第28話:藤吉郎の京営業(前編)
岐阜城の一角、人目を忍ぶように設けられた奥書院。
開け放たれた隙間から吹き込む風は、すでに冬の訪れを予感させる冷気を帯び、室内で揺らめく行灯の火を絶えず不安げに揺らしていた。
室内には、丹羽長秀――五郎左様と、私の二人だけ。
使い込まれた文机の上には、幾枚もの書状が並んでいる。その紙の端は、秋雨の湿気を吸ってわずかに反り返り、そこに記された墨の色だけが異常なほど黒々と浮き上がっていた。そこへ、足音もなく、しかし確かな存在感を伴って、一人の男が滑り込んできた。
木下藤吉郎。
泥にまみれたその姿は、この城に流れる清冽な空気から浮いている。だが、その手だけは、先ほど五郎左様が差し出した書状を、壊れ物を扱うように慎重に受け取っていた。
「藤吉郎、急ぎ呼んだのは他でもない。殿より下された京への先触れ、その真の狙いを伝えるためだ」
五郎左様は、視線を台帳から外すことなく、淡々とした口調で命じた。
机の上に広げられたのは、山科家から預かった近江の荘園の目録である。そこには、本来届けられるべき年貢が、現地の国人たちの「未進」という二文字によって、数年にわたり途絶えている実態が示されていた。
「この未進分を、殿が上洛する前にすべて回収してこい。礼銭の代わりにそれを山科家に届ける。それが今回の役目だ」
藤吉郎様は目録を手に取り、その鋭い眼光で中身をなぞる。
一見すると卑屈にも見えるその顔に、一瞬だけ、かつて美濃を震撼させた梟雄より受け継いだ毒が閃いた。
「……承知いたしました。京の公家衆を黙らせる手土産、しかと作って参りますだに」
藤吉郎様はふわりと口角を上げた。その目は、すでに現場での立ち回りを計算し始めている。
◆◆◆
近江の街道沿い。立ち並ぶ村々はどれも、相次ぐ戦火に焼かれ、あるいは寺社や国人が勝手に設けた関所の重税に耐えかね、農民たちが山へ逃散した後の抜け殻だ。
耕作を放棄された田畑には枯草が項垂れ、賑わいは饐えた埃の匂いに取って代わられておる。
「……ひでえもんだ」
独り言が、白い息となって消える。
ここはもう、身の詰まった国じゃねえ。
関所ごとに銭を剥ぎ取られ、戦のたびに家を焼かれ、中身を烏に突かれ尽くして、形だけが残った『蝉の抜け殻』だあ。
秋の近江の冷たい雨が、泥道をじっとりと濡らす。
馬の蹄が跳ね上げる泥の重みが、わしの脛にべったりとまとわりついて、離れねえ。
道中に漂う湿った馬の毛の匂いと、雨に打たれて腐り落ちた枯草の、鼻を突くような臭気。それらが冷え切った肺腑の奥まで入り込み、わしの体温をじりじりと奪っていく。
わしはこの日、京へ入る前に一つ、大きな「仕掛け」をすることに決めていた。
向かう先は、この辺り一帯を牛耳る小領主――京の山科家がお持ちの「荘園」を、何年も前から横領し、年貢を納めず知らん顔をしておる進藤政綱の館だ
わしは館の門前に立つと、わざと泥まみれのままで、大声で喚き立てた。
「おーい! 織田家の上洛先触れ、木下藤吉郎だあ! お館様がお通りになる前に、道の掃除をしに来ただに!」
奥から出てきた進藤政綱は、手入れの行き届いた直垂を纏い、わしを不快げに睨みつけた。その眼には長年、この地の利権を守り抜いてきた男の、狡猾な光が宿っている。
「……織田か。騒々しいな。以前も伝えたはずだ。この地にはこの地の掟がある。山科家への年貢が滞っているのは、街道の警固に銭がかかるゆえだ。織田とて、武士ならばその苦労は分かるはずだがな」
進藤の声は低く、落ち着いておった。こやつ、自分を正当な「地の主」だと信じて疑ってねえだあ。
「旦那、いいのかに? ――わしはともかく、信長様は、そんな苦労話に耳を貸すようなお方ではないぞ。あの方は、道理に合わぬ澱みを嫌っておられる。この街道の巡りを滞らせる余計な関所や、横領を『無駄な費え』として根こそぎ切り捨てるおつもりだあ」
わしは懐から、適当な紙に信長様の筆跡を真似た印が押された「討伐目録」なるものを見せつけた。
その紙には、領主たちの名が羅列され、進藤の名の上には、無慈悲に『整理』とだけ記されておる。
「旦那、今までは『のらりくらい』やってこられたかも知れないがね、選ぶ必要があるだ。上洛の際、この館が『整理』の対象として、信長様の目にとまるのを待つか。
それとも今のうちに、山科家への滞納分を『清算金』としてわしに預け、織田の掟に従う意志を見せるか。脅しっちゅうわけじゃあねえが……旦那、命の値段を値切っちゃあいけねえだあ」
目録は真っ赤な嘘だあ。だが、今川の大軍を寡兵で打ち倒し、続け様に美濃をも呑み込んだ信長様の噂は、この近江にも響き渡っておる。
進藤の顔が、みるみるうちに土色に変わっていくのが、はっきりと分かった。
雨音だけが、やけに大きく館の庭に響く。
「ま、待て……分かった。滞納分、すべて今すぐ用意させる。だから、その……織田殿には、進藤はすでに恭順し、不義理は清算したと、しかと……しかとお伝え願いたい!」
「わはは! 物分かりが良くて助かるだあ。これはお館様が通るまでの、わしが一時預かりだに」
こうしてわしは、正式な権を得る前に、信長様への畏怖を借りて山科家への「未進分」を回収しただあ。
これを持って京へ乗り込めば、あのお高いお公家様たちの首を縦に振らせるのも、容易いもんだに。
後編は明日の朝に投稿します!




