第28話:藤吉郎の京営業(後編)
京の都。
その入り口に立った瞬間、わしの目に飛び込んできたのは、饐えた埃と、焼け跡に雑草が生い茂る、幽鬼の棲むような惨状だった。
かつては花の都と謳われた場所も、今や崩れた築地塀と、泥を啜って生きる浮浪者の溜まり場だ。 そんな中で、山科言継様の屋敷だけが、剥げかけた漆と、擦り切れた畳を晒しながらも、異様なほどの「雅」を保とうとしておらっせる。
屋敷の奥で対面した山科様は、扇で口元を隠し、冷めた目でわしを見下ろしているが、その扇の隙間から漏れる沈香の匂いも、この屋敷に染み付いた貧窮の匂いを消すことはできていねえ。
「これはこれは、美濃の猿殿。織田殿の使いが、我が家へ何用か。まさか、先日の書状の返事……すなわち、礼銭の届けに参られたのか?」
いかにも「いけず」な笑みだあ。
しかし、これ程までに露骨な物言いをされるとはなあ。銭を寄越せと、喉の奥で鳴っておる。
わしは、わざと泥のついた足袋を晒し、平伏しながら答えた。
「わはは! 山科様、わしのような卑しい者に、黄金などという眩しいものは持たせてはくれませなんだ。その代わり……近江の道端で、山科様の『お忘れ物』を拾って参りましただあ」
わしが合図をすると、供の者が、近江で「騙し取って」きた米の俵と銭の箱を、広間に運び込んだ。
山科様の瞳が、わずかに、しかし確実に血走ったのをわしは見逃さねえ。
「……これは、進藤の。あやつ、何年も年貢を納めなんだというのに、なぜ今……」
「近江の国人が、山科様に納めるのを忘れておった年貢にございますぞ。あやつら、信長様が来ると聞いた途端に腰を抜かして、わしにこれを託したんでさあ」
嘘八百。だが、実物が目の前にある以上、どんな言葉よりも説得力を持つ。
山科様は、震える手で俵の米を確かめ、喉を鳴らした。
「山科様。銭を一度もらって終わりにするか、それとも、今後もこうして織田の槍を使って、日の本の隅々から年貢を届けさせるか。……織田と、契約を結びませぬか?」
わしは懐から、帰蝶様が書き上げた一通の巻物を取り出した。
『徴収代行』。
それは、公家が織田に徴収の全権を委ねる代わりに、織田が武力をもって年貢を確実に届け、口銭を差し引くという契約。
山科様は、目の前の米と、目の前の猿を交互に見比べた。 ……公家が、目先の飢えを凌ぐために、代々守ってきた「土地の支配権」という看板を織田に手渡すようなものだ。
その瞬間の、じっとりとした静寂。屋敷の隅で雨漏りを受ける甕に、水滴が落ちる音だけが、やけに重く響く。
「……良かろう。織田の槍、我らが正当な徴収のために、貸すがよい」
山科様が筆を執り、巻物に一筆を書いた。
◆◆◆
数日後。岐阜城に届いた藤吉郎からの早馬には、契約済みの巻物が山ほど積まれていた。
私はそれを手に取り、織田家が中央の経済主権を事実上、買い取ったことを確信した。
書院には相変わらず、地図を睨みつける信長様の姿がある。
「公家様方の首に、鎖が繋がりましたわ。信長様」
私が報告すると、信長様は地図から目を離さぬまま、相変わらず人を馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「ふん。雀どもめ、『生きるための鎖』を自ら求めたか」
長秀様が「これで予算の懸念が消えました」と安堵する傍らで、私は窓の外に広がる岐阜の街を眺める。
暴力という名の槍に、「契約」という名の法的根拠が接ぎ木され、日ノ本は今、一つの巨大な「仕組み」へと姿を変えようとしていた。
だが、その仕組みが潤滑に回り始めれば始めるほど、私は拭いきれぬ一つの影を感じていた。
この書状に記された「正当な取り立て」という道理が、どうしても通用せぬ巨大な澱みが、京の北東に鎮座している。
比叡山延暦寺。
彼らは神仏の威光を纏い、「不入の権」という名の盾を掲げ、何百年もの間、街道を通るあらゆる荷から削り――中抜きを貪り続けてきた。
彼らにとって、織田の仕組みは自らの懐を潤す「警固料」という名の甘い汁を、理屈で奪い去ろうとする不遜な侵略に他ならないのだ。
帳簿の上で数字を整理するだけの私たちと、血の匂いのする沈香を焚き、槍を抱えて「神仏の罰」を説く彼ら。
合理という名の光が強くなればなるほど、その光が届かぬ比叡の闇は、より深く、より刺々しく、その牙を剥こうとしている。
私は、冷め切った茶を片付け、次なる規矩を定めた。
窓の外、雨に煙る北の空には、夜の帳とともに比叡の山影が、重く、のしかかるように横たわっていた。




