第29話:比叡の焦燥
降り続く秋雨は、琵琶湖の南西、坂本の町を灰色の帳で包み込んでいた。
比叡山の真下に位置するこの港町は、北陸の荷も、西国の富も、すべてが京へ入る前に一度は通り抜ける、日ノ本の「喉元」である。
坂本の関所には、今日も長蛇の列ができていた。
ずぶ濡れになった馬の背で、荷を運ぶ男たちが寒さに震えながら順番を待つ。その列の先では、筋骨隆々とした僧兵たちが、手にした槍の石突で地面を叩き、不遜な笑みを浮かべていた。
「次だ。……ほう、若狭の塩か。山の警固料として、二升分をここに削り置け」
塩は削り取っても目立ちにくく、換金性も高い。そして従わなければ京には入れない。
僧兵が、無造作に俵の脇を裂く。 こぼれ落ちる白い粒が、泥水に溶けて消えていくのを、持ち主の男はただ、恨めしげに見つめるしかなかった。
坂本は、神仏の威光を背負う者たちが、俗世の荷を差配する喉元である。
そこにあるのは、祈りの静寂ではない。
街道を往き来する馬の嘶きと、荷車の軋み、そしてそれらから「警固料」という名の通行料を剥ぎ取る僧兵たちの、野太い恫喝が支配する場所であった。
その坂本の関所に、織田の紋を掲げた小規模な荷運びの列が差し掛かった。
荷を積んだ大八車の車輪が、泥濘に足を取られて鈍い音を立てる。即座に、錫杖を構えた僧兵たちが立ち塞がった。
「止まれ。ここは王城鎮護の霊山、比叡山延暦寺の規矩が及ぶ地である。荷を改め、しかるべき冥加金を差し出せ」
僧兵の声は、濡れた岩を叩くような硬さを持っていた。
彼らにとって、この関所は不変の掟である。この地を通る荷はすべて山に捧げられるべき「削り」を供してきた。彼らに言わせれば「削り」と呼ぶその行為は、警固という名目で行われる、正当な分け前の要求であった。
だが、荷を引く男が差し出したのは、銭でも米でもなく、一通の巻物であった。
「これは、京の山科言継様より預かりし直状にございます。織田家は、山科様の正当な年貢の徴収を代行しておるだけ。公家様の看板を無視されるお積りか」
僧兵たちは鼻で笑った。これまでも公家は直状を出してきた。だが、そのたびに「山への敬意」という名目で、彼らは結局、荷の数割を掠め取ってきたのだ。
僧兵の指が、雨に濡れた巻物の端を握りつぶす。
「織田の田舎侍が何を抜かす。京へ行きたければ、この坂本を通る他に道はない。神仏の不入の権を汚そうというのなら、仏罰がその身を焼くと心得よ!」
僧兵たちの高笑いが、雨音を切り裂いて響き渡る。
彼らは信じて疑わなかった。この坂本という土地を握っている限り、誰であっても自分たちに頭を下げ、富を差し出し続けるのだと。
◆◆◆
岐阜城、奥書院。 室内では、殿と五郎左様の二人が対峙していた。
私は、冷めかけた茶を用意しながら、少し離れた影で、その密やかな「戦」の行方を伺っていた。
「殿。比叡山からの抗議、もはや呪詛の類にございます」
五郎左様が、山のような書状の束を、苦い顔で殿の前に置いた。
坂本での小競り合い。織田の荷を差し押さえ、人夫を殴り飛ばしたという報告。比叡山は、自らの特権を脅かす織田を、神仏の名において徹底的に弾劾していた。
「織田のせいで、自分たちの取り分――あの『削り』が失われることへの焦燥でしょうな。……殿、ここは一度、旧来の冥加金を払い、矛先を収めてもらうべきではございませぬか。上洛を前に、山を敵に回すのは――」
「無用だ」
殿は、五郎左様の言葉を最後まで聞かなかった。
のような抗議文を一瞥もせず、ただ机の上に広げられた近江の地図を、氷のような眼差しで見つめている。
殿の細長い指が、地図上の坂本を、まるで不要な汚れでも払うかのように弾いた。
「五郎佐。水は、淀んだ場所では流れぬ。無理に流そうとすれば、腐るだけだ。五郎左、お前は腐った水のために、俺の銭を払えと言うのか」
「……しかし、ここを通らねば京へは」
「道がないなら、作れ」
殿は、自らの腰に差した扇を取り上げると、地図の上に勢いよく広げた。
坂本の対岸――琵琶湖の東岸。草津から守山を抜け、比叡の影すら踏まぬ、広大な平地が広がる場所。
「東に新しい道を通せ。橋を架け、船を着けろ。京へ入るなら、湖の東を回れば良い。坂本という『淀み』と、一切の関わりを断て」
五郎左様が、絶句して殿を見つめた。
「……戦うのではなく、冥加金を払うのでもなく、無視、なされるのですか」
「戦う価値もない。あやつらは、自分たちが日ノ本の喉元を握っていると信じ込んでおる。その場所に価値があるというのは思い込みよ。神仏がなんだのと言ったところでその実、ただの古びた山にすぎん。五郎佐……、道を作れ。神仏の規矩が届かぬ、広くて速い道をな」
信長様の言葉には、怒りも、憎しみもなかった。
ただ、壊れた道具を直すのではなく、新しい道具を横に置くという、あまりに実務的で、あまりに冷酷な判断。
比叡山がどれほど槍を研ぎ、呪詛を吐こうとも、そこに「人」が通らなくなれば、彼らの特権は一夜にして、ただの紙屑に変わる。
暴力で寺を焼くよりも、はるかに残酷な「仕組み」の死。
「……承知いたしました。東岸の普請、直ちに段取りに入ります」
五郎左様が、戦慄を含んだ声で深く頭を下げた。
殿はすでに、興味を失ったかのように、地図を丸めて脇へ投げ捨てておられた。
◆◆◆
秋の冷たい雨は、東近江の湿った土をさらに重く、粘り気のある泥へと変えた。
私は、膝まで泥に浸かりながら、草津から守山へと続く平地のただ中に立ち、広げた図面と目の前の荒野を交互に見つめていた。
ここには古くからの細い野道があるばかりで、大軍や重い荷を積んだ車が通れるような規矩は、どこにも存在せぬ。
だが、私の背後には、美濃から徴収された数千の人足と、それを支える膨大な糧食、鋭く磨かれた数千の鍬と鋤がある。
「五郎左様、この先の沢、地盤が緩んでおりますだあ。土を盛っても、雨が降ればすぐに流れてしまいます」
泥まみれの藤吉郎が、鼻を啜りながら報告にくる。あやつは、現場の監督を任せると実に良い動きをする。
私は、腰に差した手帳を取り出し、墨をつけた筆でその場所を記した。
「流れるなら、石を敷け。この辺りの河原から丸石を運ばせ、層を成して積み上げるのだ。その上に砂利を敷き、さらに粘りのある土を被せて突き固める。
殿が求められる道は、ただの道ではない。二台の荷車が、一切の減速なくすれ違える『大路』でなければならぬのだ」
普請の音は、雨音さえもかき消さんばかりに響き渡っていた。
数百人の男たちが掛け声とともに大槌を振り下ろし、地面を固める鈍い音が、腹の底まで震わせる。木を伐り出す斧の音、運び込まれる石が触れ合う高い音、そしてそれらを差配する奉行たちの怒号。
私は、自らの目で一歩一歩、踏み固められた土の硬さを確かめて歩く。
ただ道を平らにするだけではない。道の両脇には深く溝を掘らせ、雨水が常に外へと逃げるようにしつらえた。水が溜まれば道は腐る。道が腐れば、荷が滞る。
さらに私は、街道沿いの村々から有力者を呼び集めた。
彼らに対し、殿の「規矩」を説く。この道を通る荷からは、坂本のような不当な『削り』を一切禁じること。その代わり、道の清掃と維持を請け負う村には、相応の商いの場と、織田の保護を約束すること。
「……五郎左様。これはもはや、単なる普請ではございませぬな。日ノ本の背骨を、作り替えておられるようだ」
藤吉郎が、完成しつつある真っ直ぐな道を見つめて、真剣な声で呟いた。
確かに、その通りかもしれぬ。 我らが作っているのは、比叡山の関所を避けるための、ただの迂回路ではない。古く、腐った神仏の威光を必要としない新しき世を通す路だ。
私は、冷えた指先で筆を走らせ、次の宿場の配置を書き込んだ。
地図の上に、殿が引いた線が、確かな土の匂いと石の硬さを伴って、大地に刻み込まれていく。その一歩ごとに、比叡山の坂本は、歴史の影へと遠ざかっていくのであった。
◆◆◆
数ヶ月後。
坂本の関所では、僧兵たちが、ますます激しくなる雨の中で苛立ちを募らせていた。 ここ数日、街道を通る荷が、目に見えて減っている。
「どうした、若狭の荷はどうした! 北陸の米はまだ来ぬのか!」
叫び声に答える者はいない。
ふと、関所の彼方を見つめた僧兵が、目を見開いた。
雨の向こう、琵琶湖の対岸。そこには、これまでになかった巨大な「動き」があった。
無数の篝火が並び、新しく築かれたばかりの平坦な道の上を、信じられぬほど多くの荷運びの列が、比叡山を一度も見向きもせず、滑るように京へと流れていく。
自分たちが守り続けてきた千年の道が、ただの「行き止まり」へと変わった瞬間であった。
僧兵たちの槍が、力なく地面に落ちる。
彼らがどれほど叫び、神の罰を説こうとも、その声は湖を渡る新しき道の喧騒に、かき消されて届かなかった。
「……これが、お館様と帰蝶様の、『掃除』にございますな」
坂本の路傍で、一人の男が寂しそうに笑っていた。




