第30話:比叡の呪詛
北近江、小谷城。
急峻な山肌に這うように築かれたその城廓は、常に湿った雲に呑み込まれ、木々の葉から滴る雨だれが、石垣の隙間に住まう苔を絶えず濡らしていた。
城内、広間。 磨き抜かれた床板は、外の暗い空を映して沈み込み、そこには重苦しい沈黙が、まるで澱んだ水底の砂のように堆積している。
その沈黙を切り裂いたのは、鋭く、しかし粘りつくような余韻を孕んだ、一人の高僧の声であった。
「長政殿。この小谷の地が、古来より誰の加護によって安寧を保たれてきたか、まさかお忘れではあるまいな」
比叡山延暦寺から遣わされた使者、刑部坊は、豪奢な金襴の法衣を揺らし、その深紅の刺貫の裾を苛立たしげに鳴らした。彼の背後には、数人の僧兵が控えている。彼らが握る薙刀の石突が、床に落ちるたび、低く、威嚇的な音が広間に響き渡る。
刑部坊の瞳は、修行によって澄んだものなどではなく、利権を冒された者のどろりとした執念に濁っていた。
「……山(比叡山)は、織田の不遜を断じて許さぬ。坂本を避け、東の岸に新たな大路を拓くなど、神仏の規矩を足蹴にするも同然。長政殿、貴殿がその新道普請を認め、織田の荷を通し続けるというのなら、この小谷の峰々には、明日より神仏の呪詛が満ちることとなろう」
呪詛。 その言葉が落ちた瞬間、長政の背後に控えていた重臣たちの間に、微かな、しかし確かな戦慄が走った。
長政の父、久政は、古びた数珠を握りしめ、青ざめた顔で何度も頷いている。彼らにとって、比叡山とは戦うべき敵ではない。それは、逆らえば家が、魂が、根こそぎ腐り落ちると信じ込まされてきた、抗えぬ「理不尽」そのものであった。
若き主、浅井長政は、上座でじっと拳を握りしめていた。
その端正な顔立ちは苦渋に満ちている。彼は知っていた。織田が拓こうとしている東岸の道が、どれほど近江の地に新しい富を運んでくるかを。だが、それ以上に、彼を縛る「義」という名の古い鎖が重かった。朝倉家への恩義、そして神仏への畏怖。
広間には、比叡山から持ち込まれた香の匂いが饐えたように漂い、新しい理を受け入れようとする若き芽を、じりじりと枯らそうとしていた。
◆◆◆
喧騒の広間から遠く離れた、奥御殿の一室。そこには、外の嵐のような緊迫など微塵も感じさせぬ、静謐な時間が流れていた。
浅井長政の正室、お市。
彼女は、塗り込みの文机の前に座り、広げられた一通の書状を、愛おしむように見つめていた。その書状は、岐阜城にいる義姉・帰蝶から届けられたもの。
そこには、新街道がもたらすであろう「銭の巡り」と、それによって無価値化される「古い関所の位置」が、冷徹な筆致で、まるで解剖図のように細かく描き込まれていた。
彼女にとって、帰蝶というお方は、暗闇の籠の中にいた自分に「天」を見せてくださった唯一の神に等しい。あの方が「この道が必要だ」と仰るのなら、それは世界の真理であり、疑う余地など一分もなかった。
(義姉上。あの方が、震える手で私を送り出してくださった。私に、この近江の澱みを掃除せよとお命じになられたのですよね)
お市の瞳には、周囲が絶世の美女と賞賛する、あの透き通った美しさの裏側に、どす黒いまでの情熱が宿っていた。それは狂気と言っても差し支えのない、純粋なまでの「信」であった。
ふと、お市は自らの美しい顔を、鏡の中に映した。 かつて藤吉郎から「人の面目こそが、人を動かす楔」だと教わった。
義姉上からは「美しさは、天が与えた強力な武器」だと教わった。 彼女は、自らの容姿さえも、帰蝶の望む「理」を実現するための資材に過ぎないと理解していた。
「……比叡山の僧たちが、長政様を脅しているとか」
お市は、鏡の中の自分に向かって、冷たく微笑みかけた。
「神仏の罰など、腹を満たさぬ言葉の礫に過ぎませぬ。義姉上がお示しになったこの地図には、そんな曖昧な影は、一文字も記されておりませんわ。……長政様、貴殿に必要なのは、古い情ではなく、明日を生きるための『正しい巡り』にございます」
お市は、おしろいの香りを纏わせた扇を手に取り、それを一気に畳んだ。 パチン、と乾いた音が、静かな部屋に響く。 それは、彼女の内側で何かが切り替わった合図であった。
彼女は、お市という名の「動かぬ目」として、小谷城という古い組織を、内側から食い破る準備を整えていた。
◆◆◆
翌日、お市は数人の侍女を連れ、身分を隠して小谷城を下りた。
向かった先は、北近江の平地、新しく普請が始まったばかりの東岸街道の建設現場である。
かつて、藤吉郎と共に美濃の市場を歩いたあの日。
お市は「人の芯」の見極め方を学んだ。 城の上から眺める領民は、ただの群衆に過ぎない。だが、その中へ入り、汗の匂いと土の重みを感じた時、初めて「何が彼らを動かしているのか」が見えてくる。
「見て、あの人たちを」
お市は、粗末な木綿の着物を纏い、人夫たちの群れの中に視線を投げた。
比叡山が「仏罰を下す」と恫喝しているはずの地。そこでは、数百人の男たちが、泥に塗れながらも、信じられぬほど活き活きとした声を上げ、巨大な石を運んでいた。
お市の目は、その群れの中から、一人の冴えない小柄な男を見つけ出した。 彼は声高に指図をするわけではない。ただ、重い土を担ぎながら、疲弊した仲間の肩を無造作に叩き、自分の竹筒――中身は水だろう――を差し出している。
彼が動くたび、周囲の人夫たちの顔に、微かな安堵の笑みが浮かぶ。あそこが、この現場の「芯」だ。
「……あの方たちは、比叡山の祟りを恐れてはいないのかしら」
侍女の一人が、不安げに呟いた。お市は、その問いに答えず、じっと人夫たちの手元を見つめた。
そこには、織田家から支払われる、銭があった。 そして、普請の合間に炊き出される、山盛りの白い飯。
比叡山の僧たちが唱える、目に見えぬ呪詛よりも、今、目の前にある「明日も食えるという確信」の方が、彼らにとっては遥かに重い理であった。
「神仏の威光も、腹を空かせた人にとっては、ただの空ろな風に過ぎませぬ。藤吉郎殿が仰った通り……人は『自分を正しく見てくれている』という安堵で動き出す。この普請こそが、彼らにとっての救いなのですわ」
お市は、その光景を自らの瞳に焼き付けた。
現場の土の匂い、男たちの荒い息遣い、そして石が地面に置かれる際の、大地を揺らすような確かな衝撃。 それこそが、義姉上が求めている「新しき日ノ本」の脈動であった。
城内では、僧兵が呪いの言葉を吐き、老いた臣下たちが震えている。
だが、城の外、この道の上では、すでに新しい理が、誰にも止められぬ勢いで大地を駆け始めていた。
(長政様。貴殿が守ろうとしている『義』は、あの方たちの空腹を満たせるのでございましょうか)
お市は、人夫たちから巻き上がる土埃の中に、岐阜で見つめたあの帰蝶の気高い背中を重ねていた。 彼女は確信した。
小谷城の澱みを掃き清めるために必要なのは、説得ではない。 この「現場の熱」を、冷徹な「利」として、長政の目の前に突きつけることだ。
お市は、再び侍女たちを促し、小谷の山へと足を進めた。
その足取りは、もはや籠の中の鳥のそれではなく、獲物を追い詰めるための、静かな、しかし確実な歩みであった。




