんなに枯れているのに。どうして、誰も立ち止まらないのかしら」
小谷城の城壁から、遠く街道を見下ろしていたお市が、ふと、幼子のような無垢な声で呟いた。 街道の先から現れたのは、浅井や織田の軍勢ではなかった。 それは、見渡す限りの、無数の「商人の列」であった。
お市が、藤吉郎直伝の「現場の芯」たちへ、密かに銭を払い、新しい道の安全と利益を説いて回った成果が、いま、巨大な波となって押し寄せていた。商人たちは、道の中央で奇声を上げ、呪いの言葉を吐き続ける僧兵たちの前を、一瞬たりとも足を止めることなく、ただ平然と通り過ぎていく。
「どけ、どけ! 荷が遅れると、織田の役人に『整理』の烙印を押されるわい!」
「仏罰? 後の祭りだ、今の飯の種の方が大事だあ!」
一人の商人が、うるさそうに耳を穿りながら、僧兵の鼻先を荷馬車で掠めて通り抜ける。
僧兵たちがどれほど目を剥き、数珠を振りかざそうとも、彼らにとってそれは、ただの「道の邪魔になる騒音」に過ぎなかった。
信仰という名の絶対的な権威が、経済という名の「正しい仕組み」の前に、ただの古い紙屑へと変わっていく。 比叡山が築いてきた千年の恐怖が、誰にも、一顧だにされず、無視されていく。 それこそが、神を殺すよりも残酷な、織田の「掃除」の真骨頂であった。
「見てください、義姉上。……日ノ本から、澱みが消えていきますわ」
城壁の上、お市は帰蝶から贈られた算盤を一弾きした。 パチリ、という清々しい音が、秋の乾いた風に乗り、比叡山の無益な読経を軽やかに切り裂いていく。 お市の瞳は、狂信的な歓喜に濡れていた。
彼女は、義姉・帰蝶と同じ景色を、いま、確かに共有していた。




